広島 蔦屋書店が選ぶ本 VOL.128

蔦屋書店・犬丸のオススメ『ピダハン「言語本能」を超える文化と世界観』ダニエル・L・エヴェレット 著, 屋代 通子 翻訳/みすず書房

 

 

ある「モノ」や「コト」を比べ、片方が、もう一方に足りていない場合。それを、未熟だとか劣っていると、どこかで考えてしまってはいないだろうか。

 

ブラジルの熱帯雨林に、ピダハンと呼ばれる先住民が住んでいる。南米の先住民といえば、写真集で見られるような、色鮮やかな衣装や化粧などを思い浮かべるかもしれない。だが、ピダハンには、そのような文化はなく、抽象的な神も存在しない。彼らは、豊かなジャングルに流れる河の近くに住み狩猟採集で生活をしている。そして、ピダハン語という独自の言語で話す。

 

著者のダニエル・L・エヴェレットは、もとはといえばキリスト教の宣教師として、ピダハンの村に赴いた。そこで、聖書をピダハン語に翻訳し、ピダハンの人々に教えを伝えられるようにするために、現地でピダハン語の研究に取り組む。

ピダハンの村に入るのは、なにもダニエルが初めてというわけではない。前任の宣教師もいた。だがダニエルほど、ピダハンの村に通い、彼らと共に生活し、言語と文化を理解しようとした人はいないであろう。

 

ピダハンの人々とダニエルの間には、共通言語がない。そのため、ある単語が何を示すのか、会話の中から分析していくほかない。例えば、棒きれを拾い上げ「枝」と言い、言ってもらう。次に、棒きれを落とし「わたしは『枝』を落とした」と言い、言ってもらう。そして、「枝」の前後に続く単語が何を示し、どうつながり、文章となるのかを分析していく。

 

一見、単純な作業にも感じられるが、これはとても難しい。言語はオセロのように簡単に白から黒へと置き換えることができるようなものではないからだ。わたしたちが普段あたりまえに使う要素がピダハン語にはない。

数がない。色名がない。右と左の概念もない。

ならば、ピダハン語とは、未熟な言語なのだろうか。そう感じるのは、わたしたちがわたしたちの文化でピダハン語を理解しようとしているからだ。未知の言語を理解することとは、未知の文化を理解することともいえるだろう。

 

ピダハンの人々が語るのは、直接経験だ。数も色も抽象的な概念でしかない。数を必要としないのは、数でまとめるのではなく、見たものを個々で識別しているからだろう。色を認識できないのではなく、抽象的な色名にまとめることがないだけだ。色は、それぞれ説明的な言い方で表現される。右と左も、わたしたちが自分の身体を中心にして方向を語っている。ピダハンの人々は自分の身体とは別の外部に方向の指標を置く。森の中の分かれ道で「(河の)上流へ行け」と、仲間に指示をする。木々が生い茂るジャングルでは、地形を指標にして方向を伝える方が適格だ。

他にも、音素、音韻、文法など、興味深い点はいくつもあり、ここでは書ききれない。

 

ピダハンの人々には、結局、抽象的な神は必要なかった。直接経験の原則から言えば、直に体験できない神の話など無意味となる。ダニエルが大切にしてきた、教義や信仰は、彼らの文化の文脈では的外れだ。直接経験に重きを置くピダハンの人々は、物事をあるがままに受け入れる。彼らが信じるのは、神ではなく、自分自身だからだ。

 

ダニエルも、信じていた神の話をいかがわしい迷信のように感じてきてしまう。そしてとうとう、神を捨て、無神論者となった。ダニエル自身、神という外部の権威に従うことから自由になったのだ。

 

言語とは、伝えるために自然発生したものだろうか。

それ以上に、それぞれの文化、社会、環境と言語が相互に密接な関係を持ち、形成されてきたように思える。それぞれの人々がそれぞれの文化の中で語る言語は、どれも素晴らしい。どちらか一方の価値観を押し付けることなど、なんの意味もない。経済などの理由から、言語を統一する、または、言語を取り上げるなどということに疑問を感じる。

ひとつの言語が消えることは、ひとつの文化が消えることだ。

ピダハンの人々の、音楽にも似た言葉や笑い声が、ジャングルのなかをゆるやかに流れていく。

 
 
 
 
 

 

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