【第379回】間室道子の本棚 『夏帆 The Tale of KAHO』村上春樹/新潮社
「元祖カリスマ書店員」として知られ、雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする、代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ・間室道子。
本連載では、当店きっての人気コンシェルジュである彼女の、頭の中にある"本棚"を覗きます。
本人のコメントと共にお楽しみください。
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『夏帆 The Tale of KAHO』
村上春樹/新潮社
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「この世界はもともとずいぶんと奇妙な場所なのです」
「あなたが必然的にその世界の中心となります」
夏帆は二十六歳の女性で、親元から離れて独立している絵本作家である。編集者がある日、出会いをセッティングしてくれた。相手についての情報が伏せられたブラインド・デート。あらわれた男は十歳ほど年上で、清潔でそつがなく、ハンサムで話も巧み。そしてレストランでの食事が終わりにさしかかったとき、彼は夏帆にしんじがたいことを言い放った。笑みさえ浮かべて。
おやおや、あるいはおいおい、と読者は思うだろう。彼は変態かしら?発言の真偽はどうでもいいの。今の時代にこれはだめ。いや昭和でも明治でも、お金もあり教養も身についているんであろう男が初対面の相手――とくに女性にこれはだめ。
で、夏帆は無言で席を立ったのだが、男はデートから六日後、セッティング編集者を通じてメッセージを寄越した。”もう一度会って話の続きをしたい”。おやおや。おいおい。こいつはド変態なのかしら?でも夏帆は会っちゃうんである。なぜならこの世界は奇妙な場所で、彼女がその中心だから。
というあいかわらずの村上春樹の世界。主人公はいつのまにか現実とはちょっとずれた世界にまよい込んでいる。これが、恐竜跋扈とか魔法使いが空を飛んでるとかAIに支配されたとか江戸とかなら、なんというか、あまりの差にあきらめや思考の放棄ができると思う。でもたとえば、「ある人物の心身がシロアリの女王に乗っ取られている」。
中身はすんごいことになってるわけだが表面の違いはちょっとなのだ。「派手になった」「欲望の増量」「夏帆を”さん”ではなく、”ちゃん”付けで呼ぶ」。
この人は五十代。中高年あるあるだと思えばそうだし、服とか欲って「T-REXとヴェロキラプトルが目の前で戦ってる」「周囲全員がキモノと髷」に比べたらタイシタことないっちゃない。でも歴代の村上作品の主人公および夏帆は、「少しずれてる」の不快さにこだわる。
「いつのまにか異世界に」は運命でありこちらの意図的バチアタリな踏み込みではない。でも、「呑み込めないこともないレベルだからと呑み込んで生きる」は、自らの選択になってしまうのだ。
シロアリの女王は、だってあなたはこの人のことを愛してないでしょ的発言をして夏帆を翻弄しようとする。でも「好きだから救う、嫌いなら放っておく」ではない。「他者にコントロールされてる人のプライドを守ってあげる」とも違う。タイトルに力強く銘打たれているように、これは夏帆の話だから。こんなことを許す自分を愛せるか、という彼女自身の愛と名誉の問題なんだから。
出口さがし、価値ある痛み、乗り越えるに値する試練といった、村上作品おなじみの展開も読みどころ。夏帆およびわれわれは知る。出口を見つけるにあたりもっとも重要なのは、出たい、という意志だと。
ほかに、ありくいの奥さんと夫、ジャガー、モーターサイクル、包丁とぎの老人、武蔵境、浦和、新小岩などが登場。東京に実在する武蔵境という場所は、本書以前、以後でちがうものになる。ありくいという生き物を前にしたら、それが写真であれイラストであれ実物であれ、われわれには読書前とはちがうものが見える。非常にすぐれた書き手だけが現実にかけうる魔法。あらたなる村上ワールドへ、ようこそ。
「あなたが必然的にその世界の中心となります」
夏帆は二十六歳の女性で、親元から離れて独立している絵本作家である。編集者がある日、出会いをセッティングしてくれた。相手についての情報が伏せられたブラインド・デート。あらわれた男は十歳ほど年上で、清潔でそつがなく、ハンサムで話も巧み。そしてレストランでの食事が終わりにさしかかったとき、彼は夏帆にしんじがたいことを言い放った。笑みさえ浮かべて。
おやおや、あるいはおいおい、と読者は思うだろう。彼は変態かしら?発言の真偽はどうでもいいの。今の時代にこれはだめ。いや昭和でも明治でも、お金もあり教養も身についているんであろう男が初対面の相手――とくに女性にこれはだめ。
で、夏帆は無言で席を立ったのだが、男はデートから六日後、セッティング編集者を通じてメッセージを寄越した。”もう一度会って話の続きをしたい”。おやおや。おいおい。こいつはド変態なのかしら?でも夏帆は会っちゃうんである。なぜならこの世界は奇妙な場所で、彼女がその中心だから。
というあいかわらずの村上春樹の世界。主人公はいつのまにか現実とはちょっとずれた世界にまよい込んでいる。これが、恐竜跋扈とか魔法使いが空を飛んでるとかAIに支配されたとか江戸とかなら、なんというか、あまりの差にあきらめや思考の放棄ができると思う。でもたとえば、「ある人物の心身がシロアリの女王に乗っ取られている」。
中身はすんごいことになってるわけだが表面の違いはちょっとなのだ。「派手になった」「欲望の増量」「夏帆を”さん”ではなく、”ちゃん”付けで呼ぶ」。
この人は五十代。中高年あるあるだと思えばそうだし、服とか欲って「T-REXとヴェロキラプトルが目の前で戦ってる」「周囲全員がキモノと髷」に比べたらタイシタことないっちゃない。でも歴代の村上作品の主人公および夏帆は、「少しずれてる」の不快さにこだわる。
「いつのまにか異世界に」は運命でありこちらの意図的バチアタリな踏み込みではない。でも、「呑み込めないこともないレベルだからと呑み込んで生きる」は、自らの選択になってしまうのだ。
シロアリの女王は、だってあなたはこの人のことを愛してないでしょ的発言をして夏帆を翻弄しようとする。でも「好きだから救う、嫌いなら放っておく」ではない。「他者にコントロールされてる人のプライドを守ってあげる」とも違う。タイトルに力強く銘打たれているように、これは夏帆の話だから。こんなことを許す自分を愛せるか、という彼女自身の愛と名誉の問題なんだから。
出口さがし、価値ある痛み、乗り越えるに値する試練といった、村上作品おなじみの展開も読みどころ。夏帆およびわれわれは知る。出口を見つけるにあたりもっとも重要なのは、出たい、という意志だと。
ほかに、ありくいの奥さんと夫、ジャガー、モーターサイクル、包丁とぎの老人、武蔵境、浦和、新小岩などが登場。東京に実在する武蔵境という場所は、本書以前、以後でちがうものになる。ありくいという生き物を前にしたら、それが写真であれイラストであれ実物であれ、われわれには読書前とはちがうものが見える。非常にすぐれた書き手だけが現実にかけうる魔法。あらたなる村上ワールドへ、ようこそ。

代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ
間 室 道 子
【プロフィール】
ラジオ、TVなどさまざまなメディアで本をおススメする「元祖カリスマ書店員」。雑誌『Precious』に連載を持つ。書評家としても活動中で、文庫解説に『蒼ざめた馬』(アガサ・クリスティー/ハヤカワクリスティー文庫)、『母性』(湊かなえ/新潮文庫)、『蛇行する月』(桜木紫乃/双葉文庫)、『スタフ staph』(道尾秀介/文春文庫) 、『プルースト効果の実験と結果』(佐々木愛/文春文庫)などがある。
