【イベントレポート】柴崎友香の書く“よくある日常”には人類学が潜んでいる? 新作『待ち遠しい』刊行記念

芥川賞作家・柴崎友香さんの新刊『待ち遠しい』(毎日新聞出版 刊)の刊行を記念して、 2019年 7月28日、梅田 蔦屋書店でトークショーが開催された。
 
一軒家で一人暮らしを続ける北川春子39歳。夫を亡くしたばかりの青木ゆかり63歳。現実的な今どきの新婚・遠藤沙希25歳。年代も性格もまったく異なる3人の出会いから始まった、温かく、どこか嚙み合わない“ご近所付き合い"、その行方は――。たまたま知り合った他人同士が、年代や価値観、育ってきた環境の違いなどを越えて、関係を深めていくこと、そして、本当に分かり合うことは可能なのかを考えさせられる作品だ。
 
ゲストには、『うしろめたさの人類学』(ミシマ社)に感銘を受けた柴崎さんの希望で、著者である文化人類学者・松村圭一郎さんが招かれた。
 
多くの小説で人と人との距離感をリアルに描き出してきた柴崎さんと、エチオピアの農村や中東の都市でフィールドワークを通じて文化人類学の観点から「人と人との関係」を見つめてきた松村さん。そんな二人が「他人との関係」をテーマに話を展開した。
 
 
 

「誰にでも“よくある”ことだけを書いている」(柴崎)
 

左から、柴崎友香さん、松村圭一郎さん
 

松村圭一郎さん(以下、松村):『待ち遠しい』の主人公は、20代、30代、60代と、年代の異なる3人の女性。帯には、「これはきっと、『あなたの物語』」とありますね。僕も「そうそう、こういう人いる!」と思いながら読みました。

柴崎友香さん(以下、柴崎):私の小説を読んでくださった方は、よくそう言ってくださいます。ご自身の経験を教えていただいたりして、小説の続きを聞いているような気持ちになります。今回は、特にそうですね。
自分の中で、いくつか小説の系統があるんです。『待ち遠しい』は、誰にでも“よくある”ような、友達などから聞いたことがありそうなことだけで小説を書いてみようというシリーズ。『フルタイムライフ』(河出書房新社 刊)、『虹色と幸運』(筑摩書房 刊)と少しずつつながっています。
 
わざわざ言葉にしないような“よくあること”だからこそ、書くことで「本当に?」「なぜそう言うの?」と、改めて考えられることがたくさん詰まっていると思うんです。
 
毎日通っている道で建物が取り壊されて、毎日見ていたはずなのに「あれ?ここに何があったんだっけ?」って思い出せないこと、ありませんか? そういう、ないことになっている存在が日常生活にはいっぱいある。誰も書かない、忘れてしまうことを私が書いて残す、という感覚です。
 
 
 

柴崎友香の小説=人文地理学?

松村:観察眼がすごいですよね。
 
柴崎:私は、見て考えるのが好きなんです。意識して物事を見ているというよりも、ただ「何でこうなってんのやろう?」と面白がって見てしまう。
 
松村:職場でのシーンが印象的でした。男性社員や上司から「女性は結婚して家庭に入ることもできるし、仕事もできるし、自由で羨ましい」と、主人公の春子が言われる。春子は考えます。女性は不満をワイワイ話して解消することが多いけど、男性でそうする人は少ない。でも男性は、そんな女性たちの様子を見て楽しそうだと言う。じゃあなぜ、そうしないんだろう、って。
 
柴崎:そういう定番の言い回しは、「あるある」「そうそう」と盛り上がる程度で普通は流されてしまいがち。松村さんの著書『うしろめたさの人類学』では、そういうことを考え直すきっかけがたくさんありました。
 

 
 
松村:人類学って、みんなが「こうだよね」と思っていることに茶々を入れる学問なんです。世の中的な「あたりまえ」とは違う可能性を探るんです。
 
人類学者は、よく民家に居候をさせてもらいながら、なるべく普通の日常に身を置こうとします。そして、予定していた話を聞くのではなく、起こっていることに巻き込まれていく研究方法をとります。私は大学3年生を終えた後に1年間休学してエチオピアの村に滞在したのですが、その際にお世話になった村のおじいさんのところには、20年経った今も毎年のように訪れています。調査といっても、朝、顔を洗って、ご飯を食べて、畑仕事に付いていく、というように人びとと一緒に生活しているだけなんですが。
 
こちらが持っている常識や”当たり前”を横に置いて、そうやって他者の日常に巻き込まれながら、彼らとわたしたちの「ずれ」や「つながり」に向き合うことを大切にしようとしています。
 
柴崎:松村さんが人類学をやろうと思ったきっかけは何だったんですか?
 
松村:大学生のころ、文化人類学の実習で島根県の漁村に行ったんです。普通の漁村なのですが、おばあちゃんたちの話を聞いていくとめちゃくちゃ面白い歴史が見えてきたんです。日本史の教科書には書かれていない普通の人々の生活があんなに興味深いとは思っていませんでした。しかも、自分の足で歩いて話を聞いていくことで、明らかにしていける。私の見方、考え方、捉え方で、等身大で世界に向き合える学問だったんです。
 
柴崎:関心が似ているかもしれません。松村さんは人類学で、私は小説で。表現方法が異なっているだけ。
 
私は大阪出身なのですが、子どものころから国立民族学博物館(民博)がめっちゃ好きなんです。大学では人文地理学を専攻しました。人の生活が自然環境とどう結びついているかとか、街や集落がどう変遷してきたかとか。人がどういうことを考えて、どう世の中をつくっていくかということが、すごく面白くて。民博にはそういうことを形として見られますよね。同じ”家”や”船”というものでも、つくられた場所によって少しずつ違う。なぜ違うんだろう、なぜ自分はこのやり方をしているんだろう、ということなどを考えさせられます。
 
松村:柴崎さんの小説は、まさに人文地理学なんだと感じました。人類学との違いは、空間や場所へのこだわりがより強いこと。家や街に住むということと自分のあり方が、どこか結びついているに違いないという考えが、すべての作品に出ている。
 
柴崎:人は場所に影響しますし、場所も人に影響します。『待ち遠しい』は京阪沿線の話。住んでいる場所や職場なども地図を見ながら細かく考えています。

 
「春子の職場と住まいは京阪沿線、両親が今住んでいるのは阿波座らへん、元々住んでたのは大阪市内のもっと真ん中のほうです。」(柴崎さん)
 
 
 

“当たり前”とは何か
 
柴崎:作中で、一人暮らしをしている春子が尿管結石になりますが、実は私も経験しました。めちゃくちゃ痛いですよ!一人暮らしで元気な時は気にならないことが、病気になると困るということに気付くんですよね。
 
松村:痛さの表現が真に迫っていました。
 
柴崎:関西人的に言うと、元は取ったなと(笑)。
 
松村:春子は、救急車を呼ぼうか迷うんですよね。日本の社会って、人に迷惑をかけないようにとか、目立っちゃうかなとか、気にする側面がありますよね。
 
柴崎:春子は全体的にそういう部分が強く出ている性格です。でも、この”迷惑”って何なんやろうって、私は思うんです。迷惑だと思っていることは、本当に迷惑なのか。誰にとっての迷惑なのか。
 
松村:私も、エチオピアを研究しているんですが、同時に「なんで日本ではそうなるのだろう」と考えてきました。そんなに他人に迷惑をかけることを避ける社会になったのはなぜなんだろうか、とか。
 
エチオピアからみると、日本では見知らぬ他者とリアルに出会うこと自体が避けられているんじゃないかと思います。例えば、コンビニでは店員とお金のやりとりをしているはずなのに、”人と出会っている”という感覚はありませんよね。
 
柴崎:日本って、コンビニに限らずお店で店員さんから「こんにちは」「いらっしゃいませ」と言われるけれど、それに誰も返さないですよね。外国から帰ってくると、不思議な光景やなぁって思うんです。接客は丁寧なのに、それに対して返事をしない。
 
松村:人間とコミュニケーションしている感じがしないんですよね。海外で目にする不機嫌そうな店員に、逆にホッとする時があります。ああ、人間がいる、って。
 
柴崎:お客さんもハローとかなにか言いますよね。私は、大阪ではバスから降りる時に「ありがとう」、飲食店を出る時には「ごちそうさま」と言うんですが、東京に住んでいるとそういうことをする人は少ないから、だんだん、自分だけやったらおかしいかなと思うようになってしまう。
 
大学生の時に、ほかの地方出身の友人に「お金を払っている側がなんでお礼を言うの?」って言われて、すごくびっくりしたことがあります。その時は、何と答えたらいいのか分かりませんでした。『うしろめたさの人類学』を読んで、そのお礼は物の対価ではなくて、買い物をすることで関係性を持ったことに対するお礼だったんだなと納得しました。ようやく言葉にできました。
 
また、コミュニケーションといえば、ニューヨークの地下鉄のことを思い出しました。車椅子の人がいたら手伝うことが当たり前になっているんですが、周りの人は、それに対して特別にいいことをしているという意識はないんです。そこに居合わせたから手を貸す。手伝ってもらった側も、恐縮してる感じはない。日本では手伝うことが「特別な親切」だという意識があるから、ハードルが高く感じられる。障害のある人との関わり方が違うなと思いました。
 
松村:日本では対処法がマニュアル化されて、システム化されていて、そのシステムに不測の事態を回収させるから、一般の人が煩う必要がないんですよね。ホームで人が倒れていても、自分で声をかける前に「駅員さん、人が倒れていますよ!」って。
 
柴崎:もしくは誰かがやってくれるんじゃないかと考える。確かにシステムは便利で、感情の労力を使わなくてすみます。東京だとひと言もしゃべらずに生活できるけど、一方では、病気の時に救急車を呼んでいいのか、人の子どもを注意していいのか、といったことで迷ったり。人間関係は窮屈になっている。矛盾を感じます。
 
松村:『待ち遠しい』の主人公の一人、25歳の沙希は、春子に対して一人で生きることは変、子どもが欲しくないなんて人としておかしいと思う、などズバズバと物を言いますよね。
 
柴崎:沙希は真正面から言葉を選ばないで言うから性格が悪いと感じられるかもしれませんが、社会の中にあるうっすらした圧力を内面化した存在として書いているんです。 
 
松村:沙希の個人的な見解ではなく、社会のマジョリティの潜在的な見方が可視化される。それに対して春子は、ドキッとして立ち止まって考える。
 
柴崎:普段はやんわり受け流したりすることも、近くにいる人に言われたからこそ、反論や自分の考えを伝えるために何と言葉にすればいいか、考えるきっかけになる。
 
松村:本当であれば付き合いたくなくなりそうだけど、春子は悩みながらも関わっていくことを選ぶ。
 
柴崎:腹立つ人とか、自分と合わない人でも、助け合うことはできるんじゃないか、と思って。私は東京では近所づきあいがないんですが、だからこそ、この”近所づきあいがない”という状態が何でなんやろうと考えもします。
同じアパートでの近所づきあいを描いた『春の庭』(文藝春秋 刊)はいろんな国の言葉に翻訳されて、台湾、イギリス、ドイツ、ロシア、アイルランドでイベントもやったんです。そうしたら、お客さんから「この人達はなぜ、人と関わらないでこんなに寂しい生活をしているのか」と。逆に日本では、どちらかというと、同じアパートの知らない人と話すなんてありえない、コミュニケーションが多すぎるという感想が出るんですよね。外国で話をするたびにギャップを感じて、自分の今の生活って何なんだろうと。答えは出ていません。ずっと思っていることが『待ち遠しい』につながっていると思います。
 

「『うしろめたさの人類学』を読んで、普段、日本に住んでいると国家の存在を意識しないけど内面化はしているというのを、確かにそうだなと思って。私の小説は日常を描いていると言われますが、日常こそが、社会、政治につながっているんじゃないかと思いました」(柴崎)
 
 
 
 
他者との関係の中で“私”はつくられていく

松村:人類学の普遍的なテーマに「プレゼント」があります。パプア・ニューギニアのトロブリアンド諸島などの民族は、クラという交易を行っています。2つの宝物を時計回りと反時計回りに渡し合うことで、結果としてそこにネットワークが生まれるんです。
 
『待ち遠しい』ではゆかりさんが春子にイチジクを贈る場面から物語が展開していきます。『春の庭』にもお土産にまつわるエピソードがたくさんありますよね。太郎という登場人物は、お土産にもらった干物が好きではないからと他の人にあげてしまう。そうすると、その人は「これ、欲しかったんだよ!」とお礼を言い、違うものをくれる。そこに結びつきがうっすらと立ち上がるんです。人類学の贈与論って、こういうことやねん、って思いました。これは授業のテキストで使えますよ! 
 
柴崎:太郎がもらったものを他の人にあげてしまうという行動について、小説では善悪の価値判断は入れず、ただの行為としか書いていません。だから、読者の感想も分かれるんですよ。失礼だという人がいる一方で、人間関係をつくっていると好意的に受け止める人もいる。その反応の違いはなんでだろうと思うし、その違いに興味があります。
 

“太郎”という名前は、柴崎さんが昔話風にしたいと名付けた。「今の小説等では努力が報われるという話が多いけど、昔話は何もせえへんけどいいことある、っていう話が多いですよね。『わらしべ長者』『三年寝太郎』とか。昔話にはこうなったらいいなという世の中的な願望や思わぬことが起こるおもしろさを感じる一方で、現代の物語の努力ありき、原因探し的なところがしんどい」
 
 
松村:プレゼントを通じて、人間の関係は生まれていくし、巻き込まれていく。それが東京では、24時間コンビニは開いているし、お金を払って商品交換さえできれば、人との煩わしい関係なしに一人で生きていける。『待ち遠しい』では、それでも問題が起きた時に手を差し伸べてくれる隣人がいることの意味を考えさせられますよね。考え方も価値観も違うけど、どういう関係であれ、それぞれにとって互いが欠かせない存在になっていく。
 
柴崎:私は“私”を通してしか社会を見られないけれど、一方で“私”は他人との関係のなかで存在している。そして、場所によって少しずつ違う自分がいるんです。大阪にいて大阪弁で話している自分は、いろんなことを言えている気がするけれど、表現やコミュニケーションで楽をしている感覚がある。東京では標準語を話して、言葉を選びながら話す内容を意識していると思う。さらに外国に行くとハイテンションになっていたりして、自分に新たな側面があったんやって気付く。場所や人間関係によって二重性が生じるんですね。同じ部分、違う部分が重なり合っていて面白い。
 
 
 

小説を書きながら、登場人物たちと同じ時間を生きている

柴崎:松村さんは研究対象のところに居候するとおっしゃっていましたが、私も登場人物たちと同じ時間を生きている感覚で小説を書いています。だからその中で起こることは、自分も一緒に体験しているということなんです。
 
松村:書き始める時から、結末は決めているんですか?
 
柴崎:小説を書き始めたころ、最初の何作かは明確に決めていましたが、今は細かいところは決めていません。それよりも、この小説がはじまるまでに、登場人物たちがどんな人生を歩んできたか、場所などは細かく設定します。最後はどこに着地するかは書きながら考えているんです。
 
松村:現実の人生と同じですね。ぼくらもつねに未来がわからないまま行為しているわけで。
 
柴崎:現実での私も近所づきあいは苦手だし、人間関係もうまくいかないかもしれない。でも、小説の中では、もしかしたらうまくいく可能性を示せるんじゃないか。そんな気持ちで、希望を持ちながら書いているんです。
 
 
 
 
【プロフィール】
柴崎友香(しばさき・ともか)

1973年大阪生まれ。2000年に『きょうのできごと』を刊行(2004年に映画化)。2007年『その街の今は』で藝術選奨文部科学大臣新人賞、織田作之助賞大賞、咲くやこの花賞、2010年『寝ても覚めても』で野間文芸新人賞(2018年に映画化)、2014年に『春の庭』で芥川賞を受賞。
 
松村圭一郎(まつむら・けいいちろう)
1975年、熊本生まれ。文化人類学者。岡山大学文学部准教授。エチオピアの農村や中東の都市でフィールドワークを続け、富の所有と分配、貧困や開発援助、海外出稼ぎなどについて研究している。著書に『所有と分配の人類学』(世界思想社)、『基本の30冊 文化人類学』(人文書院)、『うしろめたさの人類学』(ミシマ社)、編著に『文化人類学の思考法』(世界思想社)。

 

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