【第270回】間室道子の本棚 『私だけの水槽』松井玲奈/朝日新聞出版

「元祖カリスマ書店員」として知られ、雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする、代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ・間室道子。
本連載では、当店きっての人気コンシェルジュである彼女の、頭の中にある"本棚"を覗きます。
本人のコメントと共にお楽しみください。
 
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『私だけの水槽』
松井玲奈/朝日新聞出版
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一編一編が水槽のようなエッセイ集。

「日常を切り取った文章」って、読み手は空気の向こうにあるその人の日々を見ることになる。でも松井玲奈さんのこの一冊は、水がはりめぐらされたガラス越しに彼女をのぞいているよう。

奇しくも本書には、舞台というものについて、「感情が垂れ流された状態はお客様に見せられる芝居ではない」という一文がでてくる。それと同じで、「ただのそのまんま」ではどんな有名人のできごとであっても読者は退屈してしまうだろう。すぐれた表現者は、一見「普段」を見せているようでいて、それを包むクリアで強度のあるもの――文体とか行間とか呼ばれるものに工夫がある。それが「読ませる!」という効果になるのだ。

閑話休題、松井さんは、水中のほうが呼吸がしやすそう(!)。彼女はおそらく身の周りを書き、自身で読み、さらに多くの読者に届けることで己を整えているのだ。エッセイに登場するのは著名人のインスタとかブログとかによくある「わたしの輝かしい一片」ではない。どちらかというと「傷」に近いものたち。私が心を揺さぶられたのは七つ目の「ギフト」だ。

連続公演中のある日の、本番まであと一時間という時、松井さんにお母さんから電話が入る。知らせは彼女を打ちのめす。記憶のふたが次々開き、涙が止まらない。でも「それでも幕は上がるのだ」。

その日の彼女は役が全身に乗っかり、すさまじい回となった。冒頭に書いたような「感情が垂れ流されました」ではない。松井さんが「本当の私として」となるのは、楽屋に戻った後なのだから。

たしかにコントロールが難しい事態にはなった。でも松井さんが「役」をまっとうした証明は仲間たちの反応だ。公演期間の折り返しの頃、みんながこぞってあの日について、”こっちまでエネルギーをもらった””ぜひあれをまた!”と口にするようになったのだ。百戦錬磨の役者たちは、己をダダ漏れさせた者にこんなことは言わないだろう。

「当日に何が」は打ち明けていない。苦しみから噴出したものがほめられ「もう一度!」と言われるジレンマに松井さんは揺れる。なにかを察したらしい先輩共演者が後日声をかけてきて、ハッとさせられるアドバイスをくれた。それは・・・。

この助言はおそらくどこかの演劇メソッドにあるはずで(なにせ演劇というものが誕生して2500年くらい経っているのである!)「そんなこと、今知ったの?」と意地悪な見方をしてくる人もいるだろう。だがこれまた奇しくも本書には、「好き」のエピソードがある。

最終章に出てくるのだが、松井さんには「私はいつも少し流行遅れ」という思いがあった。サッカーファンになったのも、マーベル作品にハマったのも最近なのだ。でも友人は言ってくれた。「何かを好きになることに早いも遅いもないんだよ。好きになった時があなたのベストタイミング」。

俳優・松井玲奈の今後の芝居を変えていくであろう先輩共演者からのアドバイスを、「ギフト」の状況で得た。これが彼女のベストタイミング。

こんなふうに、ある章での苦悩にある章で自ら答えを見つけてる、そんな不思議なコール&レスポンスが本書には時々ある。もどかしさもままならなさも、じっと見つめ、澄ませて、自分と読み手に沁み入らせる。

「透明を深める」。そんな言葉がふと浮かんだ。松井さんのこれからの演技にも、書くものにも当てはまりそう。
 
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代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ
間 室  道 子
 
【プロフィール】
雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする「元祖カリスマ書店員」。雑誌『婦人画報』、『Precious』などに連載を持つ。書評家としても活動中で、文庫解説に『蒼ざめた馬』(アガサ・クリスティー/ハヤカワクリスティー文庫)、『母性』(湊かなえ/新潮文庫)、『蛇行する月』(桜木紫乃/双葉文庫)、『スタフ staph』(道尾秀介/文春文庫)などがある。

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