【第352回】間室道子の本棚 『キャベツ炒めに捧ぐ リターンズ』井上荒野/角川春樹事務所
「元祖カリスマ書店員」として知られ、雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする、代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ・間室道子。
本連載では、当店きっての人気コンシェルジュである彼女の、頭の中にある"本棚"を覗きます。
本人のコメントと共にお楽しみください。
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『キャベツ炒めに捧ぐ リターンズ』
井上荒野/角川春樹事務所
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登場するのは総菜店「ここ家」の三人で舞台は正編から五年後。彼女たちは六十代半ばになっている。
六十歳で結婚して数年目、なにやら家を空けがちになった夫との暮らしに疑問を抱き始める麻津子。以前に息子を、そして近年夫を亡くし、ようやく一人暮らしに慣れてきた今、自分のくるくる変わる趣味の奥底にあるものは、と考えはじめる郁子。「ジェントルマン」とあだ名をつけた「ここ家」の上品な客にアプローチされる江子。
ほかのふたりに言ってもいいのになぜか言えない。そんな小さな秘密、胸の内を抱えた彼女たちに「ここ家」存続の危機が!
読みどころはまず料理の書かれ方。通常、美味なものがつぎつぎ出てくる小説って、「一粒一粒が白く光り」とか「さくさく」とか「スパイスが鼻腔を駆け抜ける」とか「舌にからみつく肉汁の濃厚さ」とか、色、食感、香り、味を、これでもかと表現しがち。
でも井上荒野さんが書く「ここ家」のお惣菜は名前だけ。しかも「ふわとろ」とか「あったか」とかデパ地下やファミレスでよく見る形容もなし。素材と組み合わせと調理法のみ。それでめっぽうおいしそうなのだ。たとえば、 「なすとピーマンの鍋しぎ」「里芋のコロッケ」「グリーンピースと海老の塩炒め」「鯖のにんにく醤油揚げ」「カリフラワーと鮭のクリーム煮」「金時豆とチョリソー煮込み」
荒野さんは人間の原始的能力にうったえかけているのだ。証拠は、麻津子が山で採ってきた淡竹を見る江子と郁子の場面。
「なにこれなにこれ!」
「筍よね?こういうの、はじめて見たわあ」
見たことがなくても、「おいしいものだ」ということはしっかりとわかるらしい。
イマドキは「自分の知らないことを言われるとオコる」という習性の方が増えてるらしく、「鍋しぎって何なの?カーッ」とか「金時豆、わかんない、キーッ」となる人もいるかもしれぬ。でも荒野さんは少なくとも食いしんぼうなら無くしていない「これは食べられる。しかもうまそう」という本能、執念、欲望に懸けている。シンプルに信頼している。食の名エッセイで知られる亡き向田邦子さんを思い出した。アマゾン河を見て味噌汁を思う向田さん(同じような茶色だったのだ!)も「おいしそうな表現」に凝ることはなかった。「とろろ芋を千切りに刻んで、なめ茸をちょんとのせて」。もうそれだけでおいしい。
閑話休題、もうひとつの読みどころは料理の「暴力代用」について。物語の半ばでサングラスの男が右の掌を町内コミュニケーションセンターの十畳の和室の机にたたきつける。後半ではある青年が会社のデスクを殴る。前者は威嚇、後者は形を変えたガッツポーズ(?)である。でも物騒で手が痛いだけだ。
一方ある夕方、麻津子は自宅の台所で本枯節を鰹節削り器で削る。パック入りもあるが、腰を入れ、シャーッ、シャーッと。「削っているのは、べつのもののようでもあった」という一文がいい。次に彼女は鶏と海老と椎茸を包丁で細かくしていく。フードプロセッサーを持っているけれど、包丁をダンダンダンと俎板に打ちつけたいのである。で、結果、出汁がとれ、つくねができあがる。
「ここ家」の運命および、麻津子、江子、郁子、三人それぞれの騒動を読みながら、生き方とは決意の仕方なのだ、と思った。年齢は関係ない。「進む道をどうするか考えるのは高齢だからやめておけ」なんてことはないんだから。
また彼女たちに会いたくなるにぎやかな小説。
六十歳で結婚して数年目、なにやら家を空けがちになった夫との暮らしに疑問を抱き始める麻津子。以前に息子を、そして近年夫を亡くし、ようやく一人暮らしに慣れてきた今、自分のくるくる変わる趣味の奥底にあるものは、と考えはじめる郁子。「ジェントルマン」とあだ名をつけた「ここ家」の上品な客にアプローチされる江子。
ほかのふたりに言ってもいいのになぜか言えない。そんな小さな秘密、胸の内を抱えた彼女たちに「ここ家」存続の危機が!
読みどころはまず料理の書かれ方。通常、美味なものがつぎつぎ出てくる小説って、「一粒一粒が白く光り」とか「さくさく」とか「スパイスが鼻腔を駆け抜ける」とか「舌にからみつく肉汁の濃厚さ」とか、色、食感、香り、味を、これでもかと表現しがち。
でも井上荒野さんが書く「ここ家」のお惣菜は名前だけ。しかも「ふわとろ」とか「あったか」とかデパ地下やファミレスでよく見る形容もなし。素材と組み合わせと調理法のみ。それでめっぽうおいしそうなのだ。たとえば、 「なすとピーマンの鍋しぎ」「里芋のコロッケ」「グリーンピースと海老の塩炒め」「鯖のにんにく醤油揚げ」「カリフラワーと鮭のクリーム煮」「金時豆とチョリソー煮込み」
荒野さんは人間の原始的能力にうったえかけているのだ。証拠は、麻津子が山で採ってきた淡竹を見る江子と郁子の場面。
「なにこれなにこれ!」
「筍よね?こういうの、はじめて見たわあ」
見たことがなくても、「おいしいものだ」ということはしっかりとわかるらしい。
イマドキは「自分の知らないことを言われるとオコる」という習性の方が増えてるらしく、「鍋しぎって何なの?カーッ」とか「金時豆、わかんない、キーッ」となる人もいるかもしれぬ。でも荒野さんは少なくとも食いしんぼうなら無くしていない「これは食べられる。しかもうまそう」という本能、執念、欲望に懸けている。シンプルに信頼している。食の名エッセイで知られる亡き向田邦子さんを思い出した。アマゾン河を見て味噌汁を思う向田さん(同じような茶色だったのだ!)も「おいしそうな表現」に凝ることはなかった。「とろろ芋を千切りに刻んで、なめ茸をちょんとのせて」。もうそれだけでおいしい。
閑話休題、もうひとつの読みどころは料理の「暴力代用」について。物語の半ばでサングラスの男が右の掌を町内コミュニケーションセンターの十畳の和室の机にたたきつける。後半ではある青年が会社のデスクを殴る。前者は威嚇、後者は形を変えたガッツポーズ(?)である。でも物騒で手が痛いだけだ。
一方ある夕方、麻津子は自宅の台所で本枯節を鰹節削り器で削る。パック入りもあるが、腰を入れ、シャーッ、シャーッと。「削っているのは、べつのもののようでもあった」という一文がいい。次に彼女は鶏と海老と椎茸を包丁で細かくしていく。フードプロセッサーを持っているけれど、包丁をダンダンダンと俎板に打ちつけたいのである。で、結果、出汁がとれ、つくねができあがる。
「ここ家」の運命および、麻津子、江子、郁子、三人それぞれの騒動を読みながら、生き方とは決意の仕方なのだ、と思った。年齢は関係ない。「進む道をどうするか考えるのは高齢だからやめておけ」なんてことはないんだから。
また彼女たちに会いたくなるにぎやかな小説。

代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ
間 室 道 子
【プロフィール】
ラジオ、TVなどさまざまなメディアで本をおススメする「元祖カリスマ書店員」。雑誌『Precious』に連載を持つ。書評家としても活動中で、文庫解説に『蒼ざめた馬』(アガサ・クリスティー/ハヤカワクリスティー文庫)、『母性』(湊かなえ/新潮文庫)、『蛇行する月』(桜木紫乃/双葉文庫)、『スタフ staph』(道尾秀介/文春文庫) 、『プルースト効果の実験と結果』(佐々木愛/文春文庫)などがある。
