【第157回】間室道子の本棚 『屋根裏のチェリー』吉田篤弘/角川春樹事務所
「元祖カリスマ書店員」として知られ、雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする、代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ・間室道子。
本連載では、当店きっての人気コンシェルジュである彼女の、頭の中にある"本棚"を覗きます。
本人のコメントと共にお楽しみください。
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『屋根裏のチェリー』
吉田篤弘/角川春樹事務所
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この本には、小さなものと大きなものがでてくる。
小さなものといえば、まずは主人公のサユリ。20代半ばの彼女はぼろアパートの屋根裏部屋に引きこもり中。所属していた町のオーケストラが解散状態になり、すっかり気がめいってしまったのだ。
そしてチェリー。彼女の居場所はサユリの頭の中。
自分の中に誰かがいて、その人と会話しながら暮らすお話はけっこうある。「架空の妹」だとか、「もう一人の自分」とか。ホラーなら「私に犯罪の指示をくれる偉大なるマスター」とか。いずれにしろ主人公には声の主がわかっているものだ。だってもし「頭の中でひっきりなしに正体不明の人がしゃべる」だったら、どんなに孤独な人でも異常さを感じ、人生相談をしたり命令に従ったりしないだろう。
サユリは「チェリーはわたしの分身みたいなもの」、さらには「たぶん、若かったときのわたしがなりたかった自分」と思っている。でも分身なら知ってるはずのサユリの過去や胸の内を彼女は時々聞いてくる。思い出させて鼓舞しちゃおうという目論見を感じる時もあるし、本当に知らないんだな、というシーンもある。
さらに頭の中の人が女の子であれば、外見は妖精とかメイドふう(?)に描かれがち。でもチェリーのある日のスタイルは、「髪は少し伸びたマッシュルーム・カット、ダーク・ブルーにグレーのストライプが入ったポップなデザインのスーツ、襟の小さな白いボタンダウンのシャツ、細見の濃紺のネクタイ。足元はつま先が尖ったアメ色のショートブーツ」。赤いギターを肩から下げ、ギンギンに弾きながらあらわれることもある。非常に風変り。ノー・コントロール。そしてとっても魅力的。
一方大きなものといえば、まずサユリのふさぎこみの元となった今はなき楽団。名前もでかい。「鯨オーケストラ」である。哺乳類最大の生き物をほうふつとさせる男が団長さんだったのだ。
さらに音楽。サユリは演奏のとき、途方もない質量をもった得体のしれない怪物が立ちあがるのをイメージしていた。私はこの場面が好き。
鯨そのものも出てくる。一度目は二百年前、二度目は二十年前、町の川に迷い込んできたのだ。最初の鯨は息絶えて埋められ、時を経てそこは崖となった。半ば伝説めいていたこれがある日真実とわかる。そのあといくつかのできごとがあり、サユリは予感する。もしかしたら、鯨オーケストラも・・・。
大きなものを立ち上げるために小さなものたちが立ち上がる勇敢でいとおしい物語。でも、よくある「集団は個人という歯車、部品でできているのね」とか「小さなものが努力のすえに大きな存在に」という話ではぜんぜんないのである!
なぜなら、たとえば音符は楽譜の「部品」だろうか?ちがうでしょう。また、オーケストラの音合わせは皆で、ある楽器の「ラ」に合わせる。メンバーが30人であろうが100人超えの大所帯であろうが、「ラ」はそのままで、一音にして、オーケストラを幕開ける扉なのである!
物語全体を覆うのが、チェリーの十八番「チムチム・チェリー」。私の考えでは、世の中には大きな歌と小さな歌がある。大きいのは国歌とか甲子園の応援歌とかハリウッド超大作の主題歌とか。「チムチム・チェリー」は小さな歌だ。
「世界的大ヒットの映画、ミュージカルの挿入歌だよ!」という向きもあろうが、「チムチム・チェリー」はどんなに大勢がいてもひとりひとりの耳元で歌われてる気がする。この感じとあわせて、現象としては「本屋で買いました」でありましょうが本書には「物語が私の手元に届いた」というあたたかさがある。
正編と続編、男性サイドと女性サイド、今生きている側に重きをおいたものとなくしたものに気持ちを傾けたもの、という境目なしに、「同じお話のもうひとつの話」といいたい『流星シネマ』(ハルキ文庫)もぜひどうぞ!
小さなものといえば、まずは主人公のサユリ。20代半ばの彼女はぼろアパートの屋根裏部屋に引きこもり中。所属していた町のオーケストラが解散状態になり、すっかり気がめいってしまったのだ。
そしてチェリー。彼女の居場所はサユリの頭の中。
自分の中に誰かがいて、その人と会話しながら暮らすお話はけっこうある。「架空の妹」だとか、「もう一人の自分」とか。ホラーなら「私に犯罪の指示をくれる偉大なるマスター」とか。いずれにしろ主人公には声の主がわかっているものだ。だってもし「頭の中でひっきりなしに正体不明の人がしゃべる」だったら、どんなに孤独な人でも異常さを感じ、人生相談をしたり命令に従ったりしないだろう。
サユリは「チェリーはわたしの分身みたいなもの」、さらには「たぶん、若かったときのわたしがなりたかった自分」と思っている。でも分身なら知ってるはずのサユリの過去や胸の内を彼女は時々聞いてくる。思い出させて鼓舞しちゃおうという目論見を感じる時もあるし、本当に知らないんだな、というシーンもある。
さらに頭の中の人が女の子であれば、外見は妖精とかメイドふう(?)に描かれがち。でもチェリーのある日のスタイルは、「髪は少し伸びたマッシュルーム・カット、ダーク・ブルーにグレーのストライプが入ったポップなデザインのスーツ、襟の小さな白いボタンダウンのシャツ、細見の濃紺のネクタイ。足元はつま先が尖ったアメ色のショートブーツ」。赤いギターを肩から下げ、ギンギンに弾きながらあらわれることもある。非常に風変り。ノー・コントロール。そしてとっても魅力的。
一方大きなものといえば、まずサユリのふさぎこみの元となった今はなき楽団。名前もでかい。「鯨オーケストラ」である。哺乳類最大の生き物をほうふつとさせる男が団長さんだったのだ。
さらに音楽。サユリは演奏のとき、途方もない質量をもった得体のしれない怪物が立ちあがるのをイメージしていた。私はこの場面が好き。
鯨そのものも出てくる。一度目は二百年前、二度目は二十年前、町の川に迷い込んできたのだ。最初の鯨は息絶えて埋められ、時を経てそこは崖となった。半ば伝説めいていたこれがある日真実とわかる。そのあといくつかのできごとがあり、サユリは予感する。もしかしたら、鯨オーケストラも・・・。
大きなものを立ち上げるために小さなものたちが立ち上がる勇敢でいとおしい物語。でも、よくある「集団は個人という歯車、部品でできているのね」とか「小さなものが努力のすえに大きな存在に」という話ではぜんぜんないのである!
なぜなら、たとえば音符は楽譜の「部品」だろうか?ちがうでしょう。また、オーケストラの音合わせは皆で、ある楽器の「ラ」に合わせる。メンバーが30人であろうが100人超えの大所帯であろうが、「ラ」はそのままで、一音にして、オーケストラを幕開ける扉なのである!
物語全体を覆うのが、チェリーの十八番「チムチム・チェリー」。私の考えでは、世の中には大きな歌と小さな歌がある。大きいのは国歌とか甲子園の応援歌とかハリウッド超大作の主題歌とか。「チムチム・チェリー」は小さな歌だ。
「世界的大ヒットの映画、ミュージカルの挿入歌だよ!」という向きもあろうが、「チムチム・チェリー」はどんなに大勢がいてもひとりひとりの耳元で歌われてる気がする。この感じとあわせて、現象としては「本屋で買いました」でありましょうが本書には「物語が私の手元に届いた」というあたたかさがある。
正編と続編、男性サイドと女性サイド、今生きている側に重きをおいたものとなくしたものに気持ちを傾けたもの、という境目なしに、「同じお話のもうひとつの話」といいたい『流星シネマ』(ハルキ文庫)もぜひどうぞ!