【イベントレポート】「日本相撲史」復刊記念 芝田山親方トークショー【前半】
―昔の相撲には、土俵がなかった?! 意外と知らない相撲の歴史

古代から大正までの相撲の歴史を網羅した『日本相撲史』が、この度、銀座 蔦屋書店限定で復刊いたしました。復刊を記念し、2017年9月5日に開催されたトークショーのレポートを2回にわけてお送りします。

ゲストは第62代横綱・大乃国(おおのくに)、芝田山(しばたやま)親方と、相撲博物館学芸員の土屋喜敬(つちや よしたか)さん、そして、文化放送アナウンサーの寺島尚正(てらしま なおまさ)さんにお越しいただきました。
『日本相撲史』
銀座 蔦屋書店限定で復刊

 

 

「相撲の殿様」の膨大なコレクションから


寺島尚正さん(以下、寺島) みなさん、こんばんは。今から『日本相撲史』復刊記念の芝田山親方トークショーを始めさせていただきます。

初代相撲博物館長であり、初代横綱審議委員長でもある酒井忠正氏が編纂した『日本相撲史』。掲載内容は、時代でいくと相撲が始まったときから大正時代までで上・中巻があります。錦絵や星取表も掲載されています。

相撲はどこでどうやって生まれたものなのかといった素朴な疑問も含めて、ありとあらゆる細かな内容が網羅されているのがこの『日本相撲史』でございます。

さて、今夜はお二方にお話を伺います。第62代横綱・大乃国、芝田山親方に加えて、相撲博物館の学芸員、土屋喜敬さんにお越しいただいております。よろしくお願いいたします。

土屋喜敬さん(以下、土屋) こんばんは。よろしくお願いいたします。

芝田山親方(以下、芝田山) 今日はこの本の出版ということですが、実は私は、この本に関しては全く分からない。今日初めて見たんです。

(会場 笑い)

芝田山 でもね、ちょっと勉強しなきゃいけないなって思いました。この社会の重鎮として少しは勉強して、そういうことも話に含めていかないと。自分のやってきたルーツだけをしゃべっててもだめ。

寺島 早速ですが土屋さん、この本の資料というのは、ほとんどが酒井忠正さんという方の集めた資料だそうですね。

土屋 そうですね。酒井忠正というのは、俗に「相撲の殿様」なんて言われている人物でして、もともと、姫路に酒井家という近世の大名がいますが、そこのうちの末裔になります。世が世なら本当にお殿様といったところです。

幼少の頃から相撲が大好きで、10代くらいの頃から絵葉書や錦絵なんかをどんどん集めていって、膨大なコレクションになったわけです。戦後、昭和29年に相撲博物館が開館することになるんですが、そのときに納めていただきました。自らも初代の博物館館長に就任し、その後も収集や研究をずっと続けていきました。

昔の相撲には、土俵がなかった?!

『日本相撲史』より


寺島 相撲のはじまりは、だいたい何年前と考えればいいんですか?

土屋 これは、見方によっていろいろな見解があります。博物館でもよく聞かれるのですが、日本で言ったら、相撲のような力比べは1500年ぐらい前からとお答えしています。

古墳に埋められている埴輪の中に、胴回りがしっかりして脚がすごく太い人物の埴輪がありまして、それが「ちからひとはにわ」と命名されています。恐らく、相撲のような力比べをしていたのではないかと考えられているんです。それが1500年ほど前のものなんです。

寺島 モンゴル相撲もあるように、世界にもけっこう、日本の相撲に似ているものはありますよね。今のこの相撲の形になってきたのは、やっぱり江戸時代くらいなんですか?

土屋 そうですね。勝負に境界線を用いる土俵というものが現れたのが、だいたい江戸時代の前半、17世紀の後半くらいです。そこからが、今の相撲に近いという風に考えられています。

寺島 今の相撲になる前の相撲って、どんな感じだったんですか?

土屋 土俵ができる前は、勝負を決める境界線がないんです。ですから、「寄り切り」とか「押し出し」とかの技はなく、掛け技とか投げ技とか、お客さんの中にポーンと倒すとか、そういう技しかありませんでした。立ち合いも、昔は柔道のように立ったまま歩み寄っていって、こう、がんと組み合うようなやり方だったんです。

寺島 土俵の形や大きさは、いつ頃、今のものになったんですか?

土屋 今の大きさになったのは昭和の初めです。今は直径15尺、4m55cmなんですけど、それ以前は13尺、3m94cmの土俵でやっていました。13尺に定まったのは、だいたい江戸時代の前半なんじゃないかなと。

実は、土俵の大きさを示す文献がなかなかなくて断言はできないんですけど、元禄くらいに13尺という事例があるので、意外とその頃から定まっていたのかもしれないな、と最近は思っています。

寺島 親方は身長189cm、一番多いときで210kgくらいありました。4m55cmの土俵は、狭かったんじゃないですか?

芝田山 私と小錦と対戦するときは、お互い後ろに一歩ないんじゃないかみたいに言われましたけどね。だけど、土俵は円ですから、これ、一つの永遠って言うぐらいでね、限りなく円なんですよね。ぐるぐるぐるぐる回り続けられる。

「そこを100m走ってこい」って言うよりも、あのぶつかり稽古のときの、土俵の4m55cmの長いこと。もうこれは本当に、延々と長いなという気がしました。

「横綱」は大関や関脇よりもずっと新しい



寺島 さて、私の隣には第62代横綱・大乃国がいらっしゃいますけれども、「横綱」についてお伺いします。「横綱」というのはいつ頃からのものなんですか?

土屋 実は歴史で言うと、横綱は大関や関脇よりもずっと新しいんですね。横綱が初めて土俵入りをしたのは、200年ちょっと前というところでしょうか。その横綱の土俵入りが非常にすばらしくて、お客さんがみんな喜んだんですね。「私も見たい、私も見たい」と言って。

それでだんだん定着していくんですが、横綱は、当時は番付上の地位じゃなかったんです。強い力士だけに許された称号のようなもので、番付上ではあくまで大関なんです。強い人しかなれないっていうのは今と同じなんですけれども、ちょっと制度が違ったということですね。

芝田山 その時代はテレビもなかったでしょうし、それだけの価値があるんですよね。私も土俵入りを稀勢の里(きせのさと)に教えましたけれども、やっぱり、横綱にはこの日本の伝統のしきたりをしっかりと学んでほしいなと。

一つひとつの動作にそれぞれ意味があるということをしっかり重んじて、次の時代に伝承していくという大きな役割がある。だって、横綱の土俵入りが見たいって言うんですから、大変なもんですよね。

寺島 2017年は、稀勢の里が第72代の横綱になりました。親方が土俵入りを教えたときは、どんなお気持ちだったんですか?

芝田山 一応、私が教わってきたことをしっかりと教えてきたつもりです。やはり、土俵入りは伸びる腕も手先もしっかり伸ばすところは伸ばすというところに美しさがあります。
 
私は雲龍型で、左で守り、右で攻めを表しますが、メリハリを持って一つひとつの動作をやることによって、そこにそれぞれの横綱の特徴が出てきます。それによって、「あの人の土俵入りがすごく好きだ」とか、「この人の土俵入りが好きだ」ということになってくるんだと思います。

毎日の稽古は、あの世とこの世の境目



寺島 横綱になる前は、まず、昭和53年の春場所が初土俵です。そして58年、春場所に新入幕になりました。

同じ年の九州場所、前頭三枚目で、千代の富士(ちよのふじ)、隆の里(たかのさと)、そして北の湖(きたのうみ)、3横綱総なめ。1場所で、金星3つ。まあ、これは何人かいるんです。ただ、総なめっていうのはいなかったんですよね。

芝田山 そうみたいですね。まあ、金星をいっぱい獲ってる人は他にもいますけど、1場所で、ですからね。4人、ばーっと倒しちゃえばいいんですよ。そうしたら、大乃国を抜けるんですから。それでオッケーですよ。

寺島 いや、オッケーって、軽く言われてもなかなかそれはできません。

芝田山 だから、それが自分の勲章だね。

寺島 2場所後の関脇でも、横綱総なめしてるんですよ。ただ、もう金星とは呼ばないので。

芝田山 そうですね。3横綱3大関とかね、そんなこともありました。まあ、4大関いっちゃえばよかったんですけどね、なかなかそうもいかなかったんです。あの頃は、もう15日間、毎日、横綱、大関と当たるとうれしいなって思っていたくらいでした。

寺島 あれだけ稽古してて、自分で力がついてるっていうのが分かったんですね。

芝田山 二子山部屋で稽古してましたしね。毎日、あの世とこの世の境目を行ってましたから。相撲では、練習のことを稽古って言いますよね。幕下以下は修行の身であると言いますけれども、相撲の「稽古」、「稽古」から「修業」、「修業」から「行」に入っていかないと。

体も心も、究極に追い込んで、追い込んで、追い込んでこそ、本当の力が出てくると思うんですよ。夏の暑いときに、何回「ここで殺してくれ」っていう気持ちになったか分からない。だけど、それがやっぱり一つの行で、意識が朦朧としても、これをやらなきゃ終わらないんだっていう気持ちで毎日やってましたからね。

寺島 その当時の二子山部屋と言えばね、大関・若嶋津(わかしまづ)、横綱・隆の里がいたわけですよ。だから、土俵の上で勝てばこれが恩返しになります。

芝田山 2代目の若乃花(わかのはな)もいました。あと、一番最初、幕下でいたころは、晩年の貴乃花(たかのはな)のお父さんもいましたしね。とにかく、7人くらいの関取衆がいましたから。
 
ですから、もう、今の二所ノ関(にしょのせき)親方、若嶋津さんと、毎日、三番稽古ですよ。だいたい1時間10分から15分、必ずやりますから。そうするとまあ、60番以上は必ずやるわけですよ。
 
今日、若手の記者の方が後ろにいますけど、今の関取衆はだいたい、多い人でどれくらいやってるんですか?

記者 20番くらいです。

芝田山 20番でしょ。20番で多いっていうのがね。若い方も記者のみなさんも、知らないんですよね、我々の頃を。だから仕方ないんですけれども、私に言わせたら20番なんて稽古じゃないよと。そんなの朝飯前の前だよという話でね。

「稽古しすぎたら怪我のもとになるんですか?」なんて言う人もいますし、「体が大きいから怪我をするんじゃないですか?」と言う人もいますけど、それは大間違い。みなさん、怪我をしないために練習するんじゃないですか。

シルク・ドゥ・ソレイユのサーカスの方だって、練習なくしてあんなことできませんよね。練習に練習に練習に練習を重ねて、ああいう技ができるわけですから、我々も同じです。

やっぱり、心身ともにぎりぎりの線まで追い込んでいかないと、本当の力は出てこない。私は80kgの体から200kgになりましたけれども、今のお相撲さんの200kgと私の200kgは全然ものが違うんだということなんですよね。

5分以上は危険とされるぶつかり稽古を、私は毎日15分でしたからね。長いときは30分ですよ。もう、「いい加減にしてくれよ」と思いました。苦しい思いをしてきたけど、今思えば、あれがあったから今がある。もちろん、寺島さんも同じ時代を見ていますからね。

寺島 私もね、本当に死んじゃうんじゃないかって思いましたからね。あの当時は160~170kgでしたかね。

芝田山 最初は120kgくらいです。その後に145kg、そしてパンパーンと、160kgだか170kgくらいになっちゃったんですよね。大関のときにはもう180kgありましたから。だけど、180kg超えのときの体が一番動いたし、押されても押されない、引かれても落ちないっていう大きな自信がありましたよね。

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今回のイベントレポートはここまで。イベント後半では、芝田山親方が現役時代の胸中を語ってくださいました。当時、リアルタイムで見ていた人には、たまらない内容となっています。
>>イベントレポート後半はこちら

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