【裏方のコラム】『死ぬまでに行きたい海』――子どもの頃の記憶を辿って

梅田 蔦屋書店の裏方スタッフが執筆する「裏方のコラム」。装飾・デザインチームを中心として、本や売場、その周りについてをお届けします。
 
 
『死ぬまでに行きたい海』
――子どもの頃の記憶を辿って
 
 

いつか訪れた場所。かすんだ記憶の輪郭に鉛筆を当てて少しずつ濃くする。使う鉛筆は4Hくらいだろうか。岸本佐知子さんのエッセイ『死ぬまでに行きたい海』を読みながら最初に思ったことは、そんな一つずつの記憶をなぞるような地道な作業についてだ。

著者の記憶を思い出しながら、現在のその場所を再び訪れることによって語られる22篇。最初のエピソードである「赤坂見附」では、80年代、大学を卒業して初めて勤めた会社が入居していたビル、当時通った駅前のファッションビル、お昼に利用していたカレー屋と、そこを取り巻く人々や風景を思い出し、変わりゆくものを目の当たりにしては感慨深く語られる「当時」と「今」がある(それはその後に語られることの骨幹でもある)。懇意にしていた店がなくなり気持ちに穴が空くこと、まだあったとほっと胸を撫で下ろすこと。どちらであれ感じる空気は「しみじみ」としている。記憶と現実を馴染ませるようなしみじみは、読み進めるにも心地がいいものだった。

「赤坂見附」に添えられた写真
 
 
――過去の記憶に会いにいく

過去の記憶に出会いにいく行為。久しぶりに訪れて、何かが起こり、大きく語ることもあるし、ただ当時をなぞるようなことになり淡々と語られることもある。人が生まれて暮らして、たまには旅をして。ここに染み入る空気は特別ではないようで、「なんだか映画のようだな」とやっぱり染み入るように読んでいた。 記憶とは脳に残されたもの。その脳に残されたものに会いに行くのって、ちょっとした「やっていいのかな?」の感覚がある。恐ろしさも感じる。「もしも無くなっていたら」と不安もある。岸本さんご自身も訪れた先で覆されたり、慌てたりを繰り返している。

そこで、私自身もやってみる。過去の記憶に会いに行く。会いにいくとは言うものの、今から語るのはこの本を読む前の話。約10年ぶりに訪れて、印象深く残っている場所があった。本書を読みながらその場所についてを何度か思い出していた。 場所はS池という山中にある溜池(人工池)だ。父の休日の日課であったランニングと山登り。そのコースの先にあったのがS池。父におんぶされて訪れたことや、車で訪れたこともあるが、特に覚えているのは父と兄と私の3人で、ゆっくりゆっくりと登って現れたS池だった。幼稚園児で登ることは難しいだろうから、小学校の低学年から中学年の頃だと記憶している。

 

――記憶の道をたどる

急な階段やぬかるんだ土道、柵の無い細道を兄の背中を見ながら歩く。しんどい。しんどいがときおり自生した木苺を見つけて食べる。甘さが広がる。おいしい。いつまでも食べていたいが先をいく。しんどい。ヨウシュヤマゴボウを見つけて足を止める。踏んでみると紫色の汁が飛び出す。たのしい。夢中に踏んでいる間に服に付く。洗濯の手間を増やす(ようなことなどその当時は考えもしなかった)。その頃の背丈で見えていたものに真っしぐらに足を止めながら、手を引かれ背中を押されてなんとか進む山道。土道が砂利道に変わる頃、池が近くなることを知っている私の歩みは早くなる。

ヨウシュヤマゴボウ

たどり着いたS池。シートを広げてお弁当のおにぎりをほおばる。池を見ている暇はない。ごちそうさま。S池にはブルーギルがいて釣りをする。餌は食パンで充分。いくらでも釣れる。「あー(!)」と言いながらわざとらしく池にはまり、濁った水面に浮かぶ私。

父が撮影した写真
 
 
――記憶の中の池といま映るすがた

そんな記憶を頼りに訪れた10年ぶりのS池とその道のり、私はため息混じり、写真を撮りながら歩いていく。その当時の視線は食(木苺)や遊び(ヨウシュヤマゴボウ)だった。気に入れば飽き足らず、毎回そうだった(今も大体同じだが……)。ため息の原因は、立した木の空気をはじめ、太陽光を浴びた石や葉、透明感のある色彩に惚れ惚れとしていたからに他ならない。こんなものが当時あったのか。当時の記憶のままに歩いているのに。不思議なもので、この再訪の途中、木苺やヨウシュヤマゴボウを見つけることはできなかった(あんなになっていたのにどこにいった)。木々に土に囲まれた山道を清々しい気持ちで登り、あの頃と同じく砂利道に変わった足元を踏みしめ、たどり着いたS池はあの頃よりも小さく、すぅと透明で、太陽と風を呼び込み、特別すぎるくらいの存在感を持っていた。

10年ぶりに訪れたS池

水面を触ると冷たすぎずちょうどいい。飛び込めばきっと気持ちいい。いま、それをする勇気はない。数え切れないくらいの小さなオタマジャクシがいて両手で掬ってみると、10匹くらいが容易くとれた。手のひらを泳ぐ姿をしばらく眺めて池に返すと散り散りに泳いでいったものの、すぐに浅瀬に帰ってきた。「(また掬われるよ)」と心の中でつぶやいて、池の周りを少し歩いて少し深めに息を吸った。また、記憶の世界から抜け出すように、山を下る。やはりというべきか、木苺とヨウシュヤマゴボウはない。

その時撮った写真がある。見返すと、ちょっと粒が揃いすぎではと思うくらい、木も葉も強く存在して輝いている。このちょっと特別すぎる感じが、私にとってのS池を思い出す一番新しい記憶となった。

光を浴びた葉が蝶のように見えた
 
朽ちた木も特別な存在感を保っていた

 

最後に「死ぬまでに行きたい海」とは果たして一体何なのか。「人の記憶」と言えば安易なものかもしれない。出来事を重ねる。人と出会う。場所に関わる。それぞれの粒が年月を経て、大きく深く混ざり合う。ここは何処か、あれは何だったのか。薄まったものをもう一度確かめるように、手繰り寄せるように、舟を漕ぐように、思いだしては漂う場所。そんなものを、私はいま、思い浮かべている。

 

 

今回ご紹介した書籍
『死ぬまでに行きたい海』
岸本佐知子 著 / スイッチパブリッシング
 

PROFILE|裏方のK
元写真コンシェルジュ。写真集や梅田 蔦屋書店が発信する日々のあれこれについてを執筆します。
 
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