【第127回】間室道子の本棚 『地上に星座をつくる』石川直樹/新潮社
「元祖カリスマ書店員」として知られ、雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする、代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ・間室道子。
本連載では、当店きっての人気コンシェルジュである彼女の、頭の中にある"本棚"を覗きます。
本人のコメントと共にお楽しみください。
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『地上に星座をつくる』
石川直樹/新潮社
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先日ひさしぶりにお目にかかった石川直樹さんは、なんだか獰猛だった。最初に会った頃の彼は大学院生で、最後に会った十年前は三十代前半。どちらの時も印象に変わりはなく、この意外と小柄な身体でよくもまあ七大陸最高峰をはじめいろんな山に登ったり海に出たり川を下ったりするもんだ、と思っていた。しかしなに今回のふと感じる猛々しさ。
ヤンキー化したわけではなく、口調も態度もあいかわらずひょうひょうとしている。でも「意外に小柄」の時からうすうすにじみ出ていた肉体の強靭さ。それが厚みを増し、奥からなにか荒々しいものが飛び出して来そう。あれはなんだったんだろう、と思い、新刊を読んで謎が解けた。
本書は2012年から19年までの旅のエッセイ集だ。ふつうの旅人は行った先に自分の身を置く。石川さんは、体の中に旅の地を取り込むような分け入り方をする。それがこの七年間でどんどんヘヴィーになっている。だから通常は戻れば楽になるのに、彼は帰国してからなんどか体調を崩している。
「川辺の露店でカレーを食べたから」「雲母の粉塵まじりの空気を吸い過ぎた」という「一品の原因」ではなく、腹にガンジス河が、肺にヒマラヤが入っているからである。私が感じたのは、彼の体内からふと顔を出す大自然のオーラなのだ。
石川さんが行くのは、記録するのは、異世界だ。チベット、インカなどの秘境ばかりではない。沖縄にクジラが打ち上げられれば砂浜は別世界になる。能登の「店主の手作り感に満ちた銭湯」に入ればそこは異空間。詩人・吉増剛三さんがあらわれれば札幌は異次元めいてくる。アジアの理不尽にこすられた身でカナダ入りした時は、入国審査、タクシー乗車、深夜のホテルのフロント、レストランでのスムーズさを新鮮に思う―エドモントンの真っ当が「異体験」になるのである!
すばらしいのは、優劣をつけないこと。カナダで西洋人の成熟した対応を噛みしめながらも、彼は「世界中がこうなればいいのに」とは思わない。
標高8400メートルで「タバコ吸っていい?」と他者への配慮を忘れず断りを入れたのちに吸い殻をポイ捨てしたシェルパのパサン君に石川さんが思うのは、前半はよかったけど後半アウト、というマナーのものさしではなく、ひたすらの、あいつ、すげえ、である。
世界の登山家が生死をかけて辿り着くここも、シェルパたちにとっては日常の延長。礼儀正しさだろうが悪癖だろうがふだんやりがちなことをやるだけ。それを目撃する石川さんのまなざしに「異なるなあ」はあっても「あちらと比べてこちらは勝る/劣る」はない。その爽快さがエッセイ全体を覆っている。
石川さんの文章、写真の風景にふれるたび、「ここに達したんだ」ではなく、「世界の扉はここにある」と思う。彼は自分の身体、精神、そして写真の可能性を広げるドアを探して旅をする。読者にとってはそんな彼そのものが世界に通じる扉だ。この幸福。
ヤンキー化したわけではなく、口調も態度もあいかわらずひょうひょうとしている。でも「意外に小柄」の時からうすうすにじみ出ていた肉体の強靭さ。それが厚みを増し、奥からなにか荒々しいものが飛び出して来そう。あれはなんだったんだろう、と思い、新刊を読んで謎が解けた。
本書は2012年から19年までの旅のエッセイ集だ。ふつうの旅人は行った先に自分の身を置く。石川さんは、体の中に旅の地を取り込むような分け入り方をする。それがこの七年間でどんどんヘヴィーになっている。だから通常は戻れば楽になるのに、彼は帰国してからなんどか体調を崩している。
「川辺の露店でカレーを食べたから」「雲母の粉塵まじりの空気を吸い過ぎた」という「一品の原因」ではなく、腹にガンジス河が、肺にヒマラヤが入っているからである。私が感じたのは、彼の体内からふと顔を出す大自然のオーラなのだ。
石川さんが行くのは、記録するのは、異世界だ。チベット、インカなどの秘境ばかりではない。沖縄にクジラが打ち上げられれば砂浜は別世界になる。能登の「店主の手作り感に満ちた銭湯」に入ればそこは異空間。詩人・吉増剛三さんがあらわれれば札幌は異次元めいてくる。アジアの理不尽にこすられた身でカナダ入りした時は、入国審査、タクシー乗車、深夜のホテルのフロント、レストランでのスムーズさを新鮮に思う―エドモントンの真っ当が「異体験」になるのである!
すばらしいのは、優劣をつけないこと。カナダで西洋人の成熟した対応を噛みしめながらも、彼は「世界中がこうなればいいのに」とは思わない。
標高8400メートルで「タバコ吸っていい?」と他者への配慮を忘れず断りを入れたのちに吸い殻をポイ捨てしたシェルパのパサン君に石川さんが思うのは、前半はよかったけど後半アウト、というマナーのものさしではなく、ひたすらの、あいつ、すげえ、である。
世界の登山家が生死をかけて辿り着くここも、シェルパたちにとっては日常の延長。礼儀正しさだろうが悪癖だろうがふだんやりがちなことをやるだけ。それを目撃する石川さんのまなざしに「異なるなあ」はあっても「あちらと比べてこちらは勝る/劣る」はない。その爽快さがエッセイ全体を覆っている。
石川さんの文章、写真の風景にふれるたび、「ここに達したんだ」ではなく、「世界の扉はここにある」と思う。彼は自分の身体、精神、そして写真の可能性を広げるドアを探して旅をする。読者にとってはそんな彼そのものが世界に通じる扉だ。この幸福。