【第313回】間室道子の本棚 『ほんのささやかなこと』クレア・キーガン 鴻巣友季子訳/早川書房

「元祖カリスマ書店員」として知られ、雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする、代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ・間室道子。
本連載では、当店きっての人気コンシェルジュである彼女の、頭の中にある"本棚"を覗きます。
本人のコメントと共にお楽しみください。
 
* * * * * * * *
 
『ほんのささやかなこと』
クレア・キーガン 鴻巣友季子訳/早川書房
※画像をクリックすると購入ページへ遷移します。
 
* * * * * * * *
 
帯に「秘密を知った男」「沈黙か行動か」とあって、読む前から胸が痛む。

舞台は1985年のアイルランド。主人公のファーロングは自分の店を持ち。男たちを雇い、石炭や薪を売って暮らしている。時期はクリスマス。樅の木、イルミネーションで飾られる町、聖歌隊の歌声、妻と五人の娘がいる慈愛に満ちた家。

不景気は押し寄せている。のんだくれ、失業者の列。司祭宅の裏手の猫用ミルクと少年のショッキングなエピソードもでてくる。ファーロングの頭にはつらかった過去も浮かぶ。母親が独身のまま自分を産み、父のいない子供だったのでいじめられていたのだ。でも、ものすごくツイてもいた。今は亡き働き者の母、人生の防波堤になってくれた人たち。

これらが光輝くような文章で続いており、だからこそ胸がよじれる。だってこの明るさ、あたたかさが、じきにこわれるんでしょう?「秘密」とか「沈黙」あるいは「行動」のせいで。なにも起きない前からもう泣きそう。

閑話休題、隠しごとを知られちゃった強者が知っちゃった弱者=彼をオドすんでしょ、いたましい話は苦手、という方々、ご安心ください。本書は皆さんが予想するような展開ではないの。ファーロングが対峙するのは自分自身なのである。

顔、姿、鏡にかんするシーンがくりかえし出てくるのが印象的だ。彼は幼少期、年かさの男たちをじっと見ていた。自分と似ていないか、ぼくの父親ではないかと思って。ある場所では、彼の姿が映るくらい鍋のおもてがピカピカに磨き上げられている。ミサに行く前、ひげを剃り、髪をととのえ、彼は鏡の中の自分の目をまじまじと見る。家具店の全身鏡や、床屋が鏡越しに彼に挨拶してくる場面もある。

秘密について、わたしがあっと思ったのは、「知らぬはファーロングばかりなり」だったことだ。うわさはあったけど、実直な彼は聞き流していたのだ。でも妻も近所の食堂の女性店主も気づいていたし、ラスト近くでは、町のみんなもうすうす、とわかる。

ファーロングの妻は「この件とわが家、うちの娘たちはなんの関係もない」と言い放つ。でも彼のほうが感じているのはおそらく、「紙一重」。秘密の光景のなかにいたのは、自分の愛する人や自分だったかもしれないという実感。

彼が日ごろ過去に思いを飛ばしたり、あったかもしれない人生を夢想したりするのは、上出来すぎる今の人生は強固ではない、というゆらぎの中で生きているからなんだろう。だから年齢も性別も出身も今の状況もまったく異なる秘密の存在に、「自分」を見て取ることができたのだ。

色とりどりの電球が輝く町やほほえましい家族の場面以上に、私はラストシーンがいちばん美しいと思った。これから彼にふりかかるものを考えると恐ろしい。でもこの物語は希望で終わっている。人生で何が嫌かって、鏡に向かうたび、そこに悔いと恥があることだと思う。ファーロングはこれからも、自分の顔をまっすぐ見て生きる道を選んだのだ。

事実に基づいた小説。2025年映画公開。
 
* * * * * * * *
 
(Yahoo!ショッピングへ遷移します)
 
 
代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ
間 室  道 子
 
【プロフィール】
ラジオ、TVなどさまざまなメディアで本をおススメする「元祖カリスマ書店員」。雑誌『Precious』、『Fino』に連載を持つ。書評家としても活動中で、文庫解説に『蒼ざめた馬』(アガサ・クリスティー/ハヤカワクリスティー文庫)、『母性』(湊かなえ/新潮文庫)、『蛇行する月』(桜木紫乃/双葉文庫)、『スタフ staph』(道尾秀介/文春文庫)などがある。

SHARE

一覧に戻る