【第138回】間室道子の本棚 『ひみつのたべもの』松井玲奈/マガジンハウス
「元祖カリスマ書店員」として知られ、雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする、代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ・間室道子。
本連載では、当店きっての人気コンシェルジュである彼女の、頭の中にある"本棚"を覗きます。
本人のコメントと共にお楽しみください。
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『ひみつのたべもの』
松井玲奈/マガジンハウス
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雑誌『anan』に連載されていた、食をテーマにしたエッセイの書籍化。
面白いな、と思ったのは、読んでいてふと、切なくなること。世の中に食エッセイは数あれど、こういう読み味のものはなかったと思う。
「なんという暴君な娘」「なんと欲深い子供」をはじめ反省の(!)言葉が出てくるが、親御さんはたいへんだったと思う。松井さんは食が細く、好きなものしか食べず、一度ハマるとそればかりというようなお子さんだったのだ(今もその気はある)。
文中に何度も「母は多忙な人だった」「母は忙しい中で」と出てくる。そんなお母さんに彼女は、お弁当のおかずを仕切る緑のバランがかわいくないと手をつけないとか、「冷凍食品は絶対に入れないで!ただしコーンクリームコロッケだけは絶対入れて!」と無茶振りするとか、やりたい放題。一方食が細いはずなのに、ホールケーキを独り占めして貪る(今もそうである!)。
でも、「もう一家で喫茶店のモーニングには行きません!」という「お母さん大爆発事件」はあっても、母は娘に「もう食事は作ってあげません」と言うことはなかった。
高校二年で芸能界入りし、東京と実家の豊橋を行き来する生活が始まり、ハードスケジュールでどんどん痩せていく松井さんに対して、お母さんは「病院に行こうか」とか「しばらく仕事をお休みしたら」と言う代わりに抱きしめる。薄くなったわが子の体を、自分の全身でわかろうとしたのだ。心打たれるシーンである。このあと出される一皿が、ひときわあたたかい。
また、泣きながら食べたものについての回がある。それは特別なものではなく、ファストフードの朝メニューの一品。安くてお手軽なものに命綱のようにすがっている様子に、胸が痛くなってくる。「悲しみや辛さを嚙み砕き飲み込むために、何かを口にすることがあると思うのだ」という言葉が刺さった。
食について書くということは、「私をつくってきたもの」を書くことだ。おうち餃子や果物の回では味以上に、手際よくどんどん包んでいた手、皮をむいてくれた手が描かれる。美味しい思い出の中には、亡くなった人もいれば、コロナ禍で閉店してしまったお店もある。本書は注ぎ、注がれた愛の記録でもあるのだ。だから切なく、いとおしい。
小説『カモフラージュ』と『累々』で名うての本読みたちを脱帽させた松井さんだが、このエッセイでは「初めて口にするもの」を書いたときに彼女の言葉のセンスがスパークすると思う。
私のいちばんのお気に入りは、青い鉱石を模したスイーツを食べる回だ。沖縄料理のところで出てくる「地元の人は好んで口にするけど一般の人は食べ慣れないもの」を超えて、「人類の誰も食べようと思わないものに似せたお菓子」を前にしたときの興奮、それを体内に取り入れる畏怖と喜びに満ち満ちており、「美しく美味しいものは正義だと思う」という名言が飛び出すのだ。
こんな「初めての味」や、「初めての場所」「初めての挑戦」に特化した「松井玲奈初モノ集」のような本を出したら売れるんじゃないかな。小説でも発揮されていたけど、「未知」を前にした時の彼女の五感の研ぎ澄まされ方はハンパないのだ!
面白いな、と思ったのは、読んでいてふと、切なくなること。世の中に食エッセイは数あれど、こういう読み味のものはなかったと思う。
「なんという暴君な娘」「なんと欲深い子供」をはじめ反省の(!)言葉が出てくるが、親御さんはたいへんだったと思う。松井さんは食が細く、好きなものしか食べず、一度ハマるとそればかりというようなお子さんだったのだ(今もその気はある)。
文中に何度も「母は多忙な人だった」「母は忙しい中で」と出てくる。そんなお母さんに彼女は、お弁当のおかずを仕切る緑のバランがかわいくないと手をつけないとか、「冷凍食品は絶対に入れないで!ただしコーンクリームコロッケだけは絶対入れて!」と無茶振りするとか、やりたい放題。一方食が細いはずなのに、ホールケーキを独り占めして貪る(今もそうである!)。
でも、「もう一家で喫茶店のモーニングには行きません!」という「お母さん大爆発事件」はあっても、母は娘に「もう食事は作ってあげません」と言うことはなかった。
高校二年で芸能界入りし、東京と実家の豊橋を行き来する生活が始まり、ハードスケジュールでどんどん痩せていく松井さんに対して、お母さんは「病院に行こうか」とか「しばらく仕事をお休みしたら」と言う代わりに抱きしめる。薄くなったわが子の体を、自分の全身でわかろうとしたのだ。心打たれるシーンである。このあと出される一皿が、ひときわあたたかい。
また、泣きながら食べたものについての回がある。それは特別なものではなく、ファストフードの朝メニューの一品。安くてお手軽なものに命綱のようにすがっている様子に、胸が痛くなってくる。「悲しみや辛さを嚙み砕き飲み込むために、何かを口にすることがあると思うのだ」という言葉が刺さった。
食について書くということは、「私をつくってきたもの」を書くことだ。おうち餃子や果物の回では味以上に、手際よくどんどん包んでいた手、皮をむいてくれた手が描かれる。美味しい思い出の中には、亡くなった人もいれば、コロナ禍で閉店してしまったお店もある。本書は注ぎ、注がれた愛の記録でもあるのだ。だから切なく、いとおしい。
小説『カモフラージュ』と『累々』で名うての本読みたちを脱帽させた松井さんだが、このエッセイでは「初めて口にするもの」を書いたときに彼女の言葉のセンスがスパークすると思う。
私のいちばんのお気に入りは、青い鉱石を模したスイーツを食べる回だ。沖縄料理のところで出てくる「地元の人は好んで口にするけど一般の人は食べ慣れないもの」を超えて、「人類の誰も食べようと思わないものに似せたお菓子」を前にしたときの興奮、それを体内に取り入れる畏怖と喜びに満ち満ちており、「美しく美味しいものは正義だと思う」という名言が飛び出すのだ。
こんな「初めての味」や、「初めての場所」「初めての挑戦」に特化した「松井玲奈初モノ集」のような本を出したら売れるんじゃないかな。小説でも発揮されていたけど、「未知」を前にした時の彼女の五感の研ぎ澄まされ方はハンパないのだ!