【第219回】間室道子の本棚 『私のことだま漂流記』山田詠美/講談社
「元祖カリスマ書店員」として知られ、雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする、代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ・間室道子。
本連載では、当店きっての人気コンシェルジュである彼女の、頭の中にある"本棚"を覗きます。
本人のコメントと共にお楽しみください。
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『私のことだま漂流記』
山田詠美/講談社
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この本は、体が覚えていることになる。読み始めてすぐわかった。
本書は山田詠美さんの自伝小説で、私はこの人の書くものを養分としてきたんだなあ、と冒頭からしみじみ思えた。「ミート・ザ・ブラザーズ」の章にある、赤坂のブラックミュージックのディスコ『MUGEN』に詠美さんが足を踏み入れた時の体感と、私がエイミー作品を読んでいる状態は、とても似ている。「直接、体に響いてくるR&B(リズム・アンド・ブルース)の世界」「ただ、体に合う」「肌に合う。皮膚に合う。目に、耳に合う。そして、心臓の鼓動に合う」
本作は、詠美さんが摂った栄養の記録でもある。
書物、音楽、人。幼少期、学校のできごと、さまざまな職、結婚。いろいろあるけれど、私のお気に入りはそうそうたる作家たちの登場。なかでも、詠美さんが何人かに食べものを口にはこんでもらうシーンが好きだ。つまり、「あーん」。口説きやただの可愛がりではない、切実なものがここにはある。
1985年、『ベッドタイムアイズ』で文藝賞を受賞した詠美さんは攻撃されまくった。マスコミ、学者や評論家、見ず知らずの人から、言葉と態度で痛めつけられたのである。見知らぬ人とはどういうことかというと、当時は「個人情報」という考えがなく、賞を獲るとご本人の住所が新聞に載ったのだ。家に毎日送り付けられる嫌がらせの手紙。脅迫状めいたものもあったという。
私の考えでは、浴びせられた悪口は「くせに」という毒に満ちていた。「若いくせに」「女のくせに」「初めて書いたくせに」「日本人のくせに」。つまり、「二十代の女性が初めて書いた小説、日本人女性の恋の相手が黒人男性という物語で、大きな賞を獲るのはけしからん」というわけ。
今なら「どんだけ差別的なんだ!」と攻撃した側に炎上が起きそうだけど、当時の日本は「正してやる」気分の人々がこんなことを発する社会だった。いや、去年芥川賞を受賞した李琴峰さんに対して多くの差別的発言があったそうだから、わが国の「くせに」の風潮は今も変わらないのかもしれない。
閑話休題、詠美さんは「私と私の小説を悪しざまにののしったほとんどは、「団塊の世代」と呼ばれた男たちだった」と書いている。80年代半ばに40歳前後だったヤカラ。一方食べものを口に入れてくれたのは、もっと上の、50代から70代の男性作家たちだ。田中小実昌さんは、デビュー直後の詠美さんとの対談の場で、葱をふぐで巻いたものを。八木義徳先生は、満身創痍で出版社のパーティに出席した詠美さんのためにアイスクリームを取ってきて、銀のスプーンですくっては彼女の口にはこんだ。
野坂昭如さんは「あーん」ではないけど、胸のもっとも深いところまで届いた。誹謗中傷がやまず落ち込む詠美さんと銀座でごはんを食べたとき、野坂さんは自分のぶんには口をつけず、折り詰めにしてそっと持たせてくれたのだ。「大丈夫。何があっても食べてさえいれば」というお言葉。なんとお米を送ってきたこともあったそうだ。
団塊の世代が「戦争を知らない子供たち」であるのに対し、コミさん、八木先生、野坂さんは戦争体験者である。彼らは小さな者たちが火や弾丸を浴び、飢えて死ぬのを見て来たのだ。野坂さんはあの『火垂るの墓』の作者だ。
ひもじさは心を削ぐし、気持ちをすり減らした状態では食べることができない。また、これは私の想像だが、「理不尽な集中砲火が続いたらこの娘は書くことから離れてしまうかもしれない。その時の文学的な飢えはどれほどのものか」と三人は物書きの本能で察したのではないか。
とにかく、目の前の若い魂に何か食べさせなきゃ――こんなこと人前でしたらおかしいんじゃないかという考えや照れを放り投げ、具体的に行動してくれた先輩たち。栄養をもらった詠美さんが、36年間書き続けているのは当然なのである!そして『ベッドタイムアイズ』は今も重版を続けている!!
ほかにも宇野千代先生、森瑤子さん、河野多恵子先生などが続々。私もすべて、体が覚えているよ――読後、詠美さんの声が聞こえた気がした。作家から作家へ、作家から読み手へ。滋養強壮がしみわたる。
本書は山田詠美さんの自伝小説で、私はこの人の書くものを養分としてきたんだなあ、と冒頭からしみじみ思えた。「ミート・ザ・ブラザーズ」の章にある、赤坂のブラックミュージックのディスコ『MUGEN』に詠美さんが足を踏み入れた時の体感と、私がエイミー作品を読んでいる状態は、とても似ている。「直接、体に響いてくるR&B(リズム・アンド・ブルース)の世界」「ただ、体に合う」「肌に合う。皮膚に合う。目に、耳に合う。そして、心臓の鼓動に合う」
本作は、詠美さんが摂った栄養の記録でもある。
書物、音楽、人。幼少期、学校のできごと、さまざまな職、結婚。いろいろあるけれど、私のお気に入りはそうそうたる作家たちの登場。なかでも、詠美さんが何人かに食べものを口にはこんでもらうシーンが好きだ。つまり、「あーん」。口説きやただの可愛がりではない、切実なものがここにはある。
1985年、『ベッドタイムアイズ』で文藝賞を受賞した詠美さんは攻撃されまくった。マスコミ、学者や評論家、見ず知らずの人から、言葉と態度で痛めつけられたのである。見知らぬ人とはどういうことかというと、当時は「個人情報」という考えがなく、賞を獲るとご本人の住所が新聞に載ったのだ。家に毎日送り付けられる嫌がらせの手紙。脅迫状めいたものもあったという。
私の考えでは、浴びせられた悪口は「くせに」という毒に満ちていた。「若いくせに」「女のくせに」「初めて書いたくせに」「日本人のくせに」。つまり、「二十代の女性が初めて書いた小説、日本人女性の恋の相手が黒人男性という物語で、大きな賞を獲るのはけしからん」というわけ。
今なら「どんだけ差別的なんだ!」と攻撃した側に炎上が起きそうだけど、当時の日本は「正してやる」気分の人々がこんなことを発する社会だった。いや、去年芥川賞を受賞した李琴峰さんに対して多くの差別的発言があったそうだから、わが国の「くせに」の風潮は今も変わらないのかもしれない。
閑話休題、詠美さんは「私と私の小説を悪しざまにののしったほとんどは、「団塊の世代」と呼ばれた男たちだった」と書いている。80年代半ばに40歳前後だったヤカラ。一方食べものを口に入れてくれたのは、もっと上の、50代から70代の男性作家たちだ。田中小実昌さんは、デビュー直後の詠美さんとの対談の場で、葱をふぐで巻いたものを。八木義徳先生は、満身創痍で出版社のパーティに出席した詠美さんのためにアイスクリームを取ってきて、銀のスプーンですくっては彼女の口にはこんだ。
野坂昭如さんは「あーん」ではないけど、胸のもっとも深いところまで届いた。誹謗中傷がやまず落ち込む詠美さんと銀座でごはんを食べたとき、野坂さんは自分のぶんには口をつけず、折り詰めにしてそっと持たせてくれたのだ。「大丈夫。何があっても食べてさえいれば」というお言葉。なんとお米を送ってきたこともあったそうだ。
団塊の世代が「戦争を知らない子供たち」であるのに対し、コミさん、八木先生、野坂さんは戦争体験者である。彼らは小さな者たちが火や弾丸を浴び、飢えて死ぬのを見て来たのだ。野坂さんはあの『火垂るの墓』の作者だ。
ひもじさは心を削ぐし、気持ちをすり減らした状態では食べることができない。また、これは私の想像だが、「理不尽な集中砲火が続いたらこの娘は書くことから離れてしまうかもしれない。その時の文学的な飢えはどれほどのものか」と三人は物書きの本能で察したのではないか。
とにかく、目の前の若い魂に何か食べさせなきゃ――こんなこと人前でしたらおかしいんじゃないかという考えや照れを放り投げ、具体的に行動してくれた先輩たち。栄養をもらった詠美さんが、36年間書き続けているのは当然なのである!そして『ベッドタイムアイズ』は今も重版を続けている!!
ほかにも宇野千代先生、森瑤子さん、河野多恵子先生などが続々。私もすべて、体が覚えているよ――読後、詠美さんの声が聞こえた気がした。作家から作家へ、作家から読み手へ。滋養強壮がしみわたる。
代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ
間 室 道 子
【プロフィール】
雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする「元祖カリスマ書店員」。雑誌『婦人画報』、朝日新聞デジタル「ほんやのほん」などに連載を持つ。書評家としても活動中で、文庫解説に『蒼ざめた馬』(アガサ・クリスティー/ハヤカワクリスティー文庫)、『母性』(湊かなえ/新潮文庫)、『蛇行する月』(桜木紫乃/双葉文庫)、『スタフ staph』(道尾秀介/文春文庫)などがある。