【第38回】間室道子の本棚 『荒野にて』 ウィリー・ヴローティン/早川書房
「元祖カリスマ書店員」として知られ、雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする、代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ・間室道子。
本連載では、当店きっての人気コンシェルジュである彼女の、頭の中にある"本棚"を覗きます。
本人のコメントと共にお楽しみください。
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『荒野にて』
ウィリー・ヴローティン/早川書房
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主人公は15歳の少年で、お父さんと、ワシントン州スポケーンから隣のオレゴン州のポートランドに引っ越して来た。ネグレクトというほどではないけど、お父さんは息子のことより自分の考えやお楽しみを優先しがち。スポケーンをなぜ離れたのか説明なしだし、息子に10ドルだけ渡して女と出掛け、しばらく帰って来なかったりする。
ある日事件が起き、少年は一人になる。彼ははるか遠くのワイオミング州ロック・スプリングスをめざす。父のお姉さんである伯母さんがいるかもしれないからだ。
この「いるかもしれない」というのが物語の重要なところ。数年前にお父さんは姉と仲たがいし、今は音信不通。そして伯母さんがロック・スプリングスにいたのは5年前で、そこからどこかに引っ越した、というのを少年は父から聞いていた。彼がもっと年下であれば心身の幼さから、もっと年上ならば分別から、ゴールが幻かもしれない旅になんて出ないだろう。
でも少年は東を目指す。彼にあるのは「もうここにはいられない」という焦燥感だ。この気持ちを分け合えるものが彼に同行している。それは馬だ。この馬にも事情があり、スポケーンから逃げなくてはならない。
荒野を渡るただでさえ過酷な旅なのに、馬連れ。足手まといなんじゃないか、見捨てればいいのに、と読者は思うだろう。でも、言葉は通じるのに心底思いをぶつけることができる人がいなかった少年に初めて、言葉は通じないけどたえずそばにいてくれて、胸の内を明かせるものできた。それが馬だったのだ。
読んでいて何度も、「手を差し伸べるってどういうことなんだろう」と考えた。少年を助けてくれる人もいる。金持ちだったり余裕があったりするわけではなく、皆ごくふつうの、あるいはやや貧しいアメリカ西部の人たちだ。ある人は心から、ある人は上から目線で、とりあえず自分にできることをする。でも、わけありの子供を泊めてやること、無銭飲食を見逃すこと、恐ろしい教訓譚をえんえん語ること、しかるべき施設に入れることが、「手を差し伸べる」ことなのか?私の前にこの子があらわれたらどうするか、読み終わっても結論は出ていない。
旅の前後で少年は万引きをするし、やがて空き巣や暴力に手を染めることになる。でも汚れていく感じはぜんぜんしない。彼が映画やスポーツ、走ることが好き、という少年性を失わずにいることと、「子供」という存在が根本的に持っている神々しさを作者が導き出しているからだろう。
ラストは、「これは少年が見ている白昼夢ではないか」と思うといっそう心が震える。私の中で、彼はいまも荒野を歩いている。小さき者に明かりを、と祈る方もいるかもしれない。でも彼自身が、私たち読者をこの先の人生に導く光そのものだ。