【イベントレポート】『土壁と杮(こけら)』-妙喜庵茶室(待庵)と書院保存修理の記録-刊行記念 藤森照信×田村尚子

11月21日、『土壁と杮(こけら)』-妙喜庵茶室(待庵)と書院保存修理の記録-刊行記念のトークイベントが開催された。
 
本作は、2019年に実施された妙喜庵書院および千利休が手がけた国宝茶室「待庵」の保存修理の様子を撮影した写真記録集。妙喜庵住職や専門家による書き下ろしテキストも掲載している。
 
今回のトークイベントでは、妙喜庵・待庵を撮影した写真家の田村尚子氏と、個性的な茶室を設計している建築家・建築史家の藤森照信氏が待庵を中心に語った。司会は、田村氏と親交がある明治大学の鞍田崇准教授。
 
※本記事は、約1時間超のトークイベントの内容を一部抜粋・再編集したものです。
 
千利休考案の待庵は“建築のアトム"
 
鞍田崇氏(以下、鞍田):まず始めに、本作に関わった田村さんから経緯や注目点を教えてください。
 
田村尚子氏(以下、田村):私は写真を中心に作家として活動していまして、抽象的な作品を展開してきました。ご縁がありまして、大徳寺・真珠庵の和尚さまに写真集を買って頂く機会がありまして、お届けに伺いお話をしていたところ、25年ぶりに真珠庵様の書院と茶室の屋根を修復するとうかがいました。お寺のアーカイブとして100年くらい残せるものを作りたいとおっしゃていて、「あんた、撮ってみてくれへんか?」ということになりました。私はもともと、写真を始める前にお茶の世界に関わりがあって……。
 
鞍田:田村さんは写真を始める前、京都で茶道裏千家に勤めていたんですよね。
 

今回刊行された『土壁と杮(こけら)』-妙喜庵茶室(待庵)と書院保存修理の記録-

田村:そうです。ずいぶん前になりますが、国際局という部署にいました。大徳寺ということもあり、茶道の世界にいた経験から大変興味深かったこともあります。一休禅師の本を読んだり、坐禅をさせていただいたりしながら、真珠庵には約10ヶ月あまり撮影に通わせて頂きました。それで完成したのが『《杮》真珠菴 写真記録集』という本なんですけど、大工さんの丁寧な仕事にだんだん見惚れ、造形も美しい。出来上がっていくうちに彫刻のようになっていくのも魅力でした。にもかかわらず、素屋根が取れて足場がなくなると見えなくなる屋根という...。
 
鞍田:地上からは見えなくなると。
 
田村:そうです。それで柿葺き屋根(こけらぶきやね)を中心とした本と、現場の写真と、大工さんのお仕事の風景を撮影しつつ、ご住職と相談しながら、本自体もプロデュースさせていただきました。京都府文化財保護課の方から「待庵の修復」の時期であることをお聞きしていて、妙喜庵を訪ねた後、偶然にも竹中大工道具館様が、こんな本を作りたいということで、真珠庵『杮』を提示されたことが重なりご一緒させていただくきっかけとなりました。
 
鞍田:待庵は、茶室の中でもとりわけ特別ですね。
 
藤森照信氏(以下、藤森):日本で残っている現存最古の茶室です。それ以前の茶室は消滅しています。
 
鞍田:待庵は画期的な茶室だったのでしょうか?
 
藤森:それ以前はもっと広いところで茶を飲んでいました。狭くて四畳半。広いとおおよそ十八畳。これを利休が一気に縮め、待庵でああいう狭い空間を始めます。
 
鞍田:今日、図らずも『藤森照信の茶室学』が文庫化されていました(編注:『茶室学講義 日本の極小空間の謎』角川ソフィア文庫)。この中で、待庵の誕生がスリリングにつづられていますね。
 
藤森:スリリングに書けたのは、待庵って実態が分からないからなんですよ。実は、待庵を利休が作った証拠はない。証拠はないけど、全員が「利休以外にあんなことできない」と認めている。実に不思議。「待庵」という言葉が出てくるのも、利休の没後100年くらいしてから。それまで皆知っていたけど言わない。徳川家が豊臣家の建物をどんどん壊していましたから、豊臣秀吉のために建造した待庵の存在を隠すために、徳川時代初期は言えなかったんです。
 
鞍田:なるほど。
 
藤森:そういう時期が終わってやっと公にできた。待庵は秀吉にとって、明智光秀を討ち取った記念の聖蹟みたいなものだった。
 
鞍田:豊臣家のシンボルみたいなものだったと。
 
藤森:そう。だから隠しておくしかなかったんですね。
 
鞍田:一方で、利休自身は豊臣の人間に飲まれるというより、立ち向かう気概があった。
 
藤森:よくそう言われる傾向があるのですが、それほどのものではなく、秀吉の好みと違うことをやりたかったのでないでしょうか。
 
鞍田:単に対決したわけでもなく、飲まれるわけでもなく……という点がすごくスリリングですね。反転の思想ですね。
 
藤森:そうそう。
 
田村:先ほど、待庵の中に入られたのは随分前だとお伺いしました。どんな印象でしたか?
 
藤森:私が確認したかったのは、あれが身体尺かどうか。身体尺というのは難しくて、完全に手を広げて、手がついてしまうと建築としては身体尺にならない。少しゆとりがないと駄目。それを確かめてみたかった。
 
田村:ご住職が「寝転んだ建築家の先生は初めてだ」とおっしゃっていました(笑)。入っただけではなくて、寝転んでどうでしたか?
 
藤森:ちょうど良かったです(笑)。身体尺を測るためにそうしました。
 
田村:六尺あったから、利休は身長が180センチくらいあったのではないかと言われていますね。
 
藤森:普通の人より大きい。(待庵を手がけるにあたって)手を伸ばしてちょうどこれくらい、というのはあったのではないでしょうか。炭炉の位置が大事で、待庵よりもう一つ小さいものもあります。寝転ぶと、手が炉にきてしまう。だから待庵は本当に身体尺だと思いました。
 
鞍田:藤森さんは著書の中で「待庵は建築のアトム」という言い方もされていらっしゃいますね。
 
藤森:建築空間の基本単位(アトム=原子)という意味です。世界で、建築を身体尺で示したのはレオナルド・ダ・ヴィンチ。デザインや絵のための技法だと思われていますけどそうではなく、あれはウィトルウィウスというローマの建築理論家の本を読みながら、それに対して、建築の本質とは身体尺であると考えて描いたものです。
 
鞍田:それに通ずるものが待庵にもある。
 
藤森:同じことを考えていた。レオナルドが絵に示し、ルネッサンスの建築はその身体尺を引き伸ばして作る。利休は、ギリシャ人から始まる哲学と考えが異なり、禅宗の影響を受けて身体尺を実践したのだと思います。
 
鞍田:茶室は、日常使いの場とは異なりますよね?
 
藤森:そうですね。それまでは日常使いの場所を転用していました。中国もそう。東屋や書斎を使っていました。そうではなく専用の場を作った。
 
鞍田:そこに、建築の原点としてアトムみたいなもの、待庵が生まれた、という考えはユニークだと思いました。
 
田村:利休さんが茶室を作ったとき、茶室の窓の位置とかも自分で考えたのですかね?
 
藤森:そうだとしか言えません。開けても外が見えない位置に窓を設けています。目の位置より上すぎるか、下すぎる。
 
鞍田:風景が見える位置ではない。
 
藤森:それは面白いことで、お茶室の中にいる写真はたくさんある。だけどお茶室の中に人がいるところを外から撮るのは絶対にしない。それはやってはいけないことだから。利休自身、外を見ることを嫌がった。
 
鞍田:閉じる方向、内側へ収束する。
 
藤森:要するに、利休のほうが鬱陶しいんですよ。狭い中に4時間いてごらんなさいよ。近年お亡くなりになったお茶室研究の第一人者である中村昌生さんに聞いたことがある。「鬱陶しくないか」って。そうしたら「私も鬱陶しい」って言う(笑)。とにかく利休は外を見るとか余計なことをしたらいかんと言っています。あの中で4時間過ごせと(笑)。
 
田村:でも時間を忘れるような空間でもあったような……。
 
藤森:私の経験上、4時間は友達と話していられる。あの空間の距離感とか色々含めて、4時間経つと飽きる(笑)。話題がなくなって、外が見たくなる。
 
鞍田:そういう空間の許容量をわきまえながらお茶を点てるのがいい茶人なのかもしれませんね。
 
藤森:そうですね。
 
待庵は民と貴族の家を分解・再統合した画期的建築物
 
鞍田:身体尺の話はなるほどな、と思いました。一方、窓の話のように、待庵には独特の光など色んな仕掛けがありますよね。写真家の田村さんの目から見てどうでしたか?
 
田村:撮影前に2時間くらい中で正座して体感したのですが、時計の針の感覚とは切り離された感じを受けました。そういう移ろいを表層的に写真で撮るのは難しい。けれども、それをなんとか撮れたら、という心持ちで向き合っていました。
 
鞍田:なるほど。
 
 
田村:あとは壁の色ですね。脇の露地も撮影したりしたのですけど、これはなぜかと言いますと、昔はその土地近くの土を使って土壁を作っていたという話を聞いて「このあたりの土も使っていたのではないか」という意見が出たんです。そうした土壁と周囲の土の関係性も含めて、脇の露地を撮影しました。
 
鞍田:土壁も、普段私たちが見る壁とは異なる独特のものを感じましたか?
 
田村:土壁が光を吸収して、連子窓からの光が巡り、コントラストを上手く醸し出しているような気がしました。
 
鞍田:そうなんですね。
 
田村:今回は茶室の外壁の修理もありました。壁を削ぎ落として中塗りして乾いたらまた塗って……と何重にもプロセスがあります。茶室内側はほとんど触られていなくて、床の亀裂が入った部分は左官の棟梁が注射器で細かく修復作業をしていました。待庵の内側の土壁は年月が経って痩せて、下地の葦(よし)が、骨が出てくるような感じで見えました。そういった点にも時間を感じました。
 
 
鞍田:藤森さんから見て、待庵の土壁はいかがですか?
藤森:土壁の芯は普通は竹で作るのですが、待庵は葦だけで作っています。応急的に作ったのでと思われます。ものすごい薄いです。
 
田村:2度の大地震を経験してこれだけ崩れないのは、強靭ということですかね?
 
藤森:強靭ではないです。軽く作られているので地震には強い。紙みたいなもの。
 
鞍田:地震で紙は破れないですもんね。
 
藤森:待庵以前は、土壁の空間でお茶を飲むことは基本なかったんです。お茶は貴族や有力な町人が飲むから、 貼り付け壁と言って、土壁の上に紙を取り付けて、そこに絵を描いたりしていました。だから土壁をちゃんとしたところに使わなかった。農家のやり方だった。ちゃんとした茶室文化に土壁を持ち込んだのは待庵が初めて。ただ農家は土壁だった。
 
鞍田:歴史や豊臣秀吉との関係性を超えて、このタイミングで利休が待庵を生み出したことに価値がある。
 
藤森:待庵は民家の造りと、書院造りの作り方が組み合わさっています。書院造りというのは床の間と障子と天井、ふすま、畳が入っています。床の間と畳を敷くという行為は重要で、利休たちが堺でお茶を始めた初期は、堺の豪商といえど、畳には住んでいませんでした。板の間です。
 
鞍田:そうなんですね。
 
藤森:畳は大名や天皇、お寺のものだった。で、お茶を飲むところだけに畳を敷いた。それで初期の茶室は座敷とも言われています。
鞍田:特別だったと。
 
藤森:そうした傾向は書院造りに由来します。民家の造りと書院造りを分解して、それぞれの要素を組み合わせる。それを利休が初めてやりました。
 
鞍田:利休はどこかでこれに挑戦しようと思っていたのですかね。
 
藤森:思っていたのではないでしょうか。あれだけ完成度が高いものを一気に作れるとは思いません。機会があればやりたいと思っていて、秀吉の山崎の合戦(編注:豊臣秀吉が明智光秀と戦った合戦)に合わせて作ったというのが私の説です。
 
日本の茶室は世界的に稀な極小建築
 
田村:待庵は室床の天井も、全て土壁ですよね。
 
藤森:待庵の床の間は、床の間なのに天井まで土で塗ってあるんですよね。だから洞窟になっている。
 
田村:それが、包まれる感じがしました。その天井ですが焼き物の表面のようで、同時に内側のようでした。
 
藤森:樂吉左衞門さんが、楽茶碗をのぞきこんだときの感触が、室床のあの感じだというようなことを書いていたのを思い出しましたね。待庵の完成が先ですから、待庵が楽茶碗を生んだとも言えますね。待庵のような茶室が引き続いて茶の道具文化を生んだと考えています。
 
鞍田:興味深いですね。屋根はいかがでしょうか。
 
藤森:待庵で採用されている柿葺き屋根は、まっ平らです。板葺きは世界中にありますけど、薄い板を重ねて屋根を構築する柿葺き屋根は日本独自のものです。
 
田村:柿葺き師(こけらぶきし)という専門職の方々が、薄い板になるまで手で割っていく作業までしていきます。釘は竹釘と普通の釘と両方使っています。竹釘は雨が降ると膨張して余計強くなり、よく使われていました。森から木木を伐採して、(屋根板にして)乾かす時間まで含めたら、屋根の上まで登るのに何年もかかっています。
 
藤森:それはね、待庵など京都だけ。昔の普通の柿葺き屋根は、来年屋根を葺きたいという人が、秋くらいに木を倒しておくんですね。そうして柿葺きを作る職人が来て、45センチくらいの丸太にして、それを杮に割っていく。そんなに大したものではありません。
 
田村:柿葺きの素材としては、大体がサワラや杉の木で、日常使いですよね。
 
藤森:そうそう。栗も使います。
 
鞍田:あと今回の本には、職人さんの風景写真が入っていますよね。田村さんは、記録以上に何か惹かれるものがありましたか? 
 
田村:ものづくりは手間暇がかかります。毎日積み重ねていく中でこういうものが生まれる様子は、色んなものがスピーディーに出来上がる現代と比較して興味深いですし、何かのめり込んでしまうものがありました。準備の過程から撮らせてもらったのですが、木と人間の関係、修理の背景で繰り返される関係性などは、1年近く職人さんとご一緒させて頂く中でよく考えました。
 
鞍田:今回は竹中大工道具館さんとの仕事でしたが、さらに待庵について新しい展開も考えているんですよね。
 
田村:そうです。来年も待庵を撮り続けます。待庵のように狭いけれども奥行きがある空間というのは、日本家屋の中でもよく感じるので、そういう点を注視していきたいです。
 
鞍田:藤森さんは、茶室の今後などについてどう考えていますか?
 
藤森:世界の建築が巨大化している反動なのか知らないけれども、小さな建物への関心、茶室の面白さは世界的に広がっていると思います。
 
鞍田:感覚、興味が自分の身体サイズに戻っている傾向があるんですかね。
 
藤森:そういうものを求める人たちが現れている気はします。そういう点でいうと、世界の歴史的建築の中に、日本の茶室のようなものはありません。小さなものを建築家が本気で作ったというのは日本の茶室だけです。
 
鞍田:そういう点が今後注目される可能性はありますね。
 
文:桜井恒ニ

[プロフィール]
藤森照信 (ふじもり てるのぶ)
昭和21年、長野県生まれ。建築家、建築史家。近著として、『藤森照信のクラシック映画館』(青幻舎)『近代建築 そもそも講義』(新潮社)。建築作品としては〈ラコリーナ近江八幡 草屋根〉〈多治見市モザイクタイルミュージアム〉など。極小建築としての茶室にも関心があり、〈高過庵〉〈空飛ぶ泥舟〉〈ビートルズ・ティーハウス〉など国内外に多くの作品がある。
 
田村尚子 (たむら なおこ)
徳島生まれ、京都在住。1998年より写真作品を中心に国内外での展覧会など多数。著書に『Voice』(青幻舎)、フランス精神科病院を撮影したシリーズケアをひらく『ソローニュの森』(医学書院)、『タウマタ』(T.I.G.ギャラリーparis/tokyo)他、真珠庵『杮』屋根葺替記録写真集を刊行。art&cinemaヴュッター公園を主宰する。

 

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