【コンシェルジュのコラム】マイスターシュテュック146|文具コンシェルジュ 岩浅

梅田 蔦屋書店にはそれぞれの分野に特化した知識をもったコンシェルジュや売場担当者がたくさんいます。担当するジャンルについてはもちろん、本のこと、日々のこと、それにも当てはまらない❝まさか❞のことまで、一人ひとりの個性を大切にしながら紡ぐ、コラムのコーナーです。第七回目は文具コンシェルジュ岩浅がお送りします。
 
 
マイスターシュテュック146
 
 
――「シーナさん」って?

あれはどこに向かっていたのだったか、家族でローカル線に乗っていたときのことです。
母が急に落ち着かない様子で振り返り、「お父さん!今の!シーナさんよね!」と、近くに座っていた父に話しかけました。聞こえないはずはないのですが、父は無言のままです。
「シーナさんだったよね!サイン、もらわなくていいんですか!?」
「…お、おお。…」 父は座席の手すりを握りしめ、微動だにしません。

今しがた通路を通った男性のことだと思いますが、いったい何者なのか、小学生だった私にはわかりません。 ただ、この父の硬直ぶりはどうしたことでしょうか。

 

父は小さな運送会社をやっており、PTAや地域の行事にもよく登場しました。 話し好きで、家族のことも思いきり脚色してネタにするので、うんざりすることもしばしば。 お調子者とも言えるような普段の様子から、今の姿は想像できません。

父をカチンコチンに固めてしまった「シーナさん」とは、どれほど恐ろしい人なのか。 気になりましたが、聞かない方がいいような気もして。 あのとき椎名誠さんに声をかけられなかったのは、著書を全部持っているほど好きだったから、というのは、後になって母から教えてもらったのでした。

 
 
―― かっこいい椎名さん

次は、高校生になってすぐの頃です。 私は写真部に入ったのですが、カメラや写真についての知識は一切ありませんでした。 暇はあるけれどお金はない、写真の学び方もよくわからない。 情報源は自然、図書館か、父の本棚になり、椎名さんのフォトエッセイにもそこで出会いました。

写真の多くは旅先でのポートレートですが、被写体へのリスペクトを感じられるのが好きです。 パタゴニアのガウチョにも、モンゴルの子どもにも、犬などの動物にも。 出会ってすぐのはずなのに、ひとりひとりに物語があることを主張しているような写真です。

それは文章も同じで、時に鋭く批判したり、面白おかしく茶化したりしても、根っこのところに相手やその文化に対する尊敬を感じます。 もちろんフォトエッセイだけでなく、小説も、日常系の脱力エッセイもそれぞれに素晴らしく、ちょっとこわい「シーナさん」は私の中で急激に、かっこいい「椎名さん」へと変わっていきました。

 
 
―― 椎名さんの万年筆「マイスターシュテュック146」

時は過ぎ。
高級筆記具の教科書ともいえる、『趣味の文具箱』という季刊誌があります。 当店に展示されているバックナンバーをめくっていた私は、そこに椎名さんを見つけました。 趣味の文具箱vol.13のインタビュー記事によると、椎名さん愛用の万年筆は、ペリカンM800、M600、そしてモンブラン マイスターシュテュック146とのこと。

モンブラン マイスターシュテュック146

モンブランの万年筆というと、149を思い浮かべる人が多いでしょう。 確かに、149はモンブランを代表する1本で、愛用する作家や著名人もたくさんいます。 ケネディ大統領がとある署名式で、ペンを忘れた西ドイツ アデナウアー首相に"Please, take mine"と149を差し出したエピソードは、あまりにも有名です。

軸が太くて曲線が目立ち、いかにも貫禄がある149に比べ、146はもう少し細めで実用的なサイズ。
とはいえそのたたずまいは悠然として、威張らないカッコよさを感じます。 有名作家である一方、なんだかいつまでも親しみのある椎名さんに、似たものを感じるのは私だけでしょうか。

その雑誌の発行からは既に10年が経っていて、今はもう使っておられないかもしれませんが、私にとって146というと、今も「椎名さんの万年筆」。 人が好きで、本が好きで、偉そうぶったりしないけれど重みがある。 そんな方に使ってほしいな、と思いながら、ガラスケースを眺めています。

 

 

※万年筆は原則オンライン販売しておりません。ご希望の方は直接店舗へご連絡ください。


PROFILE|文具コンシェルジュ 岩浅
ちょっと間違われやすい苗字ですが「いわさ」と読みます。生まれも育ちも大阪市北区の地元っ子です。文具担当を名乗りながら、気持ちは書籍以外(いや、書籍も少し)のあらゆるものを担当しています。近ごろ気になっている分野はクラフトとアウトドアです。根が内気なもので、いつも来てくださる方にお声をかけるのにも未だに勇気がいるのですが、自分が担当するフェアの初日、お客さまの反応を遠巻きに見てニヤニヤするのは何よりの楽しみです。
 
今回ご紹介した書籍
『こんな写真を撮ってきた』
椎名誠 著 新日本出版社
ご感想はこちらまで:umeda_event@ccc.co.jp
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