【第144回】間室道子の本棚 『本心』平野啓一郎/文藝春秋
「元祖カリスマ書店員」として知られ、雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする、代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ・間室道子。
本連載では、当店きっての人気コンシェルジュである彼女の、頭の中にある"本棚"を覗きます。
本人のコメントと共にお楽しみください。
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『本心』
平野啓一郎/文藝春秋
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「本〇」という言葉がちりばめられた、たくらみに満ちた作品。
まずは「本物」。
舞台は2040年。二十九歳の青年・朔也が、お母さんが死んでしまった悲しみに耐えきれず、母を作ってほしいとヴァーチャル・フィギュア(VF)の製作会社を訪れるところから物語は始まる。
専用のゴーグルを付けると現れるVFの「母」は、朔也が提供した膨大な基礎データやライフログをAIに教え込んであり、生きていた時と同じ姿でいかにも言いそうなことを言ってくれる。もちろんとんちんかんもある。でも会話を繰り返すことでAIを学習させ、本物にどんどん近づけることはできる。
製作会社の女性は今まで多くの依頼人に繰り返し言ってきたこと――性能の発表というより念押し、忠告に近いことを、朔也にも言う。
「VFに心はありません。会話を統語論的に分析して、最適な返答をするだけです」と。
クレームを恐れているというより、この若者が傷つくのを避けたいという気持ちが感じ取れる場面だ。
朔也が、「母親」を一所懸命育てようとする(製作側の女性の言い方でいうと「お母さんを元に戻す」)シーンはちょっぴりコミカルかつ切なさも感じる。また、失われた何か、手に入れることのできなかった何かのために、命のないものに命を吹き込もうと人間が奮闘するのは、コッペリア、ピノキオからフランケンシュタインまで、文学の永遠のテーマのひとつだ。「最先端を描きながら根底に王道」は、古典が好きな平野啓一郎さんらしいところ。
二つ目の「本」のつく言葉は「本質」だ。
近未来小説の読みどころの一つは「将来はこうなってる」「まだこれはある」という作者の予想図。本書の2040年にはまだ古紙回収業がある。そして紙の本が出てくる。
面白いのは本が天才アバターデザイナーで、イフィーと呼ばれる少年の仕事場にあること。画集や写真集が並べられた棚を見て朔也が、「こういうのは、やっぱり、紙の本で見るのだな」と思うシーンが印象的だ。
一方、イフィーの仕事場には実在する画家・白髪一雄の絵があり、朔也はあとで値段を聞いて肝を潰すが、紙や本や原画にありがた味を感じるのはお母さんが読書好きだった朔也ならではなのだろうか。オリジナルの絵画と、画集と、パソコン検索で出てきた絵の「本質」感。2040年の人々全体ではどうなっているんだろう。読みながら想像が膨らんだ。
そして朔也には「もう一度会って話がしたい、一緒に暮らしたい」というほかに、限りなく本物っぽく「戻せた」あかつきに、VFの「母」にどうしても聞きたいことがあった。
「本」のつく三つ目のキイワードは、タイトルにもなっている「本心」だ。
私が先日見たテレビで、ある俳優が「能や狂言では、型さえ完璧にすれば、舞の魂は入ると言われている」と言っていた。VFと伝統芸能は案外近いのかもしれない。
VF製作会社の女性が言うように、人工知能に心はない。見る側が生き生きとした表情や言葉に情を感じても、それは思い込み、幻でしかない。でも自身に心を入れることはできると思うのだ。何かしら欠けている、乾いている内側が能や仮想空間に映るものに満たされる時、「魂が入る」のは己だ。本書は亡きお母さんの奥底を見つけ出そうとして自分の本心にたどり着く青年の物語なのである。
ほかにも格差、死ぬ自由、「もう十分」という考え方など、「著者の見解はこうです!」の発表の場ではなく読者に考えさせる芽がたくさんある作品。読み応えが本のボリュームを超えて、どこまでも広がる感じがすごい。
まずは「本物」。
舞台は2040年。二十九歳の青年・朔也が、お母さんが死んでしまった悲しみに耐えきれず、母を作ってほしいとヴァーチャル・フィギュア(VF)の製作会社を訪れるところから物語は始まる。
専用のゴーグルを付けると現れるVFの「母」は、朔也が提供した膨大な基礎データやライフログをAIに教え込んであり、生きていた時と同じ姿でいかにも言いそうなことを言ってくれる。もちろんとんちんかんもある。でも会話を繰り返すことでAIを学習させ、本物にどんどん近づけることはできる。
製作会社の女性は今まで多くの依頼人に繰り返し言ってきたこと――性能の発表というより念押し、忠告に近いことを、朔也にも言う。
「VFに心はありません。会話を統語論的に分析して、最適な返答をするだけです」と。
クレームを恐れているというより、この若者が傷つくのを避けたいという気持ちが感じ取れる場面だ。
朔也が、「母親」を一所懸命育てようとする(製作側の女性の言い方でいうと「お母さんを元に戻す」)シーンはちょっぴりコミカルかつ切なさも感じる。また、失われた何か、手に入れることのできなかった何かのために、命のないものに命を吹き込もうと人間が奮闘するのは、コッペリア、ピノキオからフランケンシュタインまで、文学の永遠のテーマのひとつだ。「最先端を描きながら根底に王道」は、古典が好きな平野啓一郎さんらしいところ。
二つ目の「本」のつく言葉は「本質」だ。
近未来小説の読みどころの一つは「将来はこうなってる」「まだこれはある」という作者の予想図。本書の2040年にはまだ古紙回収業がある。そして紙の本が出てくる。
面白いのは本が天才アバターデザイナーで、イフィーと呼ばれる少年の仕事場にあること。画集や写真集が並べられた棚を見て朔也が、「こういうのは、やっぱり、紙の本で見るのだな」と思うシーンが印象的だ。
一方、イフィーの仕事場には実在する画家・白髪一雄の絵があり、朔也はあとで値段を聞いて肝を潰すが、紙や本や原画にありがた味を感じるのはお母さんが読書好きだった朔也ならではなのだろうか。オリジナルの絵画と、画集と、パソコン検索で出てきた絵の「本質」感。2040年の人々全体ではどうなっているんだろう。読みながら想像が膨らんだ。
そして朔也には「もう一度会って話がしたい、一緒に暮らしたい」というほかに、限りなく本物っぽく「戻せた」あかつきに、VFの「母」にどうしても聞きたいことがあった。
「本」のつく三つ目のキイワードは、タイトルにもなっている「本心」だ。
私が先日見たテレビで、ある俳優が「能や狂言では、型さえ完璧にすれば、舞の魂は入ると言われている」と言っていた。VFと伝統芸能は案外近いのかもしれない。
VF製作会社の女性が言うように、人工知能に心はない。見る側が生き生きとした表情や言葉に情を感じても、それは思い込み、幻でしかない。でも自身に心を入れることはできると思うのだ。何かしら欠けている、乾いている内側が能や仮想空間に映るものに満たされる時、「魂が入る」のは己だ。本書は亡きお母さんの奥底を見つけ出そうとして自分の本心にたどり着く青年の物語なのである。
ほかにも格差、死ぬ自由、「もう十分」という考え方など、「著者の見解はこうです!」の発表の場ではなく読者に考えさせる芽がたくさんある作品。読み応えが本のボリュームを超えて、どこまでも広がる感じがすごい。