【第243回】間室道子の本棚 『かたばみ』木内昇/KADOKAWA

「元祖カリスマ書店員」として知られ、雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする、代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ・間室道子。
本連載では、当店きっての人気コンシェルジュである彼女の、頭の中にある"本棚"を覗きます。
本人のコメントと共にお楽しみください。
 
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『かたばみ』
木内昇/KADOKAWA
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戦争が生活に落とす影が色濃くなる昭和18年、山岡悌子は東京小金井にある国民学校の代用教員をしながら神代清一との結婚を夢みていた。早稲田大学野球部のエースとして大活躍し、今は電鉄会社にいる幼馴染の青年。故郷岐阜の両家の親が、いずれ二人は一緒に、と話していたし、なにより彼は「悌ちゃんは特別な女の子」と言ってくれたのだ。

昭和の初期にあって彼女は五尺七寸で二十貫目(今の172センチ、75キロ)。そんじょそこらの男より立派な体格を持ち、筋骨隆々、ばつぐんの肩。だから一流投手をめざす清一に誘われ、岐阜で毎日キャッチボールをしていた。女と遊んでら、と周囲にからかわれても彼は微笑むだけ。村で清一が満足できる練習相手は彼女だけだったのである。ああほんとうに、「特別な女の子」。

で、みなさまご想像のとおり、この関係に恋を見ていたのは悌子だけだった。戦況がどんどんあやしくなる中で志願入隊を報告に来た清一は、夏に帰省し雪代と結婚してきた、とあっけらかんと告げたのである。ひ弱な色白の美人――。

かつて試合や練習場で雪代さんを見かけたことはなかった、と悌子がもらすと、「あれは見に来んよ。野球のことは、ようわからんのだと」と清一はこともなげに言った。そして続けたせりふが天然、もしくは残酷だ――「女の子はたいがい野球を知らんやろ」。

そんな本書の読みどころは、戦争になると何が起きるかが、わたしたちの等身大の苦しみとして描かれていること。

戦争とは、鉄を差し出すため甲子園球場が解体されることである。生まれてから一度も満腹を経験したことがない幼児がいること。食堂で雑炊の碗に箸を立てて倒れなければ二十五銭、倒れるようなら十五銭、という値段決めがなされること。軍事工場が空爆され、女子工員たちが悲鳴を上げると「騒ぐなっ!騒ぐと斬るぞっ」と将校が怒鳴り、少女たちに向けて軍刀をふりかざすことである。「敵国」以上に「わが国は国民に何をしたのか」がたんたんと描かれ、だからこそ全身がふるえた。

もう一つの読みどころは「大人が子供に何をしたのか」である。新人教員の悌子は当時の「御国のために」という教育にしたがいながらも腑に落ちない思いを抱き、二度ほど素っ頓狂な行動に出た。一方教頭のような人間もいる。戦時中は軍部が出してくるあれやこれやを先生および子供たちに徹底させることに燃え、終戦後は「GHQが言ってますから!」が彼の熱意のもとになる。当時ならしかたないのかもしれない。でも自分というものがどこにもいない大人が子供にものを教える。これは怖い。

もっとも印象的なのは、歴史的にも有名な「教科書を塗りつぶす」場面だ。戦意高揚、皇軍称揚思想の権化で汚すなどという事態は絶対許されなかった教科書。それが昭和20年9月、先生の号令により子供が筆を持ち、「皇軍」「兵士」といった言葉を墨で塗る、という日を迎えた。

教頭なら「GHQが!」であとは知らん顔だろう。悌子は教室内のとまどい、漂うすすり泣きを見逃さない。入学以来叩き込まれてきた教えが粉砕される混乱だけはない。子供たちにとって「兵士」とは、御国につくしてまだ帰ってこない、命を落としたかもしれない父親や兄や身近な誰かだ。それを見てはいけないもの、なかったものとして、自分の手で消す。黒々とつぶされていくのは生徒の心だ。ここにも作者・木内昇さんによる「わたしたちの等身大の苦しみ」への目がある。すくい取られている。

「正しさ」が時代によって右往左往するなら、年長者にできるのは、これでいいのかと迷い、考え続けること。未来に上げるべき声を無くさないことだ。悌子は大人をさぼらない。

こういう彼女はどういう結婚し、どんな子を育てるのか。本書のもう一本の柱は、ぜひお手に取って読んでいただきたい!重厚な感動作。
 
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代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ
間 室  道 子
 
【プロフィール】
雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする「元祖カリスマ書店員」。雑誌『婦人画報』、朝日新聞デジタル「ほんやのほん」などに連載を持つ。書評家としても活動中で、文庫解説に『蒼ざめた馬』(アガサ・クリスティー/ハヤカワクリスティー文庫)、『母性』(湊かなえ/新潮文庫)、『蛇行する月』(桜木紫乃/双葉文庫)、『スタフ staph』(道尾秀介/文春文庫)などがある。

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