【第132回】間室道子の本棚 『だいちょうことばめぐり』朝吹真理子・著 花代・写真/河出書房新社
「元祖カリスマ書店員」として知られ、雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする、代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ・間室道子。
本連載では、当店きっての人気コンシェルジュである彼女の、頭の中にある"本棚"を覗きます。
本人のコメントと共にお楽しみください。
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『だいちょうことばめぐり』
朝吹真理子・著 花代・写真/河出書房新社
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タイトルの「だいちょう」とは歌舞伎の台本を差す「台帳」から来ているのだが、私の脳裏には「大腸ことばめぐり」という字が浮かんできちゃう。無理もないことなのよ、というのを書いていこうと思う。
「湯気」はこのエッセイ集のキイのひとつだ。おでん、鍋焼きうどんなどイメージしやすい食べ物だけでなく、朝吹さんは、スコーンやたこ焼きも「湯気をほおばるもの」として魅力的に描いている。最初に出て来る写真家の花代さんと行った銭湯、最後に出て来るこれまた花代さんと行った温泉も、湯けむりが重要。熱さの視覚化なのだ。
お風呂で有名(?)な石川五右衛門が「ゆで死に」ではなく天津甘栗のように「炒り死に」したのかもしれない、という考察も興味深い。さらに煙草の煙、冬の祭りで鬼の口から吐かれる息、死者の魂抜けなど「口から出る白いもの」が満載。
「湯気」の英語は「STEAM=水蒸気」だけど、水蒸気が汽車を走らせたり火山を爆発させたりとエネルギー化できるのにたいし、湯気は舌に火傷を負わせるものの、生き死にまではいかないし(アツアツを口にして死んだ人はいるのかな?)、「なにかを動かすんじゃ―」にならず、ほわほわしてるのがいいな、と思う。
もう1つのキイは「体内に取り入れる」だ。
雪を食べるのは子供がよくやることだが、朝吹さんは、鉱石、親友の母乳、猫を火葬したときの煙など、子供でも口にしないよ!?というものをなめたり飲んだり吸ったりしている。
勉強もそうで、大学で学び始めようとする春、彼女は洋室だった自室を和室に変更する。畳を敷き、寝具を布団にし、父親から文机をもらいうけ、和ろうそくで本を読む。「かたちから入るのね」ではなく、朝吹さんの場合は「体内から入る」に等しい。
ろうそくの火がちらちらし、文字が偏も旁(つくり)もほどけていく。でも彼女は古文がわかった気持ちになる。畳生活は、ジーンズでは痛いと知る。ついには着物を着て通学するのだが、風呂敷包みで重い辞書を何冊も抱え持つうち、腰を痛める。
でも、うまくやれたことも、やれなかったことも、ここでは等しい。当時の人たちと同じにして得た体感は、彼女を内側から豊かにしていく。
歌舞伎が好きな人たちは舞台を見るとき、先代はどうだったとか、さらにその前はとか、役者の連なりを考える。朝吹さんは線で後ろに続くものではなく、役者や演目からふわふわ漂う、今まで歌舞伎を見ていた人すべての気配を感じ取る。石川五右衛門を考える時も、同時代にどういう有名人がいたのかな、ではなく、彼の周りに渦巻くもの―いくさの時代には重宝され、用が無くなればお払い箱になり、盗賊になるしかなく、おそらく大半が処刑された無名の人たちを思う。
体内に取り入れた思わぬものが、大腸をめぐりめぐって言葉として吸収され、朝吹さんの体から立ち上る。そんな読み味。花代さんの写真が「湯気越しの風景」に見えるのも、すばらしい!
「湯気」はこのエッセイ集のキイのひとつだ。おでん、鍋焼きうどんなどイメージしやすい食べ物だけでなく、朝吹さんは、スコーンやたこ焼きも「湯気をほおばるもの」として魅力的に描いている。最初に出て来る写真家の花代さんと行った銭湯、最後に出て来るこれまた花代さんと行った温泉も、湯けむりが重要。熱さの視覚化なのだ。
お風呂で有名(?)な石川五右衛門が「ゆで死に」ではなく天津甘栗のように「炒り死に」したのかもしれない、という考察も興味深い。さらに煙草の煙、冬の祭りで鬼の口から吐かれる息、死者の魂抜けなど「口から出る白いもの」が満載。
「湯気」の英語は「STEAM=水蒸気」だけど、水蒸気が汽車を走らせたり火山を爆発させたりとエネルギー化できるのにたいし、湯気は舌に火傷を負わせるものの、生き死にまではいかないし(アツアツを口にして死んだ人はいるのかな?)、「なにかを動かすんじゃ―」にならず、ほわほわしてるのがいいな、と思う。
もう1つのキイは「体内に取り入れる」だ。
雪を食べるのは子供がよくやることだが、朝吹さんは、鉱石、親友の母乳、猫を火葬したときの煙など、子供でも口にしないよ!?というものをなめたり飲んだり吸ったりしている。
勉強もそうで、大学で学び始めようとする春、彼女は洋室だった自室を和室に変更する。畳を敷き、寝具を布団にし、父親から文机をもらいうけ、和ろうそくで本を読む。「かたちから入るのね」ではなく、朝吹さんの場合は「体内から入る」に等しい。
ろうそくの火がちらちらし、文字が偏も旁(つくり)もほどけていく。でも彼女は古文がわかった気持ちになる。畳生活は、ジーンズでは痛いと知る。ついには着物を着て通学するのだが、風呂敷包みで重い辞書を何冊も抱え持つうち、腰を痛める。
でも、うまくやれたことも、やれなかったことも、ここでは等しい。当時の人たちと同じにして得た体感は、彼女を内側から豊かにしていく。
歌舞伎が好きな人たちは舞台を見るとき、先代はどうだったとか、さらにその前はとか、役者の連なりを考える。朝吹さんは線で後ろに続くものではなく、役者や演目からふわふわ漂う、今まで歌舞伎を見ていた人すべての気配を感じ取る。石川五右衛門を考える時も、同時代にどういう有名人がいたのかな、ではなく、彼の周りに渦巻くもの―いくさの時代には重宝され、用が無くなればお払い箱になり、盗賊になるしかなく、おそらく大半が処刑された無名の人たちを思う。
体内に取り入れた思わぬものが、大腸をめぐりめぐって言葉として吸収され、朝吹さんの体から立ち上る。そんな読み味。花代さんの写真が「湯気越しの風景」に見えるのも、すばらしい!