【第341回】間室道子の本棚 『三頭の蝶の道』山田詠美/河出書房新社
「元祖カリスマ書店員」として知られ、雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする、代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ・間室道子。
本連載では、当店きっての人気コンシェルジュである彼女の、頭の中にある"本棚"を覗きます。
本人のコメントと共にお楽しみください。
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『三頭の蝶の道』
山田詠美/河出書房新社
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かつて女性の書くものが男たちのそれより一段低いとされ、「女流」と呼ばれていた時代があった。サベツとして使われていたかもしれぬが、「オトコには思いもよらない方法で」と脳内で翻訳すれば、この呼び名、私はわるくないと思っている。
閑話休題、著者・山田詠美さんは、「ザッツ、女流」であった偉大なる先人たちにふれることができた最後の世代で、物語にはあれやこれがてんこ盛り。もちろん本書は小説、創作である。でもワイドショー好きな私はどうしたって、えーと、これは誰のことですか!?に頭が。
かっちりしたモデルがいて、この人についてはぜんぶが事実、というふうではない。詠美さんが観察、目撃、時にのぞき見してきた文学に生きる人々のエッセンスを、どの登場人物に、どんなタイミングで、どういう濃度で振りかけるか。采配がエレガントで絶妙。
「平原啓一郎」という「ほぼ、もろ」もいれば、八十過ぎてる設定だけど、これは現在六十代で「老人の皮をかぶった青二才」と呼ばれているあの方では?と予想できる人もいる。そして、きゃー、「山下路美」!
詠美さんの最新作をそんなお下劣な読み方をするなんて!とオコられるかもしれない。でも本書には堂々、「日本文学は、ゴシップの歴史なのよ」というせりふが出てくるのである!
ここで私は「ゴシップ」の語源を調べてみた。もともとは「名づけ親」という意味で、キリスト教にはくわしくないが、洗礼式で赤ちゃんの洗礼名をつけてくださいって親戚から頼まれるって、名誉だと思うの。で、そういう血族の重鎮たち(!)がなにかで集まった時、高尚な話をしてるかというとそうではなく、あそこの息子はあーだとかうちの近所はこーだとかのうわさ話。というわけで、私の考えでは、ゴシップ=GOD+SIBB(親戚)は、神がゆるしたもうた男女混合井戸端会議の水源なのである!
ふたたび閑話休題、本書は三人の女流の葬式の話でもある。この人たち以外招んでくれるな、とごくわずかな作家の名前を言い遺していた人の静かな告別式。同世代だった女流の葬儀のあと、思い出の場所で、自分の「文学的初恋」を終わらせる男性作家。芸能人やスポーツ選手など各界の著名人が大勢出席し、記念祝賀会のようなにぎやかさに満ちていた、ある「送る会」。
いずれにしろ、親族とともに作家、編集者が集まってきて、場の片隅で、帰り道で、最寄駅前の食堂兼居酒屋で、それぞれが思い出す、口にする、ゴシップの数々。
夢中で読んでいるうち、「この人は誰?」をさぐるのは無意味と気づいた。だって、ぜんぶ詠美さんなんだから。
誰の発言であれ、読み手に刺さるするどさ(「作家の才能は、人間をいびつにするものなの」「鬼は大人しく小説でも書いていたらいい」)、各章のラスト一行のとどめ(「だって番人ですもの」)etc、ぜんぶ詠美さんが読む側に放った言葉。本書の「ほんとう」とは、「すべて山田詠美の目と体を通ってでてきた物語」ということだ。
ご葬儀には人が集まってくる、と書いたが、お弔いの真髄は孤独にある。自分と死者、一対一。そして作家にとって、もっともひとりになるのは書くときだ。本書は詠美さんが三人の女流に向け、ひとりきりでするお葬式なのだ。二つの意味があると思う。送り出すことと、あなたがたをなかったことにはしない、ということ。
登場するさまざまな視点のベースに、山田詠美というたったひとつの「じっと見てきた目」が光る。まなざしは、一本の道みたいだ。
閑話休題、著者・山田詠美さんは、「ザッツ、女流」であった偉大なる先人たちにふれることができた最後の世代で、物語にはあれやこれがてんこ盛り。もちろん本書は小説、創作である。でもワイドショー好きな私はどうしたって、えーと、これは誰のことですか!?に頭が。
かっちりしたモデルがいて、この人についてはぜんぶが事実、というふうではない。詠美さんが観察、目撃、時にのぞき見してきた文学に生きる人々のエッセンスを、どの登場人物に、どんなタイミングで、どういう濃度で振りかけるか。采配がエレガントで絶妙。
「平原啓一郎」という「ほぼ、もろ」もいれば、八十過ぎてる設定だけど、これは現在六十代で「老人の皮をかぶった青二才」と呼ばれているあの方では?と予想できる人もいる。そして、きゃー、「山下路美」!
詠美さんの最新作をそんなお下劣な読み方をするなんて!とオコられるかもしれない。でも本書には堂々、「日本文学は、ゴシップの歴史なのよ」というせりふが出てくるのである!
ここで私は「ゴシップ」の語源を調べてみた。もともとは「名づけ親」という意味で、キリスト教にはくわしくないが、洗礼式で赤ちゃんの洗礼名をつけてくださいって親戚から頼まれるって、名誉だと思うの。で、そういう血族の重鎮たち(!)がなにかで集まった時、高尚な話をしてるかというとそうではなく、あそこの息子はあーだとかうちの近所はこーだとかのうわさ話。というわけで、私の考えでは、ゴシップ=GOD+SIBB(親戚)は、神がゆるしたもうた男女混合井戸端会議の水源なのである!
ふたたび閑話休題、本書は三人の女流の葬式の話でもある。この人たち以外招んでくれるな、とごくわずかな作家の名前を言い遺していた人の静かな告別式。同世代だった女流の葬儀のあと、思い出の場所で、自分の「文学的初恋」を終わらせる男性作家。芸能人やスポーツ選手など各界の著名人が大勢出席し、記念祝賀会のようなにぎやかさに満ちていた、ある「送る会」。
いずれにしろ、親族とともに作家、編集者が集まってきて、場の片隅で、帰り道で、最寄駅前の食堂兼居酒屋で、それぞれが思い出す、口にする、ゴシップの数々。
夢中で読んでいるうち、「この人は誰?」をさぐるのは無意味と気づいた。だって、ぜんぶ詠美さんなんだから。
誰の発言であれ、読み手に刺さるするどさ(「作家の才能は、人間をいびつにするものなの」「鬼は大人しく小説でも書いていたらいい」)、各章のラスト一行のとどめ(「だって番人ですもの」)etc、ぜんぶ詠美さんが読む側に放った言葉。本書の「ほんとう」とは、「すべて山田詠美の目と体を通ってでてきた物語」ということだ。
ご葬儀には人が集まってくる、と書いたが、お弔いの真髄は孤独にある。自分と死者、一対一。そして作家にとって、もっともひとりになるのは書くときだ。本書は詠美さんが三人の女流に向け、ひとりきりでするお葬式なのだ。二つの意味があると思う。送り出すことと、あなたがたをなかったことにはしない、ということ。
登場するさまざまな視点のベースに、山田詠美というたったひとつの「じっと見てきた目」が光る。まなざしは、一本の道みたいだ。

代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ
間 室 道 子
【プロフィール】
ラジオ、TVなどさまざまなメディアで本をおススメする「元祖カリスマ書店員」。雑誌『Precious』に連載を持つ。書評家としても活動中で、文庫解説に『蒼ざめた馬』(アガサ・クリスティー/ハヤカワクリスティー文庫)、『母性』(湊かなえ/新潮文庫)、『蛇行する月』(桜木紫乃/双葉文庫)、『スタフ staph』(道尾秀介/文春文庫) 、『プルースト効果の実験と結果』(佐々木愛/文春文庫)などがある。
