【第241回】間室道子の本棚 『クララとお日さま』カズオ・イシグロ/土屋正雄訳 ハヤカワepi文庫

「元祖カリスマ書店員」として知られ、雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする、代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ・間室道子。
本連載では、当店きっての人気コンシェルジュである彼女の、頭の中にある"本棚"を覗きます。
本人のコメントと共にお楽しみください。
 
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『クララとお日さま』
カズオ・イシグロ/土屋正雄訳 ハヤカワepi文庫
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カズオ・イシグロ作品の重要なテーマは記憶である。

出てくる人たちの過去はあいまいで、重要なことが知らされずにいたり自分への評価が絶賛から痛罵になってたりする。都市や一族にしみついた思い出がテーマの話もある。

「あの時」がよみがえったほうが幸せなのはわからない。誰もが「今は、何か違う」を抱き、失われたものへの悲しみや愛をつのらせる。回想シーンでなく現在を描いていても、みんなどこか霧の中にいるような雰囲気なのはそのためだ。

『クララとお日さま』でもこんなイシグロ・テイストが全体を覆っている。今回特筆すべきは、人々は覚えている。でもそれは「触れずにおきたい何か」なのだ。

文庫のカバー裏にはクララとはなにものかが明記されてるけど、こんなにはっきりせず、いろんなことがふわっとしたままお話は進む。

クララはお店でお客が自分を買ってくれるのを待つ「AF」だ。このアルファベットについてはP74に四字熟語が一度出てくるだけで、あとはずっと「AF」。シンプルに、無機質に。

彼女はショーウィンドー越しに熱視線を浴びせて来た少女、ジョジー(見立てでは十四歳半)の家に行くことになる。れいの四字熟語とはうらはらに、買われた先でずいぶんな扱いを受けるAFもいるようだ。

物語はたえず緊張状態にある。それは何を差すのか、何のためにおこなわれているのか不明なまま、場面が出てきて解説なしに次に行くのだ。たとえば「交流会」「置き換え」「向上処置」「肖像画の製作」、そして「TWE」「AGE」といった略語。

いずれも詳細はなし。おそらく読者の想像どおりなのだが決定的なことは明かされない。

でも、ふと思うのだ。これは今と変わらないって。どたばたと制度がはじまり、われわれはなんとなく受け入れ、時は進む。カタカナ語や略語があふれ、みんなわかったような気でそれを使ってる。

閑話休題、ジョジーの家の人と周囲にとって、もっとも触れずに置きたいのは「サリー」。誰なのかはそのうち分かる。でも「いつ、なぜ、どのように」は宙ぶらりんだ。

そんな物語でまず心揺さぶられるのは、クララがいちばん「良き人間的」であること。

彼女は一つ前のB2型で最新式はB3。でもこいつは共感力に欠けるらしい。頭脳ばかりを上げると他者への思いやりが失われる傾向は、「交流会」のメンバーが露呈したように現代っぽいとも言える。つまり、人がどんどん新型機械みたくなってきてるのだ。クララはあらかじめ完璧な知力を配されていないからこそ、学ぶ意欲があり献身的だ。

もうひとつの読みどころは、彼女がお日さまが好きで、信頼を寄せ、畏怖もしているところ。エジプト文明の太陽神のごとき信仰ではなく、昔の日本人たちが「おてんと様が見てる」と無邪気に頼ったり自分をいましめたりしていた感じ。彼女は願掛けもする。

読み手は登場人物の誰よりもクララを好きになるだろう。私もそうだった。だが、じょじょに違和感も出てきた。

いわゆる「人型」研究の第一人者の先生が言っていたのだけど、人々は最初、ヒトガタが自分と同じような動きや思考を見せると喜び、似たところ探しに夢中になる。だが一線を超えると「同じじゃない!」と差異探しが前面に出るのだそうだ。

どんな扱いを受けても心静かで、くやしさも切なさもにじませないクララ。さっき「いちばん人間的」と書いたけど、「これは違う!だって私はこうはできない」と悲鳴をあげたくなったのだ。だからAFのたどる運命は、われわれのうしろめたさ、いたらなさゆえなのだ。胸が痛くなった。

ラストをどう取るか。私の考えでは、クララに「記憶違い」が生じている。これまた人の身勝手かもしれないが、このシーンに悲哀ではなく、ゆるやかな救いを感じたい。

クララの中の特別ななにかは、私にたしかに刻まれた。
 
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代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ
間 室  道 子
 
【プロフィール】
雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする「元祖カリスマ書店員」。雑誌『婦人画報』、朝日新聞デジタル「ほんやのほん」などに連載を持つ。書評家としても活動中で、文庫解説に『蒼ざめた馬』(アガサ・クリスティー/ハヤカワクリスティー文庫)、『母性』(湊かなえ/新潮文庫)、『蛇行する月』(桜木紫乃/双葉文庫)、『スタフ staph』(道尾秀介/文春文庫)などがある。

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