【イベントレポート】郡司ペギオ幸夫×宮台真司トークイベント「ダサカッコワルイ世界へ」文字起こし①
~「やってくる」のイメージ~
司会:みなさんお待たせいたしました。本日は、郡司ペギオ幸夫さんの『やってくる』刊行イベント第2弾、宮台真司さんとお二人で「ダサカッコワルイ世界へ」と題してお話しを伺います。前回、大澤真幸さんとのトークイベントの時に、私はオンライン担当で準備をしていた時に、夕ご飯にファミリーマートでなぜか珍しく牛丼を食べたんですね。「普段はサンドイッチを食べるのになんで牛丼だったのかな」と。それで、イベントをやった後に、「あっ、『やってくる』に牛丼出てきた」と。それをすっかり忘れてて、昨日の晩、夕ご飯食べ終わって、「明日は『やってくる』だな」と、そしたら……
宮台:また牛丼だったんですね(笑)。
司会:(笑)。何を間違えたかと言うか、昨晩の夕飯も牛丼だったということで、私の中では夕飯と牛丼がどういう結びつきになったのかなぁ、と思いながら今日、お話聞くのを楽しみにしております。それではよろしくお願いします。
宮台:よろしくお願いします。(司会者を指して)妻なんですが、妻の話がとても面白くて、「やってくる」図式で解釈できると思ったんです。普通の考えだと連想という話になります。「『やってくる』の話の中で牛丼の話があった。ということは、郡司さんと言えば牛丼だな」と。連想であればそうやって意識できるけど、妻の場合は意識していない。
ということは、郡司ペギオ幸夫さんのイメージがシニフィアンとしてあって、しかしそれにあてがわれるシニフィエが過少で、何だかよくわからない隙間=過少決定状態が生まれ、たまたまご飯作らなきゃという文脈があったので、何かが「やってくる」。それが牛丼だった。すると、過少決定状態が決定状態になるわけではないのに「問題がなくなる」。そんな感じだと直ちに理解したのですが、間違ってますか(笑)。
郡司:そんな感じで。(笑)
~無限後退の先に「やってくる」もの~
宮台:まず、みなさん読んでいらっしゃると思うんですが、あえてどんな一貫した図式があったのかを簡単に話します。キーワードは、「フレーム問題」と「書かれざる囲い」——スペンサーブラウン問題——です。両方とも関係し合っています。
牛丼の話でいうと、シニフィアンとシニフィエの間の不整合=過少決定状態がある。普通は、そこに文脈をあてがって過少決定状態が決定状態になったと理解します。ところがこの文脈がくせ者です。文脈をどこまで参照するのか。文脈の意味を決定する文脈はどうするのか。文脈の文脈の文脈と辿っていくと無限退行して決まらない。だからAIには決定できない。決定まで無限時間を使うから止まってしまう。
スペンサーブラウンは答えめいたものを出しました。意味は指示で与えられる。指示は紙に囲いを書くことに相当する。でも、それでは終わらない。どの紙に書いたのかを指示しなければいけない。だから、囲いの外にもう一個囲いを書く。でも、囲いの外にもう一個書いた囲いはどこに書いたのかを指示しなきゃいけない。囲いの外の囲い・の外の囲い・の外の囲い…。囲いが積み重なって無限回になります。フレーム問題と同じ形式です。
ところが、彼によれば無限回の囲いが不思議なことに一定の機能を果たします。それを「書かれざる囲い」と言います。ここから先は僕の解釈が入ります。無限回の囲いの「書く」営みは無限時間を要します。しかしそれが実際に機能している。ということは、最初の囲いを書いた瞬間、無限時間を必要とするものが「やってくる」のです。僕の言葉ではそこには「世界(あらゆる全体)からの訪れ」があります。
僕はこの図式を山内得立(とくりゅう)が言う「レンマ」——中沢新一さんも問題にしている——を説明する際に使います。ロゴスに閉じられていれば無限回=無限時間の営みが必要な筈のものが、なぜかロゴスの営みにおいて予め先取りされる。それがレンマです。レンマが前提となって初めてロゴスが駆動するという図式は、「書かれざる囲い」が前提となって囲いによる指示が駆動するという図式と同じです。その意味で、“シニフィエの過少決定ゆえに「隙間」があり、偶然的文脈が引き金となって、文脈の無限遡及で得られる筈のものが「やってくる」”と、一貫して主張する郡司さんの『やってくる』は、フレーム問題を「書かれざる囲い」によって解決するスペンサーブラウン図式に近接します。
僕の言葉で言えば「世界からの訪れ」ゆえに、「わかった」という感じが得られ、無限退行の不安から逃れられる。だから『やってくる』にあるように、外から「やってくる」ものは、不安の源泉ではなくて、むしろ福音です。この図式が全体を一貫しています。ただし場合によって外から「やってくる」筈の何かがやってこないときもある。それが死に関することです。最後の死に関する章で示されていることです。そこではカブトムシがキーワードになります。
カブトムシは「地平線のようにその先が見えない前縁=フロンティアと、こちら側と向こう側を区切る境界=バウンダリーの、両立を支える特異点」です。それが存在することで何かが「やってきて」、僕らは死の訪れに開かれる。死が、右往左往するべき対象というより、受け入れるべき対象として、現れる。そうした議論です。これも面白い。「死の受け入れ」と「牛丼を作りたくなる」は違った次元の問題だと思われているのが、日常生活における営みから超越の話に至るまで同じ図式を一貫できる。その意味ですごくドラマチックな本だと思いました(笑)。これは、本を読んでなんかぼんやりとした人に向けて解説のつもりで話したつもりです。
――No.2へ続く
登壇者: 郡司ペギオ幸夫(郡司)・宮台真司(宮台)
文字起こし: 若泉誠(宮台ゼミ)