【第342回】間室道子の本棚 『遺された者たちへ』マッテオ・B・ビアンキ 関口英子訳/新潮社

「元祖カリスマ書店員」として知られ、雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする、代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ・間室道子。
本連載では、当店きっての人気コンシェルジュである彼女の、頭の中にある"本棚"を覗きます。
本人のコメントと共にお楽しみください。
 
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『遺された者たちへ』
マッテオ・B・ビアンキ 関口英子訳/新潮社
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十数年前、旅先のフィンランドでパスポートを無くした。浮かれて疲れていた夕方、落としたかスラれたかしたらしい。ホテルの部屋に戻り、ない、とわかった時の衝撃。そこから急に具合が悪くなった。嘔吐感、動悸と頭痛。めまい。旅の命綱を無くしたうえに病気にまで?

幸運だったのは、お金とカードがぶじだったのと、居たのが首都ヘルシンキであったこと。顔は土気色、目がおちくぼんだ状態でえずきながら翌朝日本大使館に向かった私の手には、三時間後には白の代替品(「旅券再発行」はたいへんらしいが、「もう日本に帰ります」と言うと、1回限り、帰国のみに使える白いパスポートが交付される)があったのだった。

そして体調不良は霧散していた。なくしたうえに病気に?!ではなく、なくしたから病気にみたいになっていたらしい。

で、思ったの。どうしてガイドブックには「パスポートを紛失すると吐き気に襲われたりゾンビみたいな見た目になったりすることがあります」って書いてくれないんだろうって。あるのは「手続き」だけ。そりゃあショック症状に個人差はあるだろう、でもこんなに旅本が刊行されてるんだから、どれか1つくらいは・・・。

前置きがたいへん長くなったが、本書は愛した彼氏に自殺されてしまった「僕」ビアンキの自伝的小説である。1998年秋、7年付き合って3か月前に別れ、家を出ていったSが自死した。なぜ、と考えたくなる場所で。

「僕」は文学にすがろうとする。でも本屋や図書館にあるのは登場人物が命を断つ話か自殺の研究や心理分析の書が大半で、遺された者をテーマにしたものはなかった。

本書は日記や手記ではない。だから時系列はばらばらで、急に思い出す感じや揺り戻しが読み手をリアルにえぐる。「Sは助けを求めていたというのに、僕はそれを拒絶した。僕は怪物だ」という記述の22ページ後には「Sが憎い。あんなことをした彼がひどく憎い」「S、おまえは最低だ。人でなしだ。自分のことしか考えてないじゃないか。ちくしょう」という記述がある。スイス国境近くの山小屋で過ごした雪の週末、夏でも真冬でも素っ裸で寝る習慣だったSがそのままの姿で外に出る暴挙をやらかしたあと、笑いながら僕のいる毛布の下に潜り込んできた追憶の26ページあとに、Sがどうやって死んだかが書かれる。

友人たちからのなぐさめ、Sの元妻の葬式での様子(彼には結婚歴があり息子もいた)、心理療法、スピリチュアル方面にもいったことなどさまざまがでてくるけど、わたしがぐっときたのは小さなふたつだ。

一つは、「僕」を訪ねてきた母親と乗ったエレベーター内で起きたこと。そこにいた近所の女性二人が「悲惨な出来事があったの、ご存じ?」「男の人が自殺したって話?聞いたわ」とうわさ話を始めたのだ。その時、お母さんは。

もう一つは、「僕」は執筆しながら広告代理店に勤めており、ある日の会議後とつぜん涙の発作に襲われる。会社には複数のエレベーターがあるから階段はさほど使われない。そこでしゃがみこみ、泣きじゃくっていると、下から足音がする。のぼってきたのは会社のナンバースリーだった。三番めにえらいこの人はどうしたか。

人生のものすごいつらさに芯から寄り添うのは、こんなごくごく個人的なエピソードではないかと思えた。ささやかな勇気や思いやり。それが「明日までもう一日」を続けさせるのだ。

後半にも揺り戻しはある。いたましい断片はあいかわらず連なる。でも、読み手である自分と「僕」がじょじょに回復しているのがわかる。「ミネラルウォーターのケースの話」に感じるのは、衝撃ではなく哀切だ。そしてラスト、「僕」は、絶対忘れられるはずのないことを――。

ビアンキは本書を発表するのに25年の時を要した。その長さが沁み入る。
 
 
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代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ
間 室  道 子
 
【プロフィール】
ラジオ、TVなどさまざまなメディアで本をおススメする「元祖カリスマ書店員」。雑誌『Precious』に連載を持つ。書評家としても活動中で、文庫解説に『蒼ざめた馬』(アガサ・クリスティー/ハヤカワクリスティー文庫)、『母性』(湊かなえ/新潮文庫)、『蛇行する月』(桜木紫乃/双葉文庫)、『スタフ staph』(道尾秀介/文春文庫) 、『プルースト効果の実験と結果』(佐々木愛/文春文庫)などがある。

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