【第150回】間室道子の本棚 『神よ憐れみたまえ』小池真理子/新潮社
「元祖カリスマ書店員」として知られ、雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする、代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ・間室道子。
本連載では、当店きっての人気コンシェルジュである彼女の、頭の中にある"本棚"を覗きます。
本人のコメントと共にお楽しみください。
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『神よ憐れみたまえ』
小池真理子/新潮社
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1963年、大田区の高級住宅地で夫婦が惨殺されるシーンから物語は始まる。十二歳のひとり娘は合宿に行っており、難を逃れた。
この作品がすごいのは、残された娘・百々子をセクシーとしたことだ。
「薄幸の少女もの」は、登場する大人たちや読者の庇護精神をかきたてるためか、主人公を弱くはかないイメージに設定しがちだが、百々子は背が高く、肉付きがよく、小学六年生にして大人の女の成熟が見える美少女なのである。
というわけで、両親の葬式の最中だというのに酒臭い中年男からいやらしいことを言われた。成長するにつれ、露出狂や暴行未遂に遭ったりもする。でも傷つき、ショックを受け、重みを増す乳房や丸みを帯びていく臀を腹立たしいと思っても、百々子は女であることを嫌ったり卑下したりしない。教師の中には心配する声もあったけど、結局誰も面と向かって彼女に「目立たないように生きろ」とは言わない。
なぜならそれは薔薇に、「あなたはそういう花である自覚を持ち、日陰で咲いてなさい」と言うようなものだからだ。また百々子は両親の事件について悲しみや辛さが押し寄せても、「なかったことにしよう」と思わない。
彼女は自分というものから逃げない。これが新鮮だった。
百々子の人生にはタイプの違う三人の男が登場する。一人は両親亡きあとお世話になる家の長男で高校一年生。彼は自分に与えられていた「家で一番いい部屋」を明け渡してくれた。このエピソードは物語のいくつかの場面で浮上する。同居を快諾してくれたのはここのご両親だけど、小学生の女の子にとって「高校生のお兄さんが居場所をくれた」のは、とても大きかったのだ。
二人目は彼女と血のつながりのある美しい大人の男だ。葬式のいやらしい酔客をぶん殴ってくれたのもこの人だ。だが数年後、百々子が見知らぬ男に襲われた事件のあと、彼から来た手紙に、おや、と思うことが起きる。
最後の一人は良家のお坊ちゃん。高校生の頃から猛アタックされ続けた百々子は、ほだされる形でこの男にそばにいることを許す。以来彼は崇拝者、従者のように彼女から離れない。
面白いのは、本命には肉感的な魅力が通用しないことだ。百々子に対する彼の形容詞は毎回「丈夫で元気」。たしかにこれでは子供か動物のよう。年頃の娘としては不満でしょうがない。
「色気はありがたいのかありがたくないのか、どっちなんだ!」と言う向きもあろうが、誰にでも選ぶ権利がある。襲われるのはごめんだけど好きな人が私を色っぽいと感じてくれたら、と願うのは健全な女の子のごく当たり前の思いだ。「性犯罪発生は、夜道を歩く方が悪い」や「リベンジポルノは最初に写真を送っちゃう側が駄目」など、令和になっても続く「女の自己責任論」。これにノー突き付けるフェミニズム小説としての力もある作品だ。
読みながら百々子を思う時、積み上げられていく年月の重みとともに、不思議といつも「まっさら」という言葉が浮かんだ。誰にも染まらず、新しい事態に飛び込み続ける。これが最後に訪れる運命と重なり、心揺さぶられた。
「憐れむ」には「かわいそうに思う」のほかに、「賞美する」という意味もある。読後、心の底から本書のタイトルをかみしめる。
この作品がすごいのは、残された娘・百々子をセクシーとしたことだ。
「薄幸の少女もの」は、登場する大人たちや読者の庇護精神をかきたてるためか、主人公を弱くはかないイメージに設定しがちだが、百々子は背が高く、肉付きがよく、小学六年生にして大人の女の成熟が見える美少女なのである。
というわけで、両親の葬式の最中だというのに酒臭い中年男からいやらしいことを言われた。成長するにつれ、露出狂や暴行未遂に遭ったりもする。でも傷つき、ショックを受け、重みを増す乳房や丸みを帯びていく臀を腹立たしいと思っても、百々子は女であることを嫌ったり卑下したりしない。教師の中には心配する声もあったけど、結局誰も面と向かって彼女に「目立たないように生きろ」とは言わない。
なぜならそれは薔薇に、「あなたはそういう花である自覚を持ち、日陰で咲いてなさい」と言うようなものだからだ。また百々子は両親の事件について悲しみや辛さが押し寄せても、「なかったことにしよう」と思わない。
彼女は自分というものから逃げない。これが新鮮だった。
百々子の人生にはタイプの違う三人の男が登場する。一人は両親亡きあとお世話になる家の長男で高校一年生。彼は自分に与えられていた「家で一番いい部屋」を明け渡してくれた。このエピソードは物語のいくつかの場面で浮上する。同居を快諾してくれたのはここのご両親だけど、小学生の女の子にとって「高校生のお兄さんが居場所をくれた」のは、とても大きかったのだ。
二人目は彼女と血のつながりのある美しい大人の男だ。葬式のいやらしい酔客をぶん殴ってくれたのもこの人だ。だが数年後、百々子が見知らぬ男に襲われた事件のあと、彼から来た手紙に、おや、と思うことが起きる。
最後の一人は良家のお坊ちゃん。高校生の頃から猛アタックされ続けた百々子は、ほだされる形でこの男にそばにいることを許す。以来彼は崇拝者、従者のように彼女から離れない。
面白いのは、本命には肉感的な魅力が通用しないことだ。百々子に対する彼の形容詞は毎回「丈夫で元気」。たしかにこれでは子供か動物のよう。年頃の娘としては不満でしょうがない。
「色気はありがたいのかありがたくないのか、どっちなんだ!」と言う向きもあろうが、誰にでも選ぶ権利がある。襲われるのはごめんだけど好きな人が私を色っぽいと感じてくれたら、と願うのは健全な女の子のごく当たり前の思いだ。「性犯罪発生は、夜道を歩く方が悪い」や「リベンジポルノは最初に写真を送っちゃう側が駄目」など、令和になっても続く「女の自己責任論」。これにノー突き付けるフェミニズム小説としての力もある作品だ。
読みながら百々子を思う時、積み上げられていく年月の重みとともに、不思議といつも「まっさら」という言葉が浮かんだ。誰にも染まらず、新しい事態に飛び込み続ける。これが最後に訪れる運命と重なり、心揺さぶられた。
「憐れむ」には「かわいそうに思う」のほかに、「賞美する」という意味もある。読後、心の底から本書のタイトルをかみしめる。