【第190回】間室道子の本棚 『奇跡』林真理子/講談社

「元祖カリスマ書店員」として知られ、雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする、代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ・間室道子。
本連載では、当店きっての人気コンシェルジュである彼女の、頭の中にある"本棚"を覗きます。
本人のコメントと共にお楽しみください。
 
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『奇跡』
林真理子/講談社
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私は林真理子さんの作品を読むとき、林真理子を読みたいと思う。

言い方がややこしくてすみません。私の考えでは、小説の楽しみかたには二種類あって、ひとつは書き手の存在を忘れて物語にハマるもの。主人公の空間が私の現実となり、彼、彼女の行方をひたすら追う。もうひとつは登場人物たちを通して作者が今をどう見ているかに楽しみを感じるもの。この国や時代をかっさばくまなざしにシビれる。

林作品は私にとって後者だ。ストーリーの後ろから林さんが格差社会や介護問題、名のある家の人々をどう見ているかが痛快にせりあがる。「時事問題をテーマにしてるから」ではない。どんな話であっても、彼女がその時代の家族というもの、男たち、女たちをどう見ているかが伝わるのである。

で、本書を手にして驚いた。林さんがいない!

物語は、「真理子」という名前である小説家の「私」が、友人の博子から、どうか私と夫のことを書いて、と頼まれるシーンから始まる。夫とは、有名写真家でのちに建築プロデューサ―としても世界で活躍した田原桂一。博子は歌舞伎役者の妻だ。

祇園宵山の夜、男は一目見た時から女を忘れられなくなった。女は贔屓筋周りの最中で、「著名人に紹介された」ぐらいしか男を覚えていなかった。だが六年後、三歳になる息子の母となっていた彼女はこの梨園の妻の絶頂で彼と再会し、二人は恋に落ちる。

「本書は、取材に基づくフィクションです」と最後にシンプルにあるように、歌舞伎の名家や役者には仮名がつけてある。でも田原と博子は実在の人物で、そのまま実名で描かれていく。

書き手の「真理子」は何度か登場し、林さんがこの恋をどう見たのかがばんばん出て来ると思って読み進んだ。じっさい、「物語を書いていて、一瞬博子が私に乗り移ったかと思う時が」とあって、田原の出て来るDVDや出演番組を見ていて、博子にささやかれた愛の言葉がこちらに向けられたような気がしてどきどきする、というような場面がある。また、博子は田原と会う時なんと息子を連れていくのだが、噂が漏れなかったことについて「幼児教室の先生、お手伝いさん、お弟子さんたち、みんなが自分たち母子を守ってくれた」と言葉を重ねる博子に、「私などはそれほどの綺麗事だったとは思えないのであるが」と林さんらしいストレートな感想が表明されたりもする。

でもすぐに、「真理子」は影に回る印象なのだ。前出のように「フィクション」と宣言されているが、読み味としてはノンフィクション作家がある男と女の人生を活写しているよう。

色についても驚くことがあった。「はちみつ色に桜の花びらが飛んでいる小紋」だとか「デニムも、ステッチに金色と銀色が織り込まれた特注品」だとか、田原のつくるパリ仕込みの鶏のロースト、博子のつくる、箱根の地の野菜のサラダ、ラタトゥイユなど、すてきな色描写や色彩を喚起させるものがお話の要所に出てくる。具体的な色の表記がなくても、描かれるのは豪華絢爛な歌舞伎界やおしゃれな青山界隈、ミラノの古着コレクション、クリスマスシーズンのパリなど、あでやかで、色とりどりの場所だ。

これらの優雅な世界をモノトーンですくいあげてくような不思議な魅力が本書にはある。これはなんだろう、と考え、表紙をあらためて見て、わかった。これは田原桂一だ

またまた言い方がややこしくてすみせん。物語にも出て来るが、彼は光の写真家だった。表紙カバーは代表作のひとつで、ルーブル美術館の彫刻にやわらかなライトを当てて撮った「接吻 kiss」である。

だから、書き手が自作の人物を見るヴィヴィッドな視線やカラフルな場面はいつのまにか黒と白のあわいになり、「不倫のお話」「著名人のスキャンダル」であるはずの物語は、上品な静寂に包まれている。

「私たちを書いて、と友人に頼まれたから」だけで物書きは動かない。なにかそこに、自分の新たな地平を切り開く、挑戦がないと。

本書は妻が語り明かしたことを夫の芸術的手法で浮かび上がらせた、稀有な一冊なのである。素晴らしい!
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代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ
間 室  道 子
 
【プロフィール】
雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする「元祖カリスマ書店員」。雑誌『婦人画報』、電子雑誌「旅色 TABIIRO」、朝日新聞デジタル「ほんやのほん」などに連載を持つ。書評家としても活動中で、文庫解説に『タイニーストーリーズ』(山田詠美/文春文庫)、『母性』(湊かなえ/新潮文庫)、『蛇行する月』(桜木紫乃/双葉文庫)、『スタフ staph』(道尾秀介/文春文庫)などがある。

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