【第12回】間室道子の本棚 『その話は今日はやめておきましょう』 井上 荒野/毎日新聞出版

~代官山 蔦屋書店文学コンシェルジュが、とっておきの一冊をご紹介します~


「元祖カリスマ書店員」として知られ、雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする、代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ・間室道子。
本連載では、当店きっての人気コンシェルジュである彼女の、頭の中にある"本棚"を覗きます。
本人のコメントと共にお楽しみください。
 
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『その話は今日はやめておきましょう』
井上 荒野/毎日新聞出版
※画像をクリックすると購入ページへ遷移します。
 
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夫は現在72歳で妻は69歳。娘と息子がそれぞれ家を出てゆき、夫婦二人暮らしになって16年。
この家に、若い男が入り込んだことからドラマは幕を開ける。

はじまりは夫の事故だった。
クロスバイクは夫婦ふたりで老後に始めた趣味だったが、ある日夫が交通事故に遭う。
そんな折、サイクルショップで働いていた青年と偶然出会い、
彼に助けられたり言葉を交わしたりするうち、夫婦はこの男にまず車の運転を頼む。
やがて家の中の電球交換や掃除をしてもらうようになる。

時折出てくる青年の暴力性、投げやりな考え方以上に、読者は妻の不穏さが気になるだろう。
悪そうな人が悪いことをするのは読んでいてある意味安心。
「だろうと思った!」なのだから。
心配になるのは、妻がその善良さゆえになにかしでかすのではないか、という予感だ。

妻は、人を愛したくてしょうがないのだ、とわかってくる。
夫も青年に、信頼できる人にしか頼めないようなことをしてもらうけど、
これは「男のよしみ」であり、愛ではない。
妻の場合はもっと切羽詰まった感じだ。
子供たちはとうに独立し、初恋の人だった従兄は病に倒れ、夫は事故後、不機嫌になったり自信をなくしたりしている。
そういう「母性」や「幸福な恋の記憶」や「夫婦の信頼」はままならなくなった。
それでも妻は誰かに想いを注ぎたいのだ。
どういう神様か具体的に浮かばなくても、人が祈りをささげるように。

年を取ったという理由で、老人が諦めねばならないとされるものはいくつもある。
でも誰かのことを考え、気持ちのやり取りを望むことまで、「それはもうやめたほうが」になってしまうのか。

本書が描きたかったのは、「知らない人を家にあげるのはやめようという教訓」や、
「いい時代に生きて貯蓄もある老人世代と、
不況で無気力な今考えなしに犯罪に手を出す若者との対立」
ではないと思う。
これは、愛の話なのだ。
ラストの青年との対決、そしてその後青年がこの妻を思い出すシーンは、
「成就しなかった求愛」に見えてしょうがない。
そして、叶えられたものより、叶えられなかった祈りのほうが心に残る。
この物語が人を引き付けてやまないのはそのためだ。
 
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代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ
間 室  道 子
 
【プロフィール】
雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする「元祖カリスマ書店員」。雑誌『婦人画報』、『Precious』、朝日新聞デジタル「ほんやのほん」などに連載を持つ。書評家としても活動中で、文庫解説に『タイニーストーリーズ』(山田詠美/文春文庫)、『母性』(湊かなえ/新潮文庫)、『蛇行する月』(桜木紫乃/双葉文庫)、『スタフ staph』(道尾秀介/文春文庫)などがある。

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