【第385回】間室道子の本棚 『アクリル』 井上荒野/集英社
「元祖カリスマ書店員」として知られ、雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする、代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ・間室道子。
本連載では、当店きっての人気コンシェルジュである彼女の、頭の中にある"本棚"を覗きます。
本人のコメントと共にお楽しみください。
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『アクリル』
井上荒野/集英社
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「なんかへんになった人」を書かせたら日本一の作家。それが井上荒野さんである。
「重大事件が1コあって、それを境におかしくなる」のではなく、それまでと地続きなのにふと気づくと登場人物が変容してる、しかも劇的に。本書もそんな一冊。
卓郎が劇場の近くで少し年下の恋人・美幸を待っているシーンから物語は始まる。彼は三十二歳で小さな広告代理店に勤務しており、会社がときどき仕事を発注するフリーライターが美幸だ。
ここのところ彼女は『YO!YO!学園』の「霧谷ビョルン永劫」にハマっている。短大時代の友人にひっぱられてであり、「推し活」レベルには至っていない。卓郎はこの夜『YO!YO!』観劇終わりの美幸にプロポーズし、結婚した。
わたしの考えでは、卓郎の人生におけるキーワードは「御する」である。自身と周囲をぱぱっと見比べ、目標にしたいと考えたりあれはうらやましくないと思ったりする。いずれにしろ相手は自分の手中だ。
イジられても、「あえての道化。場をコントロールしてるのはこっち」ならOK。美幸を選んだのも、そのうちもっといい女があらわれるのでは、という希望より、彼女のほうが僕よりいい男と出会うかも、そうなったら自分には美幸以下しか手に入らない、と不安になったからだ。
だが結婚して一年、卓郎の身に予想外のことがあり、やがて美幸が変容する。
現象としては「ビョルンにどハマリ」なのだが一発目がやばい。急遽の仕事で卓郎の社にやって来た彼女は、あることをする。「非常識を承知で」とか「思い切ってやってみた」ではない。今ここでこれはへん、がわかっていない。このエピソードのぶっこみは井上荒野さんならでは。
その後グッズ大量購入やらおしゃれ関係やらそれをめぐるお金といった、通常のエスカレート(?)も書かれるのだが、最初の不気味さがあるから「推し活ではよくあるよねー」、という読み味にいかない。なにかもっと、この裏で、おかしなことが・・・。
さらなる読みどころは「霧谷ビョルン永劫」も変容の産物であること。
『YO!YO!学園』はまず漫画。それがアニメ化され、映画は実写版、そして2・5次元と呼ばれるミュージカルになった。絵が動きを持ち、人間になり、直接会えるようになったのである。
舞台でビョルンを演じているのは月岡千景という俳優で、美幸のビョルンがどうしたビョルンがこうしたは、ある時から「月岡くんが」「つっくんは」になる。キャラクターではなく生身の男への熱愛。逆行させてやる、というように、卓郎は「ビョルン」と考えていたものをこう呼ぶようになる。「アクスタ」。
てのひらの上で転がせる愛を持っとくって、今大勢の人間にとってすごく大事なんだろう。でも、愛情じゃなくてもいいの。ラストで卓郎はとんでもない「推し活」に目覚めている。
相手の存在は自分の一存で決まるんだな、という快楽。夫婦間の嵐はいくつもあったけど、これが最後の、とか、いちばんの、という決定打がないまま、卓郎が変容している。
幾重ものひだがめぐらされた、ただならぬ小説。
「重大事件が1コあって、それを境におかしくなる」のではなく、それまでと地続きなのにふと気づくと登場人物が変容してる、しかも劇的に。本書もそんな一冊。
卓郎が劇場の近くで少し年下の恋人・美幸を待っているシーンから物語は始まる。彼は三十二歳で小さな広告代理店に勤務しており、会社がときどき仕事を発注するフリーライターが美幸だ。
ここのところ彼女は『YO!YO!学園』の「霧谷ビョルン永劫」にハマっている。短大時代の友人にひっぱられてであり、「推し活」レベルには至っていない。卓郎はこの夜『YO!YO!』観劇終わりの美幸にプロポーズし、結婚した。
わたしの考えでは、卓郎の人生におけるキーワードは「御する」である。自身と周囲をぱぱっと見比べ、目標にしたいと考えたりあれはうらやましくないと思ったりする。いずれにしろ相手は自分の手中だ。
イジられても、「あえての道化。場をコントロールしてるのはこっち」ならOK。美幸を選んだのも、そのうちもっといい女があらわれるのでは、という希望より、彼女のほうが僕よりいい男と出会うかも、そうなったら自分には美幸以下しか手に入らない、と不安になったからだ。
だが結婚して一年、卓郎の身に予想外のことがあり、やがて美幸が変容する。
現象としては「ビョルンにどハマリ」なのだが一発目がやばい。急遽の仕事で卓郎の社にやって来た彼女は、あることをする。「非常識を承知で」とか「思い切ってやってみた」ではない。今ここでこれはへん、がわかっていない。このエピソードのぶっこみは井上荒野さんならでは。
その後グッズ大量購入やらおしゃれ関係やらそれをめぐるお金といった、通常のエスカレート(?)も書かれるのだが、最初の不気味さがあるから「推し活ではよくあるよねー」、という読み味にいかない。なにかもっと、この裏で、おかしなことが・・・。
さらなる読みどころは「霧谷ビョルン永劫」も変容の産物であること。
『YO!YO!学園』はまず漫画。それがアニメ化され、映画は実写版、そして2・5次元と呼ばれるミュージカルになった。絵が動きを持ち、人間になり、直接会えるようになったのである。
舞台でビョルンを演じているのは月岡千景という俳優で、美幸のビョルンがどうしたビョルンがこうしたは、ある時から「月岡くんが」「つっくんは」になる。キャラクターではなく生身の男への熱愛。逆行させてやる、というように、卓郎は「ビョルン」と考えていたものをこう呼ぶようになる。「アクスタ」。
てのひらの上で転がせる愛を持っとくって、今大勢の人間にとってすごく大事なんだろう。でも、愛情じゃなくてもいいの。ラストで卓郎はとんでもない「推し活」に目覚めている。
相手の存在は自分の一存で決まるんだな、という快楽。夫婦間の嵐はいくつもあったけど、これが最後の、とか、いちばんの、という決定打がないまま、卓郎が変容している。
幾重ものひだがめぐらされた、ただならぬ小説。

代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ
間 室 道 子
【プロフィール】
ラジオ、TVなどさまざまなメディアで本をおススメする「元祖カリスマ書店員」。雑誌『Precious』に連載を持つ。書評家としても活動中で、文庫解説に『蒼ざめた馬』(アガサ・クリスティー/ハヤカワクリスティー文庫)、『母性』(湊かなえ/新潮文庫)、『蛇行する月』(桜木紫乃/双葉文庫)、『スタフ staph』(道尾秀介/文春文庫) 、『プルースト効果の実験と結果』(佐々木愛/文春文庫)などがある。
