【第226回】間室道子の本棚 『ババヤガの夜』王谷晶/河出文庫
「元祖カリスマ書店員」として知られ、雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする、代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ・間室道子。
本連載では、当店きっての人気コンシェルジュである彼女の、頭の中にある"本棚"を覗きます。
本人のコメントと共にお楽しみください。
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『ババヤガの夜』
王谷晶/河出文庫
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新宿でチンピラにからまれた際の応戦ぶりがすごすぎ、ビール瓶で頭を殴られ気絶したあと拉致され、世田谷にある暴力団・内樹會の屋敷に連れ込まれた新道依子。二十二歳、厚みのあるがっしりした体格で、車からおろすとき男二人がかりでも難儀した。
目を開けた新道はふたたび暴れはじめる。やけっぱちではない。新宿と同じく、狙いを定めた無駄のない一撃。相手が何人いようがどんな武器をつきつけられようが、隙あらば反撃する彼女に、私は情緒がどうにかなりそうだった
まずあまりの倒れなさに、ゾンビかターミネーターか、ヒヒヒ、となった。人間は理解不能なおそろしいものにであったら笑うのだ、と己の頬のひきつりで思い出した。(ちなみに奥から湧いて出て彼女に殴りかかる構成員たちが、怒りと緊張で顔を赤くしながらどこか夢でも見ているような表情だ、という描写もある)
次に「もうやめてえ」と喉がひりついてきた。数と武器で圧倒的に有利なヤクザ側にではなく、新道に対して。倒れたままでいればもう殴られないのに、なぜ立ち上がる?
男たちの悲鳴と怒号の中、彼女は笑っているのである。新しい暴力よ、来い。私を楽しませろ、というように。
こちらの心はお祈りポーズだ。ひたすらの畏怖。ぼろ雑巾のようになった女が、神々しい。本書は読んですかっとする鉄拳ものでも、血しぶきですって!いやあねえ、R指定にしたら、というPTAおかんむり小説でもない。つまり、「バイオレンス好きには受け入れられ、苦手な人はスルー」では納まらない。文学界にあらわれた異物。たいへん魅力的な未知。
「不屈」という字を体現しているような新道は、ある理由からあっさり攻撃をやめる。そして内樹會の会長の娘で、美しいがマネキンのように生気のない尚子の運転手兼ボディガードとして雇われるのである。
新道に勝るとも劣らない異様なキャラクターが続々登場するが、細部がそのリアリティを支えている。
若頭補佐の柳は、会長・内樹源造にお目通しの際、新道が正座慣れしていたことに気づいている。「動」だけでなく「静」に目を留めるこの男もただものではない、と予感させる。
また、私が興味を持ったのは、ゲスい内樹会長が「缶コーヒー」を飲んでいること。
ドラマや映画や小説にでてくる親分クラスは、豪邸で玉露とか豆で淹れたコーヒーを飲んでいるものだ。私の予想では、内樹源造はおそらくちゃんと淹れたコーヒー、もっというとブラックコーヒーが飲めない。缶コーヒーなら、「会長、それ、微糖っすか?ふつうの甘さっすか?」など聞いてくる者はいない。
そして内樹は「女がコーヒーなんて生意気だからよせ」と尚子に禁じている。娘が愛飲家になり、「私はお砂糖なしで」と言い出したら嫌なのだろう。最近読んだ海外文学にあった「基本的に男性は自分の自由を行使するよりも、女の自由を制限するのに気を取られているんじゃないかな」という一文を思い出した。(五年後に、尚子の胸のすくシーンがある)
閑話休題、新道依子の過去について、「あともう殴りあってくれる相手は熊くらいしかいなくなって」という文章がある。比喩にしろ事実にしろ、彼女が親しんできたのは純粋な力と力のぶつかり合いだ。熊が「面子をつぶされた」とか「自分は侠気に生きてます」とか「野生動物の沽券にかかわるんで」とつかみかかってくることはない。
一方ヤクザは脅し、処世術、交渉の道具として暴力を使う。彼女はそれを嫌うのだ。放たれたミサイルは相手までまっしぐら。「スイッチ押す押す詐欺」とか「飛んだふり」はないのだ。
読みどころは、お人形のような尚子と”歩く物騒”である新道が融解してくること。友情や愛が芽生えた、というよくある落としどころでもない不思議な関係だ。
たぶんこれは犬と似ている。新道が子供のころ、家で「二号」「三号」と呼ばれていた存在。愛玩のためではない名前。彼女が人間の食べ物をやったり「犬が笑う」と言ったりすると祖父に怒られた。でもだからこそ、老人と彼らの関係は強かった。情から可愛がるということは、気持ちがなくなれば見捨てる可能性があるということだ。祖父と犬にそれはない。新道と尚子にも。
「私たち、地獄に落ちるの?」という尚子に「バーカ(本文ではひらがな)、ここがもう地獄だよ!」と新道が返す場面が帯に使われているが、実はこのあと尚子がさらに一言いっている。お見逃しなく。
小説的仕掛けに満ち、ミステリーとしても一級品。ラストは映画のように美しい。
目を開けた新道はふたたび暴れはじめる。やけっぱちではない。新宿と同じく、狙いを定めた無駄のない一撃。相手が何人いようがどんな武器をつきつけられようが、隙あらば反撃する彼女に、私は情緒がどうにかなりそうだった
まずあまりの倒れなさに、ゾンビかターミネーターか、ヒヒヒ、となった。人間は理解不能なおそろしいものにであったら笑うのだ、と己の頬のひきつりで思い出した。(ちなみに奥から湧いて出て彼女に殴りかかる構成員たちが、怒りと緊張で顔を赤くしながらどこか夢でも見ているような表情だ、という描写もある)
次に「もうやめてえ」と喉がひりついてきた。数と武器で圧倒的に有利なヤクザ側にではなく、新道に対して。倒れたままでいればもう殴られないのに、なぜ立ち上がる?
男たちの悲鳴と怒号の中、彼女は笑っているのである。新しい暴力よ、来い。私を楽しませろ、というように。
こちらの心はお祈りポーズだ。ひたすらの畏怖。ぼろ雑巾のようになった女が、神々しい。本書は読んですかっとする鉄拳ものでも、血しぶきですって!いやあねえ、R指定にしたら、というPTAおかんむり小説でもない。つまり、「バイオレンス好きには受け入れられ、苦手な人はスルー」では納まらない。文学界にあらわれた異物。たいへん魅力的な未知。
「不屈」という字を体現しているような新道は、ある理由からあっさり攻撃をやめる。そして内樹會の会長の娘で、美しいがマネキンのように生気のない尚子の運転手兼ボディガードとして雇われるのである。
新道に勝るとも劣らない異様なキャラクターが続々登場するが、細部がそのリアリティを支えている。
若頭補佐の柳は、会長・内樹源造にお目通しの際、新道が正座慣れしていたことに気づいている。「動」だけでなく「静」に目を留めるこの男もただものではない、と予感させる。
また、私が興味を持ったのは、ゲスい内樹会長が「缶コーヒー」を飲んでいること。
ドラマや映画や小説にでてくる親分クラスは、豪邸で玉露とか豆で淹れたコーヒーを飲んでいるものだ。私の予想では、内樹源造はおそらくちゃんと淹れたコーヒー、もっというとブラックコーヒーが飲めない。缶コーヒーなら、「会長、それ、微糖っすか?ふつうの甘さっすか?」など聞いてくる者はいない。
そして内樹は「女がコーヒーなんて生意気だからよせ」と尚子に禁じている。娘が愛飲家になり、「私はお砂糖なしで」と言い出したら嫌なのだろう。最近読んだ海外文学にあった「基本的に男性は自分の自由を行使するよりも、女の自由を制限するのに気を取られているんじゃないかな」という一文を思い出した。(五年後に、尚子の胸のすくシーンがある)
閑話休題、新道依子の過去について、「あともう殴りあってくれる相手は熊くらいしかいなくなって」という文章がある。比喩にしろ事実にしろ、彼女が親しんできたのは純粋な力と力のぶつかり合いだ。熊が「面子をつぶされた」とか「自分は侠気に生きてます」とか「野生動物の沽券にかかわるんで」とつかみかかってくることはない。
一方ヤクザは脅し、処世術、交渉の道具として暴力を使う。彼女はそれを嫌うのだ。放たれたミサイルは相手までまっしぐら。「スイッチ押す押す詐欺」とか「飛んだふり」はないのだ。
読みどころは、お人形のような尚子と”歩く物騒”である新道が融解してくること。友情や愛が芽生えた、というよくある落としどころでもない不思議な関係だ。
たぶんこれは犬と似ている。新道が子供のころ、家で「二号」「三号」と呼ばれていた存在。愛玩のためではない名前。彼女が人間の食べ物をやったり「犬が笑う」と言ったりすると祖父に怒られた。でもだからこそ、老人と彼らの関係は強かった。情から可愛がるということは、気持ちがなくなれば見捨てる可能性があるということだ。祖父と犬にそれはない。新道と尚子にも。
「私たち、地獄に落ちるの?」という尚子に「バーカ(本文ではひらがな)、ここがもう地獄だよ!」と新道が返す場面が帯に使われているが、実はこのあと尚子がさらに一言いっている。お見逃しなく。
小説的仕掛けに満ち、ミステリーとしても一級品。ラストは映画のように美しい。
代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ
間 室 道 子
【プロフィール】
雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする「元祖カリスマ書店員」。雑誌『婦人画報』、朝日新聞デジタル「ほんやのほん」などに連載を持つ。書評家としても活動中で、文庫解説に『蒼ざめた馬』(アガサ・クリスティー/ハヤカワクリスティー文庫)、『母性』(湊かなえ/新潮文庫)、『蛇行する月』(桜木紫乃/双葉文庫)、『スタフ staph』(道尾秀介/文春文庫)などがある。