【イベントレポート】郡司ペギオ幸夫×宮台真司トークイベント「ダサカッコワルイ世界へ」文字起こし②

~スペンサーブラウン図式の隙間に「やってきた」~
郡司:スペンサーブラウンの話が出てきましたが、僕にとって、スペンサーブラウンは大学院の終わりから就職する頃の、二つあったエポックメイキングな話の一つです。もうひとつは、ウィトゲンシュタインの哲学に対するクリプキ解釈で、この二つが、『やってくる』に至る、僕がその後考えることを、決定づけたと言っていいくらいです。あとは、その時わかったことをどうパラフレーズするか、なんとなくわかった気になっていることでも、細かいところで気になる点があって、それを少しずつ正していく。そういう感じだった。

ただし、スペンサーブラウンの議論は、彼の議論が正しく、これを根拠に話が進められるという筋のものではない、と考えていました。スペンサーブラウンは、知覚や言葉の形式として、明示的な指示(=囲い=クロス)の外側に、書かれざる囲いがあって、これが「指示」に、本質的な決定不能性を与えると考えた。書かれざる囲いを露わにしてしまうと、無限の囲い(文脈=フレーム)が現れ、決定不能になる。まさにご指摘のように、ここに、フレーム問題が見出せるというわけです。論理的に露わにすると決定不能に陥り、フレーム問題に陥るけれど、潜在させ、暗黙の了解とする限り、問題は現れない。そう考えるなら、確かにスペンサーブラウンは、論理の露出としての「ロゴス」ではなく、「レンマ」への転回を示唆したと考えられます。しかしスペンサーブラウン自身が解決として用意したものは、そうではなかった。それでも様々に解釈できる余地があるところが、彼の著作の魅力だと思いますが。ともあれ、レンマへの転回と同様、私の転回も彼の意図とは、ずれたものです。

スペンサーブラウンの解決というのは、フレーム問題をいつの間にか自己言及の問題にすり替えて、フレーム問題で問題化された文脈の無際限さ、つまり現実に接続する意味の問題ですが、これを論理の問題、操作の問題に置き換えることで実現されます。これって、一種の形式的な抽象化だと思われて見過ごされがちですが、私は誤りだと思いました。ちょっと丁寧に説明します。

飢えた人が「食べ物をくれ」と言う時、これは「すぐ食べられる」が前提(フレーム)になっている。これは明示的でありませんから、分別のないロボットは、食材として、生きたウナギでも持ってくるでしょう。つまり、フレーム問題では、「食べ物」→「すぐ食べられる」→「調理せず口に運べる」→ … のような文脈の連鎖が続いているわけです。一つ一つのフレームは特定の意味において、その外部へ繋がっている。これをスペンサーブラウンは、「囲い」→「囲い」→「囲い」→ … と置き換えるのです。異質なものを、同質の「囲い」の連鎖に置き換える。これは決定的な誤りだと思いますが、こうして、 <「食べ物」とは、「食べ物」→「すぐ食べられる」→「調理せず口に運べる」→ …である> というフレーム問題が、<「囲い」とは、「囲い」→「囲い」→「囲い」→ …である>に置き換えられるのです。

スペンサーブラウンにとって、「指示」=「囲い」とは、指示される外側を黒く塗りつぶすことですから、端的に否定を意味します。ここから<否定とは、否定→否定→ …である>が導かれ、もし無限の否定の連鎖(否定→否定→否定→ …)をFと書くと、無限であるFは、これにもう1回囲いをつけても同じFと考えられますから、<FとはF→否定である>となります。つまり式で表すと、F=否定(F)となる。これは、「Fを否定したものはFである」を意味しますから、「Fなる自己を、否定によって言及する」自己言及の形式が得られたことになる。スペンサーブラウンは、異質性を同質性に置き換えることで、フレーム問題を自己言及の問題に置き換えているのです。

ここから先は、ありきたりの話になります。F=否定(F)におけるFは、スペンサーブラウンの言葉でいえば「囲い」か「囲いがない」となりますが、囲いは否定と同じものとみなせるので、「囲いがない」は肯定となります。そこでF=否定(F)のFに肯定を代入すると、右辺は肯定が否定され、否定になり、左辺は肯定ですから等式が成り立たない。逆にFに否定を入れると右辺は二重否定で肯定になり、左辺は肯定なのでやはり等式が成り立たない。だから自己言及は端的に矛盾を意味するという話になる。

宮台:無時間的自己言及だというふうに解釈しなければ、別に矛盾ということにはならない。

郡司:そう。ただし、スペンサーブラウンが直接示したものは、レンマへと至る、描かれざる囲いの積極的転回という意味ではなかった。飽くまでも彼は、描かれざる囲いを、問題へと至るための否定的意味でしか使っていません。スペンサーブラウンの意味での矛盾の解決は、よく言われる話です。F=否定(F)の右辺を過去のF、左辺を現在のFように、等式を通して時間が進む漸化式だと思えば良い、というのが、彼の解決です。時間が進むところでは、矛盾は生じない、と。人工知能の研究者も、複雑系の研究者も、認める、極めて理系的な話です。

でも、この意味で矛盾になっていない、というのは違うんじゃないか。だってこの話は、解決以前に問題がおかしい。異質なフレームを同質の囲いに置き換えることで、フレーム問題を自己言及の問題に置き換えた。それがそもそもおかしい。いや、むしろ、二つの問題は、徹底的に別の問題じゃないか。

講義でもよく言ってきた例を出しましょう。教師が、「この文は嘘である」と黒板に書いて、この文の意味を確定できるか、と学生に問うた。教師は、これを自己言及文の一つとして書いたわけで、正しいとも嘘とも決定できないという答えを期待していた。しかし黒板をよくみると、「じゃない」という言葉が後ろに書かれている。どうも黒板がよく消されてなかったようで、たまたまそうなっていた。学生にしてみれば、困った事態です。「じゃない」が落書きだと思えば、「この文は嘘である」というのはパラドックスを示す自己言及文ですけど、「じゃない」まで含めると、教師が示した問題は、「この文は嘘じゃない」という話になりますから、この文自身は真だという話になり、矛盾ではなくなる。じゃ、どこまでを落書きだと思うか、が教師の期待する答えに辿りつくか否か、に関する決定的鍵になる。

どこまでを問題に含めるか、これはまさにフレーム問題です。分別のない誠実なロボットは、「じゃない」がこの文に含まれるか否かで決定不能に陥ることになるでしょう。それは、「じゃない」のさらに外側にある筈の、教師の「雰囲気読めばわかるだろ」という書かれざる囲いが見えないからです。では人間はどうか。教師の意向を忖度する学生は、「じゃない」をうまく排除して、「これは自己言及だ」という「正解」に至れるでしょう。しかし僕は、どちらも違うと思います。100%フレーム問題だと思うロボットも、100%フレーム問題を排除して忖度し、100%自己言及だとする人間も、共に人工知能的だと思います。そして実は、人間はロボットと違ってフレーム問題に陥らないという議論の多くが、「だって人間は忖度できるから」と言っているに過ぎないと思っています。

黒板の落書きの意味は、僕たちは、100%フレーム問題だと思うことも、100%自己言及だと思うこともなく、だから意志決定できる、ということです。ようするに、論理的で操作的な問題(自己言及問題)と現実に接続する意味的な問題(フレーム問題)というのは別の問題で、それが、直交している可能性がある。ただし、直交して無関係という話ではなく、両者は接続している。僕たちは常に言葉で考えるので、それは、言葉で言葉に言及し、極論すれば自己言及(スペンサーブラウンは再参入という)に他ならない。絶えず自己言及に陥る筈なのです。なのに矛盾せずに意志決定できるのは、フレーム問題のおかげで、自己言及であると100%確信できないからではないか。逆に、フレーム問題に陥らず、意味を確定できるのは、書かなくても100%わかる(=忖度できる)からではなく、自己言及的な自分に自信が持てず、見えない前提を勝手に確定できないからではないか。この意味で、フレーム問題と自己言及は互いに前提を無効にしている。

スペンサーブラウンの議論は、意味と操作の問題を曖昧にしながら、フレーム問題と自己言及問題を、完全に同一視してしまいます。そこが問題なのですが、にも拘わらず、彼の議論からフレーム問題と自己言及問題の別の転回を引き出すことができる。そこが面白いところです。自己言及のF=否定(F)という話から、時間を漸化式で進めれば矛盾が解決するということで、Fを否定から始めると否定→肯定→否定→ … となる。ここで彼は、これを周期2の信号だという。ここまではわかりますが、その後急に謎の数ページが始まるのです。F=否定(F)では、否定の階層がただ一つの最も単純な自己言及だけれど、これを階層的に複雑なものにすると、任意の周期の信号が作れるというのです。

僕はそれが何を言っているのか全然わからなくて、ずっと考えました。定義が書いてないので、まるでわからない。後になって、オートポイエーシスを数学的にやろうとしたヴァレラが、『Principles of Biological Autonomy』(1979)という本のなかでこれを解説しているのを知りましたが、単純なオートマトンの話で、連立した漸化式の話でした。ところが解説を読むのと違って、自分で考えると、違う話へと転回していくものです。僕は、考えた結果、ヴァレラの解説と同じ議論に到達したのですが、同時に、その問題点にも気づいたのです。

スペンサーブラウンの階層的自己言及は、いわば自己が複数の部分自己(今なら分人いうのでしょうか)に別れていて、各々の部分自己が自己言及しているのです。一個の代表自己に対して、複数の部分自己が各々自己言及しますが、互いに関係し合っていて、最終的に代表自己の周期が決まる。否定→否定→肯定→否定→否定→肯定 …のような周期3の振動とか、お望みの周期振動が生成できる。苦労して、この解釈がスペンサーブラウンのモデルに気づいた私は、しかし一回の自己言及で一個の囲いを超えるものも、複数の囲いを超えるものも、同じ時間しかかかっていないという奇妙さに気づいたのです。つまり、自己言及する複数の部分自己が、ただ一個の時計を見ながらタイミングを計って、同期しているのです。この同期が、彼の階層的自己言及から周期振動を作り出している。こんな同期に根拠はあるのか。いや、ないだろう。

僕はここから逆に、スペンサーブラウンが同一視させてしまった、フレーム問題(意味論的問題)と自己言及の問題(操作的問題)を、再度腑分けすることが可能だと思いました。両者を一致させることは、意味的な前提(フレーム)を等質的区別(囲い)に置き換えることでなされましたが、囲いの階層に異なる時間の流れを考えることで、意味的な前提を再構成できる。異なる時間の流れは、外部に無際限に接続されるフレーム問題につながる前提を意味するので、本質的に制御できません。こうして、時間の流れが異なる異質な「場所」が意味的な空間の中に認められることになります。最終的に、スペンサーブラウンの再参入という話の中で、非同期性を実装する意味的な「空間」と操作的な自己言及の「時間」によって、先ほど述べました、フレーム問題と自己言及問題が相互に無効にし合う関係を構成できる。これは古くて新しい問題で、少なくとも、スペンサーブラウンに続くオートポイエーシスは、自己言及とフレーム問題の二重性や非同期性の問題を見過ごしてきました。オートマトンでも非同期にすると振る舞いが全く異なり、ようやく2010年以降、本格的に調べられ始めています。僕は、むしろ、従来、システムと呼ばれていたようなものは、みんな、自己言及とフレーム問題の二重性、時間と空間の(相互依存的)二重性を基礎におく、「矛盾を内在しているものの、矛盾を明確に指摘できないもの」なんだと思います。

宮台:なるほど。操作的なものとは論理的な操作だから、実際の計算にはスパコンの速度競争に見られるように必ず時間はかかるものの、生成論と違って存立構造論が無時間的であるのと同じで、理念的には無時間的なものだと考えられるのに対して、意味論的なものは、自己言及の中断に象徴されるように、必ず時間的なものを伴います。だから、時間的なパラメーターの中でしか意味は意味を持たない。したがって、それは無時間的なロジックと直交するというのはよくわかります。皆さんにはなかなか難しいかもしれませんけど、それはスルーしていただいて(笑)、もうひとつのクリプキの問題をお話ししていただけますか。


 
~真正パラドックスでも語用論的パラドックスでもないその先に~
 
郡司:ウィトゲンシュタインが示したことはなんだったか。普通は、言語が使われる理由を、言語の中に求めてしまいます。例えば、「ペットボトル」という言葉が意味する指示対象は、暗黙のうちにも定義されていて、それをみんなわかっていると考える。だから、「ペットボトルを取ってくれ」と言われたら、これ(目の前にあるペットボトル)を取る、というように。で、言語の中に理由があると思っていたんだけど、そんなことはあり得ないと証明するわけですよね。

このウィトゲンシュタインの見解を、簡単な思考実験で示したのがクリプキです。まず足し算をしている「わたし」に、懐疑論者が現れてこう言います。「あなたは、足し算をどういうふうに習ってきたんですか」と。わたしが、「小学校で2+3=5とか、5+7はくり上がりがあって12だとか、+の使い方の規則を覚えました」と答えると、懐疑論者はこう言います。「規則を知っているということは、いかなる数に対しても、足し算の仕方を知っているということですね。ところで、あなたは有限の時間しか生きていないのだから、必ず経験していない数がありますよね。その未知の数を57としましょう。そして、今までのあなたの足し算経験、2+3=5や、5+7=12や、その全てを満たしながら、57+1=58とする+の使い方を、「プラス」の規則と呼ぶことにします。他方、今までのあなたの足し算経験を、同じく全てを満たしながら、未知の数57に対して、57+1=1とする+の使い方を「クワス」の規則と呼ぶことします。ここで問題です。あなたは、今まで規則がわかって計算してきたと言うけれど、あなたが今まで使ってきた規則は、プラスですかクワスですか」。この問いは決定的です。未知の数57に到達するまで、プラスとクワスの差異は現れないわけですから、57以前でどちらかに決まらないわけです。にもかかわらず、規則がわかっていたというのはおかしいと懐疑論者はいうわけです。

クリプキは、懐疑論者の問いは原理的に解決できないもので、我々はこれを退けられないと言います。つまり、我々は規則を知って足し算をしている訳ではないのだということです。同様に、意味が分かってペットボトルを取るとかいう、言語の中に言語使用の根拠があるという説明は、全部根拠がない。ここから、言語使用の根拠は、むしろ、言語の外、言語を使用する共同体の側にある、という話になるんです。ウィトゲンシュタインが言ってた言語ゲームというのは、そういうものなのだという展開をクリプキは示すことになります。

しかし、ここからが僕のポイントです。言語の根拠は言語の中にないと証明するだけのために、わざわざややこしいプラスとかクワスとか議論を持ち出してきたのでしょうか。しかも、それが一度証明されてしまうとその証明方法はいらないことになり、あとは共同体を考えましょうという論旨にみえる。クリプキ自身はそうかもしれませんが、僕は違うと思ったんですね。それどころか、この懐疑論者の言い分自体が、外部へ向ける我々の窓、外部へ開くために我々が持たざるを得ない装置、「肯定的トラウマ」ではないか、と。

「肯定的トラウマ」は一見、明示的な世界とその外部の間のインターフェースみたいなものに見えますが、インターフェースはたいていの場合、明示的世界と外部の間の困難な関係を、単に隠蔽する装置として働いていてしまいます。懐疑論者の言い分が肯定的トラウマだというのは、まさにそれが、一見誤った方法に思えるから、隠蔽する装置などになり得ないことを意味します。ところが後で述べるように、僕は、これは、極めて積極的な意味合いを持つと考えてきました。

誤った方法に思えるというのは、懐疑論者の論法に対する、哲学者の批判からも明らかでしょう。クリプキのプラス・クワス論については、哲学者で見解が分かれていて、これは確かに論理的なパラドックスだと言う人と、そうではないと言う人がいる。これは単に語用論的なパラドックスにすぎなくて、真正なパラドックスではないと。語用論的なパラドックスとは、行為によって発言の真偽が変わるパラドックスです。

例えば、「抜き打ちテストのパラドックス」に語用論的パラドックスが認められます。「来週、抜き打ちテストを行う、テストは月曜から金曜までのいずれかの日に行う」、こう教師から宣言されます。抜き打ちとは、その日にならないとわからない、ということですね。この時、「抜き打ち試験は成立しない」と、ある学生が気づきます。なぜか。もし月曜から木曜まで試験がないとすると金曜には試験があるとわかってしまうので、金曜に抜き打ちテストは成立しない。金曜が除外されると木曜が最後になり、月曜から水曜まで試験がないとしたら木曜に試験があるので除外される。これを繰り返して除外していくと、どの日にも成立しない。だから、抜き打ちテストは成立しない。ところが、実際、金曜に試験が実施され、学生は「抜き打ちテストは成立しない」と進言します。対して教師は、君はないと信じたんだから、抜き打ちテストは成立している、と応じます。

教師の言い分に語用論的パラドックスが認められます。いずれかの日に試験をやるという意味での仮想的金曜日と、現実に金曜日に試験をするという行為は違います。現実に試験をすることで、抜き打ち試験の意味が変わるので、教師の言い分は語用論的パラドックスということになる。教師において、純粋に論理的な「いずれかの日」と、現実の金曜日との混同が、起こっている。だから教師は、語用論的パラドックスを論理的なパラドックスだと誤解している。

哲学者のある人たちはそういう言い方をして、クリプキの懐疑論者はまさにそれに陥っていると言うのです。未知の数というのは、何でもいい数です。懐疑論者は、よくわからない「不定な数」を57という「具体的な数」に置き換えている。ここが、いずれかの日と現実の金曜日の混同と同じだ、というわけです。しかし、僕はそうは思いません。未知の数を実際に計算する行為が、ここには決して現れないからです。ギリギリ語用論的パラドックスになることを回避している。

それでも僕は、懐疑論者はおかしなことをやっていると思います。不定な数を具体的な数に置き換えるのは何のためだったか。プラスとクワスの違いを定義するためですよね。ではその先、懐疑論者は何をやりたかったのか。「君たちは、全ての数に対して定義された足し算の規則と、個別的なその場その場で経験される足し算とを、混同している。だから、個別的な計算をするとき、規則を知っていると信じている。それは全体と部分、一般と個別を混同することだ。それはおかしいだろ」、と。懐疑論者はそう言いたいわけです。これを証明するために、未知の数と57を置き換えるわけです。しかし、それこそおかしい。未知の数は、ある意味、一般であり、57はある意味個別的な数です。攻撃すべき混同を、自ら前提してしまっているのですから。

では、結局、懐疑論者の言い分は成立しないのか。僕がここから引き出した結論は、懐疑論者の言い分は、論理的におかしいとも、論理的に万全である、とも言えないというもので、にもかかわらず、懐疑論者の言い分は、通常、パラドックスを導く議論として受け入れ可能である。いや、むしろ、我々の言葉の使い方というのも、全て懐疑論者のやっていることと同じではないか、ということなのです。A(一般)とB(個別)との関係において、ある場合は対応関係があると信じ、ある場合はないと信じ、融通無碍に関係の有無を使い分ける。この使い分ける言語行為の底に、抜き差しならず避けようがない形で、AでもありBでもあり、同時にAでもないしBでもない、肯定的アンチノミーでありながら、否定的アンチノミーであるものを抱え込んでいる。まさに懐疑論者の場合、それは、未知の数であり57であるアンチノミーだった。そしてそれは、AとBが分離し難い形で、しかし両者の異質性を担保したままの「肯定的トラウマ」、なんじゃないか、ということです。肯定的トラウマは、操作と意味のアンチノミーや、時間と空間のアンチノミーと置き換えると、先のスペンサーブラウンからの転回に接続します。これが、『やってくる』に直接繋がっていくのです。懐疑論者の有した肯定的トラウマこそ、外部に開かれた言語行為をするための、外部から何かが「やってくる」のを召喚する装置である、と。


宮台:はい。少し難しかったかもしれないので、パラフレーズします。クリプキが問題にしたのは、例えば、僕と郡司さんが2人で足し算をしたとして、2人が足し算と呼ぶものが「同じルール」に従うものであるとは証明できない、という重大な問題です。同じルールだと証明するには、無限回の試行をしなければいけないけれど、無限回の試行は実際にはしないしできない。だから僕と郡司さんが「同じルール」を足し算と呼んでいるとは到底言えない。むろん「違ったルール」を足し算と呼んでいるとも言えない。

ただし、クリプキが「プラス・クワス問題」という時、まず「皆さんが知っているプラスですが…」話を切り出します。そこでは「プラスという言葉が示す不定性に懐疑がないこと=すでに無限回を先取りしていること=知っていること」から始めています。そのことが語用論的なパラドックスを示しています。つまり、それこそがこれから解決すべき問題なのに、すでに解決されたという地点から出発して問題に臨もうとしているわけです。だから問題設定がそもそもズレているというのが郡司さんの御指摘でした。

もうひとつ、「にもかかわらず、互い足し算をやっていると合意できるのは、共同体があるからだ」というクリプキ解決は、「僕も郡司さんも共同体に操縦されている」という話で、一瞬なるほどと思うけど、すぐ「共同体って何だよ」って疑問になります。僕と郡司さんが互いに足し算をやっていることに頷き合っているという事実性に、単に名前を付けただけじゃないか。事実性がなぜあるのかという話をしているのに、その事実性に「共同体」という名前を付けるだけで解決だなんてロジカルにあり得ない。

あえて言うと、事実的として郡司さんと僕が頷き合っている――実際こうして話し合っている時もそう――という事実性に「共同体」という名前をつけているとして、事実として存在するどんな営みに名前をつけているのか。その問題を得も言われぬ繊細さで追求したものが『天然知能』と『やってくる』だと思います。

スペンサーブラウン『形式の法則』についても、イニシャルな――初発の――指示が出てくるけれど、途中まで読むと「書かれざる囲い」がなければ一回目の指示も成り立たないと分かります。とすると、なぜ彼の記述において「イニシャルな指示」が成り立つのかを説明してほしいところなのに、そうした議論の構成にはなっておらず、無限回の指示が必要かつ可能であるところから、再参入の含めたどんな操作のバリエーションが成り立つのかを記述していくだけ。そこには奇妙な本末転倒があります。

まぁ、それはそれとして、僕がちょっと嬉しかったのは、同世代だから当たり前かもしれないけれど、スペンサーブラウン『形式の法則』とクリプキ『ヴィゲンシュタインのパラドックス』という同じ書物に衝撃を受けて思考を出発させておられたというところです。とはいえ、今そういう本――スペンサーブラウンの『形式の法則』は僕と大澤真幸氏が共訳した本だけれど――を読む人はどこにもいない。スペンサーブラウンはとっくに絶版だし、クリプキを読む若者もいない。そのことだけでも、実は時代的ないし世代的な文脈の違いを考える必要があるかもしれないとも思いました。




――No.3へ続く

登壇者: 郡司ペギオ幸夫(郡司)・宮台真司(宮台) 
文字起こし: 若泉誠(宮台ゼミ)

SHARE

一覧に戻る

STORE LIST

ストアリスト