【イベントレポート】郡司ペギオ幸夫×宮台真司トークイベント「ダサカッコワルイ世界へ」文字起こし⑤

~閉ざされた人間の量産の背景~
 
宮台:(笑)。僕は郡司さんと違うちょっと見解です。ジュリアニ市長がニューヨークで環境浄化を成功させて、地価を大幅に上げることができたのは、「割れ窓理論」に従ったからでした。どういう理論かと言うと、周りに窓が割れた家があったり、落書きがされた壁があると、人は平気でイリーガル(違法)な振る舞いをしちゃうと。ところが、割れ窓をなくし、落書きを消して、街をきれいにすると――ジェントリフィケーション(環境浄化)と言いますが――誰にも命令されなくても人々はゴミを捨てなくなるし、強盗もいなくなると。これは実証された理論です。

それに比べると、昔は確かにカオス的だったがゆえに、川にゴミが捨てられるだけじゃなく、チッソ(水俣病の原因企業)のような大企業が海に水銀を垂れ流したりして、不幸なこともいっぱい起こった。それがなくなること自体は絶対的に良いことだけど、僕らは「割れ窓理論」的に、人々が秩序と呼ぶものの内側に、閉ざされてしまう。それは受動的な自動性です。命令されて仕方なく従うのとは違って。周りがきれいだと汚いことはできなくなっちゃうのは、実証された心のメカニズムです。そんな流れで、郡司さんや僕がしてきたような体験がどんどんできなくなる。それが、条件プログラム的な人工知能の枠組みの中に閉ざされていく一つの背景だという気がします。

ジェントリフィケーションって文字通り「人にやさしい」ので、人の寿命も延びるだろうし、いろんな病気も克服されるだろうけど、言葉や法や損得の時空に閉ざされて、今おっしゃった「根源的な受動性」に開かれるチャンスが消えていくんじゃないか。「根源的受動性」って、誰か相手が能動で、こちらが受動というんじゃなく、古代ギリシャ文法学者ディオデュニオス・トラクス(紀元前2世紀)が中動態と名付けたものに近いでしょう。実際、中動性という概念が近代の僕らから失われたように、郡司さんがおっしゃる「根源的な受動性」の享楽を知らない人たちが増えてきているし、増えていくだろうと思うんです。

その結果、神経症的な忖度というフレーム問題の反復で、隙間を埋めたつもりになる「症状を示す輩」がむしろ量産されている感じがします。むろん、だからこそ「これはおかしい」という同時代的な認識――さきほどお話しした同時代性――も明白に立ち上がってきているんですね。だから、そちらの側面を見れば、郡司さんのおっしゃる通りだと思います。それについては、さっき編集者の白石さんが「読んだ人の1割くらいがよくわかるみたいです」とおっしゃっていたことが象徴的なんじゃないかと思っています。

それってASD(自閉症スペクトラム)の人口学的な比率と同じじゃないですか(笑)。僕もASDですが、お見受けしたところ、失礼ながら郡司さんもそういう感じがします(笑)。なぜ1割なのかは進化生物学的に説明されています。みんなが「危ないから行かないでおこうよ」と言う時に、「危ないのか、だったら俺は行くぞ」(笑)というヤツらが1割いることで集団生存確率が上がり、それで個体の生存確率も上がった。でも1割以上いると定住の要件である「言葉と法と損得への閉ざされ」にとってジャマ(笑)。

そんな説明ですが、僕はだいたい合っていると思っています。その1割が声をあげるようになったのが同時代性なんですよ。なぜ声をあげるようになったかって、その1割が、科学を考えなしに使った文明化の果てに訪れた「汎システム化」で、昔与えられた役割を奪われて、抑圧されるようになったからですよ。その意味で、1割がこの本を理解していただけるのは当然として、残りの9割って一体何なんだよって言いたいんです(笑)。

例えば、『やってくる』を、郡司さんにしか訪れない珍妙な体験のオンパレードじゃなく、もっと分かりやすく書けないのか、という声が聞こえてきそうな気がするんですが、それをしたら意味がないんです。こういう不思議な書き方をした『やってくる』を読んで「あぁ」といって救われる人がいることが大切で、逆に「何なの、これ」って言う人たちハッキリ言って死んでほしい(笑)。穏やかに言えば、郡司さんの書き方が悪いから分からないんじゃなく、こういう敢えて選ばれた書き方で何も気がつかないヤツがダメなの。だって、ダメな理由もちゃんと書かれているじゃないですか。だから完璧な本なんですよ。

僕はアリの話を思い出します。アリって1割が不規則行動をしますが、1割を取り除くと、残りの9割が全体になった後の1割が、また不規則行動をします。よく知られた傾向ですよね。同じことで、9対1のうちの9割を取り除いて1割だけにすると、1割が全体になった後でそのうち9割がレギュラーな行動をして1割がイレギュラーな行動をするという。でも、これってどこまでも永久に続く傾向なのかは、まだ観察されていないし、そもそも永久を観察することができません。

僕の考えでは、今どういう方向かというと、9対1のうちの1が取り除かれ、残りの9割が全体になった後また1割が取り除かれ、その残りが全体になった後また1割が取り除かれて…という過程がどんどん進んでいくと、郡司さんのように研ぎ澄まされた天然知能――「やってくる」ものを受け取る「根源的受動性」――を持つ人が絶えることはないにせよ、「残りの1割」の性能がどんどん落ちるんじゃないかと。ちょっと、世代交代でどんどん短くなるオスのY染色体のテロメア(修復遺伝子)みたいな話ですが。

まだ学問的に観察されていないけど、僕らの文明がドーキンス流に言うとジーン(遺伝子)じゃなくてミーム(文化的摸倣子)で継承されている事実を思えば、そうなるんだろうと思うんです。だから、郡司さんのおっしゃる「声があがってきた」という短期的な動きがあっても、巨視的な文明史から見れば、そうしたことがかつてもあったとしても、巨大な流れにとってはいっときの渦のようなものだったんじゃないかなと。それはそれとして、郡司さんが良くなっているとおっしゃるのはどういうところですか。


 
~感度を持つ存在たち~
 
郡司:1割がどんどん文化的に淘汰されて弱体化しているというのは悲しい話ですね。ただ僕も、全く人間の運命を楽観視しているわけではなくて、道路があるところを世界だというように、自分の認識できるものだけを世界だとして外部を無視し、その結果、世界を壊す文明のこの傾向は、もはや、どうしようもない行き詰まりがきていると思います。

ただし、じゃあ今までがよかったかというと、アカデミズムは常に、外部を擬似外部化することしかやってこなかったんじゃないか、という気さえしているのです。思考するというのは、わからない外部を許さず、説明し尽くそうとする。もしもそれが叶わない場合も、外部を措定し、既知のものとの関係を構造化する。その意味で、全てを語り尽くそうとする。それは思考すること、の宿命かもしれません。

これは『やってくる』のあとがきにも書いたのですが、そこで、一人称と三人称をどう関係づけるかという、現代科学や哲学が扱う問題に対する二つの典型的な態度を、セカイ系(中二病)と腐女子で示しました。セカイ系というのは、両者を関係付けることが解答だと信じる人であって、実は、哲学すらこういう態度をとる。これに対して腐女子は、問題である一人称と三人称を宙吊りにしたまま、そのアンチノミーをトラウマとして抱え込み、そのスキマを通して外部を愛でる。

腐女子にとっての一人称と三人称は、自分自身とマンガの作者かもしれないけれど、とにかく、この問題を客観視するでも、当事者のまま参与するでもない態度は、今まで現れて来なかった、外部に対する新しい態度じゃないかと思っています。LGBTにおけるクイアにとっての一人称と三人称は、当事者と制度としてのジェンダーかもしれない。何れにせよ、そこには、アンチノミーとしてのトラウマを抱え、磨くという、外部に対する新しい態度が現れているのではないか。これは、「外部を無視する」、「外部に気づいて擬似外部化する」を繰り返しながら、終焉を迎えそうな人類にとっての、逆転のチャンスかもしれないとすら思っています。社会における「やってくる」の全面展開として。

宮台:なるほど。それなら、よく分かります。ただ、現象の極端化によって敏感な人たちが出てきているのであって、実態は両極分解が進んでいるんだと思います。例えば、フェミニズムやLGBTを提唱する人のにも「内側から湧く力=virtue」に自然に従える人が出てきています。僕は、言葉や法や損得ではなく「内側から湧く力」にドライヴされることと、外から「やってくる」ものを受け取ることは、ロジカルに同じことを意味していると思います。なぜなら、郡司さんがいう「外」とは日常的具体の空間概念じゃなく、ロジカルな抽象概念だからです。

そういう開かれた人がいる一方で、「社会はフェミニズムの時代だから」とか「LGBTの時代だから」とか言いながら「クレームつけるぞ」とか「コンプライアンスしなきゃ」みたいにして生きる自動機械も量産されています。ネットを見るかぎりむしろ後者が量産されてる。僕が先日の日経新聞の三島由紀夫論*で述べたように、日本人は一夜にして天皇主義者が民主主義者になったし、一夜にしてフェミニストやLGBT主義者になる。「一夜にしてそうなる人」って郡司さんも批判する忖度野郎のクズです。だから見かけ上の声の大きさから楽観してはいけないと思うんです。その辺どう思いますか。

*「空っぽの日本」を何で埋めるのか 社会学者・宮台真司氏に聞く 三島由紀夫50年後の問い 日本経済新聞2020年10月21日朝刊
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO65222430Q0A021C2BC8000/

郡司:仰ることはよくわかります。もちろん、宮台さんの使われる意味での、自発ではない内発とは、「やってくる」を受け入れる態度です。その上で、同じことを、内発的に行動するのではなく、損得勘定で動く人が多くいるというのもよくわかります。先ほど、アフォーダンスやメルロ=ポンティから出発する触覚は、インターフェースとして機能してしまうこともあると言いましたが、それが、外部を擬似外部化することで、そういうことは非常に多い。ただ「やってくる」ものに開かれた人が1割程度しか出ないのは仕方がないとはいっても、そういう人は少数派だから、「自分はもうダメだ、こんなふうじゃ社会で生きていけない」と思う必要はなく、自分の感度を磨いて発展させるしかない。社会はどう考えたって、その1割が何か変革を起こしていくわけじゃないですか。そして、今度の外部は、最後のチャンスかもしれない。

0の起源を考えてみます。まず、1、2、3という数字が有意味であるのは、その外側にある数えることに意味があるという前提があって、それは暗黙の了解として潜在している。冒頭に出た書かれざる囲いですね。それは出る必要がない規範だと考えることはできますが、現実にはもっとすごいことが起こる。規範の外側、つまり数えることの有意味性さえ明示化されない外側は、「数えない」ことの有意味性として明示化され、さらにそれが記号化されることで、0という数字が出現したと思うんですね。それぐらいすごいことが、外部に気づくことで起こってしまう。それが世界を変えていくとか、社会を変革していくことの原動力になっていて、それは外部に対する徹底した感度の持ち主がやっているわけです。同じ体験をしても1割の人にしかトラウマが出てこないのですから、アンチノミーを抱えている敏感な人が、1割くらいだというのは仕方ないわけです。だけど、1割って結構な数で、その人たちが臆することなく、その力を磨きあげられる社会にしていけば、社会は沈まないかもしれない。

宮台:素晴らしいエンパワーメントです(笑)。この社会を生きづらい人は、何の劣等感を抱く謂われもない。生きづらい我々こそが正しいのだと。この社会に適応して幸せそうに生きていけているようなヤツこそが――郡司さんの言葉じゃなく僕の言葉ですからね(笑)――クズだということですね。僕も本当に力を得ました。確かにASDだ。だから生きづらいとかいろんな症状が出る。でもそれを治さなきゃというメンタリティを僕は昔からおかしいと思っていて。生きづらいかどうかは社会次第だろうって思います。

こんなクソ社会で、つまり、言葉や法や損得の外側を消去する社会で、あるいは、過剰や過少を抹消していく社会で、抑圧ゆえにいろんな症状化が生じるのは当たり前で、郡司さんがおっしゃったようにインターフェイスを改善して治すなんてことは、間違いなく、単なる隠蔽ですよ。ならば、トラウマをトラウマのままで別の形で活かす可能性を探るべきです。

症状化の背後にあるのは社会の問題で、問題を抱えた社会に人が再適応して治癒すれば、社会の問題が隠蔽される。この問題にはフロイト=ラカンが最初に気づいたのだけれど、フロイトと同時代の社会学者ウェーバーも同じ問題に気づきました。それを彼は、人の問題である「没人格」化と、社会の問題である「鉄の檻」化として描き出します。「鉄の檻」と化した社会――何事も予測可能な合理的な社会――に適応するほど、人は「沒人格」と化して力を失うのだと。概念系はやはり同時代のニーチェの影響を受けた図式で、ニーチェは「力の流れ」を重視する初期ギリシャをルネサンスを試みた人です。ここでいう力は普通「virtue」として概念化されるけど、さっき話したように「やってくる」ものそのものです。


 
~質疑・応答~
 
質問者1根源的な受動性とは、現象学的な視座に立っているということですか。だとしたらすごく理解できるのですが。

郡司:ここで言っている根源的受動性、徹底した受動性というのは、トラウマ的なものを完全に脱色して、いわゆる現象学的な知覚世界の外側に対する感受性を開くことなので、そこは違いますね。先ほど述べたアガンベンのバートルビーは参考になるでしょう。

宮台:なるほど。郡司さんもおっしゃっている受動性について理解するには、中動態に関する國分功一郎さんの『中動態の世界』以降の、彼の議論に触発された様々な議論――僕の議論も含まれます――を一瞥していただくと腑に落ちるでしょう。中動態とはまさに力の流れに開かれることですが、男よりも女の方が有利です。なぜ女の方が火事場の馬鹿力が出やすいか、つまり変性意識状態に入りやすいか。なぜ女の方がストレス耐性が強いか。なぜ女の方が寿命が長いか。プレグナンス(妊娠)という事象を意識や遺伝子が参照するからです。國分さんは性愛方面の話題を出すことがないので、「中動態とは妊娠だ」とは言わないけれど、しかしそのぶん「力の流れ」つまり「やってくる」が見えなくなりがちです。

妊娠・出産ほど身近ですごい中動態はない。僕は3人の子の出産に立ち会いましたが、どんな性別の子が生まれるのか、どんな性格の子が現れるのか、どんな容姿の子が生まれるのか、どんな才能を持つ子が生まれるのか、表現に気をつけるべきだけど健常な子が生まれるのか、選べないのに妻は産む。これこそ郡司さんの言い方では「やってくる」ものに開かれる=中動であり、僕の言葉では「受動的能動」=中動です。むろん出生前診断で選択を可能にする動きがあったり反出生主義のように妊娠に能動的に抗う動きがあったりすることは――それらに対抗する動きの存在を含めて――みなさんもとっくにご存じだけど、大概において妊娠は「選べないものに開かれる構え」です。僕は「右往左往」と対立する「覚悟」だと映画批評で書いてきました。

郡司用語と宮台用語を混ぜれば、「根源的受動性への覚悟」=「受動的能動」=中動です。『やってくる』の最後にある死に関する議論が分かりやすい。相手が能動で自分が受動だから、それを逆転して相手が受動で自分が能動になる、なんて関係は死との間には取り結べません。郡司さんが書くように「根源的受動性への覚悟」は、やはり用語を混ぜれば、「やってくる」=「世界からの訪れ」を待って初めて可能になります。ヴァルター・ベンヤミンがいう「砕け散った瓦礫の中に一瞬浮かび上がる星座」=アレゴリー(シンボルでは規定できない何かがやってくる)という概念にも関係します。何かが「やってくる」ことで「根源的受動性」に開かれるということです。実はベンヤミンが参照するのも初期ギリシャです。



質問者2『やってくる』を、僕、弟がいるんですけど、僕と弟の両方がたまたま読んでいて、僕はわりとすーっとわかったんですけど、弟はいまいちわからないといった感じで、僕は先ほどの話だと1割のほうなんだろうなと思っていて、でもそれは自分のおかげではなくて付き合っている彼女のおかげだと思うんですけど。僕が普段生きる上では適当にやりすごせばいいんですけど、9割の方に入っている人はどうすればいいのか。僕は彼女に救われたという気持ちがあるからいいんですが、開かれることのできない人は一生孤独に生きるのか。見ているとつらいので、どうすればいいのでしょうか。

郡司:彼女によって救われるとか、一生孤独じゃないとか、そういう話ではないですよね(笑)。すべてから切り離されながら、外部を受け入れるということは、むしろあり得るわけです。例えば、『やってくる』の表紙を描いた中村さんという日本画家は、昔から、グノーシス派が言う「世界拒否」が非常に大事だと言っていて、僕は最初、なんだと思っていました。「世界拒否」というと全部を拒絶して自分だけ孤立する感じがするけど、そうじゃない。分かりやすい関係性に繋がれた社会との関わりを断つことで、初めてその外側にある、真の外部性を受け入れることができるということです。それは孤高によって、開かれるわけで、だから、外部性を受け入れる話と、特定の何かに救われる話は、ちょっと違う気がしないでもないです(笑)。

宮台:グノーシズムはゼミのテーマの一つですが、晩期のユングが本質を言い当てています。人がいう「神」も「聖霊」も「イエス」も「人」も、人が社会を生きる中で思い描いたり体験したりしたものに過ぎないと。宗教的表象はすべて「内部表現」――郡司さんが若い頃に数式を使って表現しておられた「内部イメージ」――なのだと。災難続きで「神はどこにいるのか」と嘆く人に、「神はいつもあなたと共にある」と言うイエスは、実はグノーシズムに連なるのだというのがユングです。僕は全面的に賛成です。そうした内部表現に閉ざされざるを得ない社会や世界を、現に生きていることの奇蹟に気づくことで、内部表現の外側に開かれる――「やってくる」に開かれる――ことを推奨するのが、グノーシズムです。

その上で補足すると、郡司さんは、天然知能=やってくるものに開かれる構えは、誰にでもあるし、どんな知覚や認識にも本当は働いているのだと言います。まず、それが重要なポイント。もう一つポイントがあります。確かに損得マシーンや忖度マシーンに見える人たちが増殖していますが、そこにも2種類ある。一つは、本当は1割の側に属しているのに「適応したふり」をしているうちに「適応しちゃった」みたいな「能力にふたをされた人間」。もう一つは、それよりもダメージが大きい「能力自体が劣化した人間」。この両者は似ているけれど違うものです。ワークショップをしてきた経験から深く実感しています。

僕がワークショップでやっていることは、第1に「能力にフタをされた人間」と「能力自体が劣化した人間」を短時間に識別すること。第2に「能力にフタをされた人間」=「一見ダメに見えて本当は可能性のある人間」に、どんな体験をデザインすれば、質問者であるあなたが彼女によって開かれたように開かれるだろうかを考えながら、ノウハウを積むことです。

僕は若い頃いろんな武道をやってましたが、武道って「閉ざされから開かれへ」というニュアンスを一貫させているところがスポーツ一般と違うところです。〇〇道と「道」が付く所以です。身体能力を上げるだけじゃなく――むろんそれも重要だけど――身体能力を上げることで新たに開かれる感覚つまりまさに「やってくる」もの受けとめるという構えがあります。だから一見間接的に見えても、体を鍛えるとか音楽練習を激しくやることで、ある日突然ステージが変わるなんてことが起こんです。90年代半ばにインタビューしたロバート・フリップが「訓練とは、恩寵の扉が開くのを待つ営みだ」と言っていましたね。

郡司:一つだけ言うと、アリの9割が働いていて1割がボヤボヤしているけど、その1割取り除くとまたその中で9と1の分化が起こる。働きアリは単為生殖ですから、遺伝的には全部一緒ですね。あるアリができて別のアリができないのは、生得的な能力が違うからという話ではない。人間も同じで、一個人でも、自然の中で生きていく以上、何かそういった揺らぎの中で運動している。ある一日をとれば、どんな人でも1割くらいの時間は外部を受け入れる能力に開かれている。ある人がその能力を持っていてある人は持っていないとかそういう話ではないと思います。

宮台:とはいえ、僕の実践経験では、二つの事象を観察できます。第1に、インテンシヴな(激しい)ワークショップをすると、天然知能に開かれた人は男よりも女の方が多い。第2に、世代が若くなるほど性的退却が激しいけど、男の性的退却が女よりも5〜6年先行し、女も後を追って劣化してきています。それらが何を意味するかです。

時間軸を横に措くと、一つはジーン(遺伝子)ベースの違いの可能性。もう一つはミーム(文化的摸倣子)ベースの違いの可能性。ミームのほうは性別役割分業に結びついている可能性があります。この二つは別に排他的じゃありません。時間軸を考えると、一つは、男女の別を問わず共通して、潜在能力の発現にフタをするような成育環境が、時間と共に拡がってきている可能性。もう一つは、ジーン的にもミーム的にも同じ潜在能力を受け継いでいるとして、社会への適応――つきあった相手たちへの適応がコアですが――が能力の顕在化を左右する可能性。この二つも別に排他的じゃありません。

有限時間の実践では「橋にも棒にもかからない男女=能力自体が劣化した男女」と「見込みがある男女=能力にフタがされただけの男女」を分けることが必須なんだけど、このラベルはレトリックであって、2〜3回で終わるワークショップじゃなく、ゼミで年間50回セッションできるという場合には、歩留まりによる見切りラインが大きく変わります。その意味で、僕からの話は郡司さんからの話と矛盾しません。

その上で本題だけど、質問者の彼女との関わりだけが質問者を開いてくれたという体験の報告は、僕の実践でいえば、数いるカウンセラーは無力だったけれど僕との関わりだけは有効だったという体験の報告に重なります。そんな報告で僕は何が有効だったのかを考えてきました。僕は困るといつもイエスの説教に立ち戻るんですが、例え話によるコミットメントの調達だろうと思うんです。

僕はいつもデートの場面を想像させるけど、郡司さんの言葉を使ってパラフレーズするど、天然知能系の相手と、人工知能系の相手と、どっちが魅力的だと感じる?って尋ねます。今回でいえば郡司さんを魅力的だと感じるかどうか尋ねます(笑)。答えがノーなら即切りして(笑)、残った人たちに「だったらキミ自身も天然知能を全開させたほうが相手に魅力的な体験を与えられるよ」とつないで理由を話す。「計画通りのパーフェクトデートを目指す男女って、所詮は人工知能だから、同じ性能の人工知能に置き換え可能でしょ? でも天然知能の男女って毎回のデートが取り替え不可能になるんだよ」とか。

子育てワークショップも性愛ワークショップと同じで。人工知能と天然知能とどちらを魅力的だと感じるかを尋ねてスクリーニングした後、「あなたが魅力的だと感じられる大人に育てようよ」と持ちかけて、コミットメントを調達します。その場合、大いなる蓋然性で、女のほうが天然知能と人工知能の違いに敏感だから、参加者がもっぱら女である場合には、「性別役割分業うんぬんは横において、女親であるあなたがうまくやる必要があるんだよ」と伝えるわけ。特に男児である場合「女児よりも女親の影響を受けやすいことが統計的に分かっているから、その分ますますあなたの機能が重要になるよ」と。

よく使う言葉は「ツマラナイ」。「他の条件が同じなら、ツマラナイ相手よりオモシロイ相手をパートナーにしたいでしょ?ツマラナイ子供よりオモシロイ子供を育てたいでしょ?」。そこから先はコンテンツを使います。映画をみると、最近では石井裕也監督『生きちゃった』がそうだけど、「頭はいいけどツマラナイ男」「イクメンだけどツマラナイ男」と、「頭はよくないけどオモシロイ男」「イクメンとは言えないけどオモシロイ男」だと、女は多くの場合――他の条件が同じじゃないのに――オモシロイ男を選ぶか、オモシロイ男と浮気します。「当たり前だよ」って話を聞けば、天然知能になりたいでしょ?




質問者39割と1割という話をしていたと思うんですけど、1割の方の人間の人たちの中に郡司先生や宮台先生はそこにすらいなくて、郡司先生や宮台先生自身が僕にとって訪れる外側のように感じるんです。質問は、そっち側(1割)に行きたい、外側そのものになりたいという感覚はあるのか。もしくは、あったとすればなんで1割の方に向けて発信していこうとしているのはなぜか。外側になりたいという欲望があれば、外側にいる人たちは1割なり9割の人間に語りかけることと欲望をどうバランスを取っているのか。

郡司:先ほども言いましたが、哲学に限らず、理論はわからないものを嫌う。それでも原理的にわかり得ないものは、未定義のまま記号として使うことにして、既知のものとの関係をつける。それこそが、外部を擬似外部化することだと言いました。自分が知っているこちら側に対して、知覚できない向こう側を、「それが外部だ」と言葉を使った途端、定義はしなくても措定しちゃう。すると「措定された外部」と「こちら側」を全て関係づけて、外部を部分として含む世界全体が理解でき、理論になるというわけです。そうではなく、「外部」という言葉を、未定義だけではなく、孤立させておいて、それに対峙するあり方、実践を理論と区別できない形で展開する。それが、外部を擬似外部化させない方法だと思います。

あなたが用いた「外部になる」とか「外部にいる」とかいう言葉が典型的で、外側は分かんないものなのに、機能に関して実体化しているわけです。そうじゃない。僕らにできるのは、何か分からないもの、「やってくる」ものを、呼び込める装置を、徹底してこちら側に作ることです。それは別に誰でもできることだと思います。僕が言っている装置とは、誰にでもあるトラウマティックなものだからです。みんな忸怩たるものがあるじゃないですか。その忸怩たるものを磨くことこそが、外部を呼び込む感性なのです。

宮台:自己決定せよという命令に従う「自己決定」は自己決定なのかというパラドックスがあるよね。同じで、外側に開かれよという命令に従う「外側に開かれる」営みは外側に開かれていることになるのかという問題。今日は僕のゼミ生も来ているけど、そういう問題があるので、そこから先は郡司先生と同じで「外に開かれろ、ほら外はここだ」という命令は人をパラドックスに追い込むので一切やめて、僕なら概念的な命令は横に措いて、外遊びやコンテンツを含めて言葉にできない何かを体験する――何かが「やってくる」――蓋然性を高める工夫をします。「体験デザイン」と呼ぶけど、郡司さんの本に出てくる数多の体験報告も読者に向けた体験テザインなんですね。



質問者4:天然知能を持つほど「なりすまし」がしにくくなると思います。「なりすまし」に留まるコツ、つまり適応したふりに留まるコツはあるのでしょうか。あるいは、しばらくはフラッシュバックが起こる段階で、いつか癒しが訪れて「なりすまし」に至れるようになるのでしょうか。あるいは、「なりすまし」が難しいという忸怩たる思いを持ち続けることでいいのでしょうか。

宮台:複数の焦点があるけれど、一番大事なことは、天然知能を磨いて「やってくる」に郡司さんみたいに開かれたちゃったら、この社会をますます生きづらくなっちゃうんじゃないか、という質問でしたね。

郡司:社会の中で生きていくということはそう大変なことでもないよなという気がしますね(笑)。

宮台:たしかに(笑)。

郡司:僕も、就職した当時、外国へ行くとどんどん大学が厳しくなっていて、役に立つことをやらないとポストが得られないとか、日本でお前みたいなやつが大学にいられるなんて日本は天国じゃないかとよく言われたんですね(笑)。僕も学生によく言われるんですけど、首の皮一枚でずーっとよく生きてこられましたねと。僕はたぶんそれほど運がいいわけではなく、結構ギリギリと言えばギリギリだけど、そこまで社会と迎合しなくても、少し鈍感ならば生きていけるんではないかと。そこまで徹底した「なりすまし」を考えなくても。

宮台:「誰だ、そんなことをやってるのは」「郡司さんです」「じゃ…しょうがねぇな」みたいに周囲の人間って実は適応してくれるんです。僕はラジオでもう十年間ほど、クソ・クズ・ケツ舐め・クソのついたケツを舐める安倍晋三とか言ってきたのに、クレームがほとんどない(笑)。面白いでしょ? リスナーが「宮台だから仕方ない」と思っているんですね。実際、まったくクレームを考慮しないからね。だから、一つの戦略は、「こいつは変わり者だからしょうがないな」というポジションを確保しちゃうこと。その意味で郡司さんは上手くやってらっしゃるかもしれません(笑)。



質問者5:外部が怖いみたいな気持ちもあって開かれないこともあるのかなと思うんですけど。例えばトラウマとかも、外部があることは分かっていても、怖いからいつまでもそちらに目を向けずに何年も経ってしまうとかってあるのかなと思うんです。郡司さんや宮台さんは外側というのは怖くないんですかという質問と、そこを乗り越えて開かれるときの心構えみたいなものはあるのでしょうかという質問をお聞きしたいです。

郡司:僕も昔からよく「安心できる世界にいることが大事で、年取ったらそんなに毎日カオスがやってくるみたいなことは大変だから、あんたの言っていることは分からない」みたいに言われるんです。「やってくる」ものにはトラウマのフラッシュバックもありますけど、「中のものをどうやって脱色化し、無色化して、意味を無効にしていくか」ということが非常に大事で、それをやっていった時に、ある時突然、「あっ」みたいな体験があると、「やってくる」ものを待つのがやめられないということはあります(笑)。

スペンサーブラウンの『形式の法則』も、本当に狂ったような本で、最後の3,4ページは何を言っているか全然分からないんですよ。全然分からないものをずっと抱え込んで、どう解釈したら理解できるか、というより、新しく転回ができるか。それは、向こうから「やってくる」ものを待ち構えているみたいなところがあるわけです。そんなことをやっていて、本当に大丈夫かなって思っていたんですけど、何か分かった時に「あっ」という感じがあって(笑)。だから怖がらなくても大丈夫じゃないかなと思いますね(笑)。

宮台:現に『やってくる』をお読みになって安心するでしょう?それでも生きていける郡司さんが現にいらっしゃるんですから(笑)。ことほどさように僕が実践的な指針として話すのは、メンターを持ちなさいってこと。メンターってただの指導者じゃなく、「こんなとき郡司さんならどう言うかな? どうするかな?」って想像できる参照先のことです。実在する人でもいいし、歴史上の人物でもいいし、物語上の人物でもいい。それを持つと力の源になると思うよ。こういうとき『鬼滅の刃』の煉獄杏寿郎だったらどうするかなといった感じ。すると「やってくる」んです。鬼滅の話をしようと思ったら時間がなくなっちゃったけど(笑)、そうやって開かれに対する恐れを取り除けると思います。ありがとうございました。




登壇者: 郡司ペギオ幸夫(郡司)・宮台真司(宮台) 
文字起こし: 若泉誠(宮台ゼミ)

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