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【読書飛行】VOL.1 愛の殉教者
江國香織 『ウエハースの椅子』『とるにたらないものもの』

 
「貴方にとって、文学とは何ですか。」
私はずっと、その答えを探し続けているのかも知れません。
 
文学に触れている間、心はとても自由に羽ばたきます。
だから、とても履き心地の良い靴?何かの乗り物?
—考え続けて、未だ答えは出ていません。
 
だけど文学は今日も、靴を履いて踏み入れない場所や、飛行機で上陸出来ない場所へ私を連れ去るのです。
こちらは、皆様と本の素敵な出逢いをお手伝い出来ます様、文学コンシェルジュが徒然なるままに綴るコラムです。

 

VOL.1 愛の殉教者 
江國香織 『ウエハースの椅子』『とるにたらないものもの』

 
 小説に於いて魅力的な主人公とはどんな人物だろうか、と時折考える。
恐らく答えは読者の数だけ存在するが、私の場合は「私を投影させられる人物」と、極めてシンプルな仮説に到った。
私を投影すると言う事は、主人公に自分自身と似た部分を見つける事。
言動や刻々と選択される行動に、共鳴する事である。
 
 江國香織『ウエハースの椅子』を初めて読んだ時、私は古びた喫茶店の固い座席で、比喩や誇張を省いても、軽い眩暈を覚えた事を告白する。
余りの儚さ、余りの純真に眼前の景色は歪み、頭がくらくらした。
 
 本作は終始詩的な語り口で綴られる、現代文学史上最高に美しい恋愛小説である。(文学コンシェルジュ・大江調べ)
最後まで名前を明かす事の無い「私」は生涯、記憶の限り世界から逸(はぐ)れ続けている。
霞を食って生きていく訳に行かない為(それが可能なら進んでそうする、そんな女性だが)、絵を描く事で生計を立てているが、浮遊する様に生きる姿勢は変わらない。
人生の後半に差し掛かっても未だ世界から逸れ続けているが、差し伸べられる手を掴む事は、とうの昔に放棄したと見える。
 
 そんな「私」が初めて見出した安寧の場所が、「恋人」の腕の中であった。
しかし、「私」の両足を地上に繋ぎとめる役割を果たす唯一の甘やかな存在は、出逢った頃から既に幸福な家庭を築いていた。
孤独と言う万人が決して歓迎しない状況に虚しさより甘美な味わいを見出していた「私」は、それで過不足が無い様に振舞っていたが、やがて「やぁ」と唐突に姿を現す「絶望」に囚われて—
 
 歪な大人達が織り成す童話の様な本作は、前述した通りポエティカル且つ官能的だ。
 
「私の恋人は完璧な形をしている。そして、彼の体は、私を信じられないほど幸福にすることができる。」
 
 本作を読む間、読者は二度恋に落ちる事が出来る。
小説世界に浸かりながら疑似体験に身を委ね、する恋。
そして浮世離れた文章に又、恋をするのだ。
少なくとも私は、目で追う行の次に出てくる言葉を、胸を躍らせ待っていた。
期待、願いを密かに寄せて…
それはまるで恋人の指が、今度は身体のどこに触れるかを待つ様に。
 
 本作も然り、江國作品に登場する女性達の多くはある共通点を抱えている。
それは、「愛の殉教者」であると言う事だ。
恋愛至上主義と言うと聞こえは悪いが、まぁそんな所。
 
 しかし誤解を避けて先に述べておこう、彼女達は決して恋愛に「溺れ」ない。
野暮な、更にフェアでない事を好まぬ洒脱な女達は、恋愛に「搦(から)め取られ」る。
しかも各々が、自らそれを強く望んで。
彼女達は悦んで恋愛に搦め取られ、挙句次々と殉教していく(様に見える)のだ。
ある意味で、とても達観していると言えよう。
何故ならこの世に於いて、愛と感受性(愛を受け容れる透明度)以上に大切な物は無いと、とうに知っているから。
だから生き難い、だから過ごしづらい。
それは否めないが、極単純な判断基準を持ち合わせている事がどれだけ強いかを、江國作品は教えてくれる。
同時に、その純粋性が悲しい結末を引き起こした際に彼女達が味わう地獄は、底抜けに深くもなるのだが。
 
 愛を妄信した故の罰か、そもそも愛を妄信する事は罪か。
彼女達は果ての無い自問を抱いたまま殉教を果たす。
 
 更に言うと彼女達の筆頭に立つ人物こそが生みの親、著者であろう。
著者は、エッセイ集『いくつもの週末』の中でこう語る。
 
「恋愛にまつわる約束はたいてい無意味で、たとえばほかの人と恋をしないでほしいと言ったところで無駄なのはわかっている。そういうことになってしまえばなってしまうに決まっているし、約束なんかのせいでその機会をのがしてほしくもない。」
 
殉教者は半ば神格化された愛の絶対性を熟知しているからこそ、自身を離れて別の場所へ向かう愛など手に負えない事をも、瞬時に悟ってしまう。
反して相手が別の女性と「出逢ってしまった」場合、その愛を貫かず社会性を守る為、又は惰性で自身と過ごされる事を何より忌み嫌うだろう。
一貫している。
それが愛の殉教者の強さであり、悲哀である。
 
 エッセイ集『とるにたらないものもの』はタイトルの通り、身近なものものに焦点を当て、見過ごしてしまいがちな美点を取り上げ慈しむ。
取り分け江國節の効いた一編が、『フレンチトースト』だ。
私も何度読み返したか知れない。
こちらは、著者がフレンチトーストを食べる際、思い出す恋について語られる。
当時、朝食によく食べていたフレンチトースト。
恋人は皿の上で飛び切り美味しい一口を拵え、彼女の口に放り込む。
(飛び切り美味しい一口を拵える過程は、是非読んで頂きたい!あぁ、何て愛らしい恋人…)
そして彼女はその一連の動作を、こう呼ぶ。
 
「幸福で殴り倒すような振舞い」
 
どうですか!
堪らなく痺れてしまうでしょう!
そして、ほら。
ここでまた一つの「殉教」が見られました。
幸福に、愛に殴り倒されて、著者自身がノック・アウト。
 
「幸福で殴り倒す様な振舞い」…
私は何度も舌の上で転がしたその言い回しに憧れて、ある朝、恋人に作って貰った事がある。
フレンチトーストを。
数多ある料理の中でふわふわのオムレツとフレンチトーストだけを得意とする恋人が私の前に「召し上がれ」と置いた一枚半分のそれは、確かに幸福を象徴する味と見た目であったものの、とうとう私が殴り倒される結末はやってこなかった。
その時恋人の心は次の一枚を焼く作業に向いていて、皿を置くとすぐにまたキッチンへ消えた。
何故だ。
何故そうなる?
一緒に読んだ筈じゃあないか、『フレンチトースト』!
 
 と、こんな顛末を経て飛び切りの一口は恋人でなく私自身の手で作られ、勿論私自身の口へ消えた。
幸福で殴り倒される夢は、未だ叶わず。
 
 でも、とても美味しかった。
ご馳走様でした。
 
 
文学コンシェルジュ・大江 佑依
 

 

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『とるにたらないものもの』
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