【第188回】間室道子の本棚 『生皮 あるセクシャルハラスメントの光景』井上荒野/朝日新聞出版
「元祖カリスマ書店員」として知られ、雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする、代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ・間室道子。
本連載では、当店きっての人気コンシェルジュである彼女の、頭の中にある"本棚"を覗きます。
本人のコメントと共にお楽しみください。
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『生皮 あるセクシャルハラスメントの光景』
井上荒野/朝日新聞出版
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主軸となるのは吉祥寺の小説講座で教えている六十代半ばの月島。教室から何人もの新人賞受賞者やプロが輩出され、先日はついに二人目の芥川賞作家が出た。この絶頂で、彼はかつての教え子から告発される。月島、彼の妻、娘、現在の受講者、被害者、人気女性作家といった目で交互に描かれる、セクハラの光景。
物語に激震を走らせるものだけでなく、小さな裂け目のようなシーンが印象深い。
たとえば、ある女性が同じ課の男から性的ハラスメントを受けたと訴え出た。だが会社は彼女のほうを切ったという話が流れた。真偽はわからないが実際その娘は昨年春に退職し、なんと元勤め先の近所の餃子屋で働きだした。セクハラ男を張ってる、という噂だった。やがてそこからも姿が消えたのだが、お店にいた時の様子は暗く、化粧っ気もなく、老け込んだ感じだった、と彼女を知る男性社員が言った。するともう一人の男が「演出か?それ」と言い出した。そして「セクハラが本当だったって言いたいんなら、もっとムンムンした感じにしないとさ」と言い、「ムンムン」、と二人は笑うのである。
(この笑いに、ある人物が同調する。昼休みの雰囲気を壊したくなかったとか、自分に起きていることをまだ受け止め切れていないとかなのだろうけど、私はその人のために悲しかった。いつか「あの時お前も笑ってたじゃん」と言われたら、自分の頭をトンカチで百回殴りたくなるだろうと思ったから)
動物園のサバンナを模したエリアを見下ろせる陸橋に、三人家族がいるシーンもある。チチチ、チチチ、と発しているのは太った男児の手を引いている四十代半ばくらいの母親だ。眼下のライオンに向かって小鳥や小動物の気を引く時の声出しをしているのだ。そばでは夫が彼女にむかって「一円も入らないんだぞ、うちには」「睡眠時間削ってがんばったって、一円も入らない。わかっててやるのか」とよくわからない説教をしている。
楽しいはずの行楽地で、子供の前で、お父さんはなぜこの話題を持ち出したんだろう。お母さんは何をしようとしているのだろう。ほらシュウちゃん、ライオンさんがこっちを向いたよ、と言う妻に「向くわけないだろう、猫じゃないんだから」と夫は怒りに任せたトーンを浴びせるが、彼女はかるい笑い声を立てる。
一年半ほど前、施設で亡くなった高齢のお母さんをめぐる七十代の女性の話もある。母親が毎月ヘルパーさんに頼んで買ってきてもらい、読んでいたのはレディコミ。成人女性向けの性愛シーン満載の漫画誌だ。納戸の遺品箱からこれを見つけた夫は、気色悪い、色ボケというやつか、捨ててしまえよ、ぞっとする、と妻を攻撃する。
九十歳を過ぎたお母さんはボケてなどいない頭で、熱心に成人向け女性漫画を読んでいた。その心の穴のようなもの。七十代の娘は「良妻賢母を絵に描いたようだった人がなぜ」とずっと思っている。答えは出ないから、蜃気楼に手を伸ばすような気持ちなんだろう。この母と娘は、とても似ていると思う。
こんなさりげないシーンが、作者・井上荒野さんはほんとうにうまい。
物語のあちこちに、伝わらないし、伝わったところで男性たちに卑下され、嘲笑される、女性たちのブラックホールがある。「声をあげた勇気」が読みどころとなるセクハラだけでなく、累々と積み重なるこの国の女たちの透明な悲鳴を聞き取ろう。
物語に激震を走らせるものだけでなく、小さな裂け目のようなシーンが印象深い。
たとえば、ある女性が同じ課の男から性的ハラスメントを受けたと訴え出た。だが会社は彼女のほうを切ったという話が流れた。真偽はわからないが実際その娘は昨年春に退職し、なんと元勤め先の近所の餃子屋で働きだした。セクハラ男を張ってる、という噂だった。やがてそこからも姿が消えたのだが、お店にいた時の様子は暗く、化粧っ気もなく、老け込んだ感じだった、と彼女を知る男性社員が言った。するともう一人の男が「演出か?それ」と言い出した。そして「セクハラが本当だったって言いたいんなら、もっとムンムンした感じにしないとさ」と言い、「ムンムン」、と二人は笑うのである。
(この笑いに、ある人物が同調する。昼休みの雰囲気を壊したくなかったとか、自分に起きていることをまだ受け止め切れていないとかなのだろうけど、私はその人のために悲しかった。いつか「あの時お前も笑ってたじゃん」と言われたら、自分の頭をトンカチで百回殴りたくなるだろうと思ったから)
動物園のサバンナを模したエリアを見下ろせる陸橋に、三人家族がいるシーンもある。チチチ、チチチ、と発しているのは太った男児の手を引いている四十代半ばくらいの母親だ。眼下のライオンに向かって小鳥や小動物の気を引く時の声出しをしているのだ。そばでは夫が彼女にむかって「一円も入らないんだぞ、うちには」「睡眠時間削ってがんばったって、一円も入らない。わかっててやるのか」とよくわからない説教をしている。
楽しいはずの行楽地で、子供の前で、お父さんはなぜこの話題を持ち出したんだろう。お母さんは何をしようとしているのだろう。ほらシュウちゃん、ライオンさんがこっちを向いたよ、と言う妻に「向くわけないだろう、猫じゃないんだから」と夫は怒りに任せたトーンを浴びせるが、彼女はかるい笑い声を立てる。
一年半ほど前、施設で亡くなった高齢のお母さんをめぐる七十代の女性の話もある。母親が毎月ヘルパーさんに頼んで買ってきてもらい、読んでいたのはレディコミ。成人女性向けの性愛シーン満載の漫画誌だ。納戸の遺品箱からこれを見つけた夫は、気色悪い、色ボケというやつか、捨ててしまえよ、ぞっとする、と妻を攻撃する。
九十歳を過ぎたお母さんはボケてなどいない頭で、熱心に成人向け女性漫画を読んでいた。その心の穴のようなもの。七十代の娘は「良妻賢母を絵に描いたようだった人がなぜ」とずっと思っている。答えは出ないから、蜃気楼に手を伸ばすような気持ちなんだろう。この母と娘は、とても似ていると思う。
こんなさりげないシーンが、作者・井上荒野さんはほんとうにうまい。
物語のあちこちに、伝わらないし、伝わったところで男性たちに卑下され、嘲笑される、女性たちのブラックホールがある。「声をあげた勇気」が読みどころとなるセクハラだけでなく、累々と積み重なるこの国の女たちの透明な悲鳴を聞き取ろう。
代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ
間 室 道 子
【プロフィール】
雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする「元祖カリスマ書店員」。雑誌『婦人画報』、電子雑誌「旅色 TABIIRO」、朝日新聞デジタル「ほんやのほん」などに連載を持つ。書評家としても活動中で、文庫解説に『タイニーストーリーズ』(山田詠美/文春文庫)、『母性』(湊かなえ/新潮文庫)、『蛇行する月』(桜木紫乃/双葉文庫)、『スタフ staph』(道尾秀介/文春文庫)などがある。