【第65回】間室道子の本棚 『オーガ(ニ)ズム』阿部和重/文藝春秋
「元祖カリスマ書店員」として知られ、雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする、代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ・間室道子。
本連載では、当店きっての人気コンシェルジュである彼女の、頭の中にある"本棚"を覗きます。
本人のコメントと共にお楽しみください。
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『オーガ(ニ)ズム』
阿部和重/文藝春秋
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先日阿部和重さんをお招きし、本書の刊行記念トークショーを開催して驚いた。観客が全員男だったのである!
いままで、どんなに乙女な本のイベントにも男性ファンがいたし、ハードな作品で男の方ばかりかなあと予想していた会にも女性客が来た。阿部さんによると「たいていの僕のイベントはこうなる」とのことだったが、阿部和重作品をなぜ女の人は読まないのだろう?ウィキに「テロリズム、インターネット、ロリコンといった現代的なトピックを散りばめ」と出ているので、なんだか難しそう、男の世界なのね、と敬遠されているのだろうか。
女性のみなさん、読まずぎらいはもったいないですよ!とくに今回の『オーガ(ニ)ズム』はおススメである。
これは『シンセミア』『ピストルズ』に続く神町(じんまち)三部作の完結編で、ふつう三部作の三作目って「まとめ」とか「集大成」になりがち。でも本書がいちばん最先端であたらしいことをどんどんやっており、わくわくした。
まずは文章。過去形は必要最小限にして、現在形を多用している。そのためソリッドでスピーディに物語は進む。
もちろん、「文章の末尾をすべて現在形にすれば現在形で進行する作品が出来上がる」わけではない。これには高度なテクニックが必要だ。現在形はアクションの断定なので、たたみかけ、加速していくものになるか、たんなるブツ切りになり小説として破綻してしまうかは作家の腕しだい。
また、「登場人物が、誰かが過去にやった行動を思い出している」という場面をすべて現在形の小説では書くことができない。『オーガ(ニ)ズム』は、「ところどころに過去形をゆるす」という懐の広がりを持たせたおかげで現在形の連続になった時のハネ方がはんぱなく、次の行を読まずにはいられない。とにかくこの本には、読者を物語の外に出さない圧倒的な威力がある。
独立した面白さがあるのもいいところ。もし「前の二つも読まないといけないんでしょ」がネックになっているのなら「これだけ読んでも大丈夫」と読者の背中を押したい。『シンセミア』が豊富な山形弁を駆使した土地の物語、『ピストルズ』が脈々と受け継がれる家と血の物語だとすれば、『オーガ(ニ)ズム』は国の話でありながら家族の話でもある。最大単位を描いていながら最小単位でもあるのだ。作品には「阿部和重」が出てくる。そして奥様とご子息も登場する。とくに坊ちゃんがすばらしく、小説内アカデミー賞があれば、助演男優賞をあげたいと思った。
サスペンスや活劇に家族が出て来る場合「人質になる」「病に倒れる」など、「主人公の足をひっぱり、ドラマを盛り上げる仕掛けとして」が多いものだが、さすが阿部和重作品、そういう安いことはしていない。ここに子供がいなかったら、ただただ殺伐とした血と暴力と陰謀の話になるところを、予期せぬ動きをする三歳児が出て来ることで、読んでいてずいぶんほっとしたり笑ったりできる。
さらにすばらしいのは冒頭、阿部邸に押しかけてきた血まみれで失血死寸前の腹のつきでたアメリカの大男を(本人はニューズウィークの記者だと言っているがアヤシイ)阿部和重が必死に看病し、そのうち「これは何かに似ている」と頭をめぐらせ、「赤ん坊だ!」と気づくシーン。
この数日間自分がやっていることは、ここ三年の乳幼児の世話と同じだ、なぜなら、どちらもほったらかしたら死んでしまうからだ!と思う場面には、笑うとともに胸を打たれた。
帯には「ロードノベル」とあり、全体を見渡すと「スパイ小説」だが、これはあたらしいタイプの介護小説であり、子育て小説でもあるのだ。
もちろん、「だから女性におススメ」ではない!育児も介護も「女の仕事」ではないのだから。ただ、男と女は小説の面白がり方、目のつけどころが違うと思う。男性読者が気に留めない、へたすると「そんなのあったっけ?」という箇所を、女性は心に残しているものだ。
寝ぼけた我が子が居間のソファーに横たわるアメリカ人の巨体にしがみつき、ともにすやすやと眠っているのを、深夜に薬を調達して帰宅した阿部和重が発見するシーン。神町の閉館したラブホテルで朝起きたら息子がいなくなり、必死で探すうちふと見たら、己のパジャマの袖についていたもの。予断を許さない状況の中、ガスト天童店のキッズメニューにミートスパゲティがあったのをパパはちゃんとおぼえている、ということ。スパイの心理戦、行方不明の爆弾と人間、テロ計画、大団円もすごいけど、この本を「愛すべきもの」にしているのはこんなシーンだ。
いままで、どんなに乙女な本のイベントにも男性ファンがいたし、ハードな作品で男の方ばかりかなあと予想していた会にも女性客が来た。阿部さんによると「たいていの僕のイベントはこうなる」とのことだったが、阿部和重作品をなぜ女の人は読まないのだろう?ウィキに「テロリズム、インターネット、ロリコンといった現代的なトピックを散りばめ」と出ているので、なんだか難しそう、男の世界なのね、と敬遠されているのだろうか。
女性のみなさん、読まずぎらいはもったいないですよ!とくに今回の『オーガ(ニ)ズム』はおススメである。
これは『シンセミア』『ピストルズ』に続く神町(じんまち)三部作の完結編で、ふつう三部作の三作目って「まとめ」とか「集大成」になりがち。でも本書がいちばん最先端であたらしいことをどんどんやっており、わくわくした。
まずは文章。過去形は必要最小限にして、現在形を多用している。そのためソリッドでスピーディに物語は進む。
もちろん、「文章の末尾をすべて現在形にすれば現在形で進行する作品が出来上がる」わけではない。これには高度なテクニックが必要だ。現在形はアクションの断定なので、たたみかけ、加速していくものになるか、たんなるブツ切りになり小説として破綻してしまうかは作家の腕しだい。
また、「登場人物が、誰かが過去にやった行動を思い出している」という場面をすべて現在形の小説では書くことができない。『オーガ(ニ)ズム』は、「ところどころに過去形をゆるす」という懐の広がりを持たせたおかげで現在形の連続になった時のハネ方がはんぱなく、次の行を読まずにはいられない。とにかくこの本には、読者を物語の外に出さない圧倒的な威力がある。
独立した面白さがあるのもいいところ。もし「前の二つも読まないといけないんでしょ」がネックになっているのなら「これだけ読んでも大丈夫」と読者の背中を押したい。『シンセミア』が豊富な山形弁を駆使した土地の物語、『ピストルズ』が脈々と受け継がれる家と血の物語だとすれば、『オーガ(ニ)ズム』は国の話でありながら家族の話でもある。最大単位を描いていながら最小単位でもあるのだ。作品には「阿部和重」が出てくる。そして奥様とご子息も登場する。とくに坊ちゃんがすばらしく、小説内アカデミー賞があれば、助演男優賞をあげたいと思った。
サスペンスや活劇に家族が出て来る場合「人質になる」「病に倒れる」など、「主人公の足をひっぱり、ドラマを盛り上げる仕掛けとして」が多いものだが、さすが阿部和重作品、そういう安いことはしていない。ここに子供がいなかったら、ただただ殺伐とした血と暴力と陰謀の話になるところを、予期せぬ動きをする三歳児が出て来ることで、読んでいてずいぶんほっとしたり笑ったりできる。
さらにすばらしいのは冒頭、阿部邸に押しかけてきた血まみれで失血死寸前の腹のつきでたアメリカの大男を(本人はニューズウィークの記者だと言っているがアヤシイ)阿部和重が必死に看病し、そのうち「これは何かに似ている」と頭をめぐらせ、「赤ん坊だ!」と気づくシーン。
この数日間自分がやっていることは、ここ三年の乳幼児の世話と同じだ、なぜなら、どちらもほったらかしたら死んでしまうからだ!と思う場面には、笑うとともに胸を打たれた。
帯には「ロードノベル」とあり、全体を見渡すと「スパイ小説」だが、これはあたらしいタイプの介護小説であり、子育て小説でもあるのだ。
もちろん、「だから女性におススメ」ではない!育児も介護も「女の仕事」ではないのだから。ただ、男と女は小説の面白がり方、目のつけどころが違うと思う。男性読者が気に留めない、へたすると「そんなのあったっけ?」という箇所を、女性は心に残しているものだ。
寝ぼけた我が子が居間のソファーに横たわるアメリカ人の巨体にしがみつき、ともにすやすやと眠っているのを、深夜に薬を調達して帰宅した阿部和重が発見するシーン。神町の閉館したラブホテルで朝起きたら息子がいなくなり、必死で探すうちふと見たら、己のパジャマの袖についていたもの。予断を許さない状況の中、ガスト天童店のキッズメニューにミートスパゲティがあったのをパパはちゃんとおぼえている、ということ。スパイの心理戦、行方不明の爆弾と人間、テロ計画、大団円もすごいけど、この本を「愛すべきもの」にしているのはこんなシーンだ。