【イベントレポート】郡司ペギオ幸夫×宮台真司トークイベント「ダサカッコワルイ世界へ」文字起こし③
~『やってくる』の一貫したモチーフ~
宮台:さて、万が一『やってくる』を読んでいらっしゃらない方や、ほとんど理解できなかった方がいるかもと思って、こんな話ですよという要約話をしますね。最初、誰もいないはずの部屋で歌う何者かが登場します。これが「ムールラー」と呼ばれるのは「ムールラー」と歌っているからです(笑)。なぜそれが体験されたのか。そこはユングと同じで、UFOがいるかいないかじゃなく、なぜUFOが体験されたのかと問う営みです。答えは「シニフィアン」と「過少なシニフィエ」の間のギャップに悩む日々が、外から「やってくる」ものを呼び込んだからです。次に、道端に出会ったやつに「元気?」と話しかけ、何十分か話して、顔を見たら、知らないやつだったという実話です(笑)。さっきのも実話で、全部実話です。これも知らぬ顔の友人と出会ったことに伴うシニフィエの過少性があり、そこに「この人は誰か」を認識したいという文脈があてがわれて、外から「友達」としての何かが「やってきた」という図式です。
デジャブの議論がその後にあります。たまたま何かを見ていて、途中で「えっ」と感じるような予想外の展開があった時、そこに2種類の完了形の矛盾が生じます。「えっ」に至るまでの現在完了形と、「えっ」が生じて以降の現在完了形が、違ったものになる。普通はそこで書き換えが生じるのに、郡司さんには書き換えが生じず、2つの完了形がいわば宙吊り状態で並立された。その宙吊り状態に呼び込まれたのが、見つからないものを「あるはずだ」と探す運動で、それが懐かしさとして体験されて、デジャブになった。
今ここでは図式だけ拾っているので、クオリア(体験質)が生じなくても仕方ないけど、読むと説得されます。ちなみにクオリアとは、郡司さんと僕が夕陽を見て「赤いね」「うん赤い」と頷き合った時、同じ赤さを体験しているかという問題。実際、同じ赤さを体験しているかどうかは証明できない。でも「彼と同じ赤さ」が「やってくる」。つまり誰もが経験している。とはいえ、郡司さんの体験は相当異様で。みんなも知っているはずだと書かれているけれど、「してねぇよ」というふうに多くの読者は思っちゃう(笑)。
次が、「世界が凍り付いた」という郡司さんの体験を解読するパートです。結論的には先ほどの図式の反転で説明されます。シニフィアンとシニフィエがダイレクトに結びついて、「やってくる」ものが消去され、リアルさが失われたのだと。シニフィアンとシニフィエの間には本来は隙間があるのに、なぜか直結してしまい、その結果どんな文脈が与えられても何も「やってくる」ものがなくなる。これがリアリティが失われた状態だといいます。
次が「ファンク&ポップ」の話です。プリンスと秋山祐徳太子が取りあげられます。二人には共通する要素がある。それはダサいとカッコワルイの併存です。後の章に登場する「かつ」と「または」の話に関係するけど、過少決定が生じた所に外から何かが「やってくる」ことで「新しいアメイジング」になる。「生ハムメロン」と同じですね。生ハムとメロンはどう考えても一緒に食べて美味しいか微妙。むしろ美味しくないと思える。なのに「生ハムメロン」が料理として出された。だから食べる。すると「何だか分からない」過少決定状態が生じる。そこに外部から何かがやってきて「新しい美味しい」になるんだと。
次が「権威」の話。これが面白い。今の社会に対する批判に結びつけられます。命令があえて生む過少決定状態があると、隙間を埋めるための強迫的運動が、フレーム問題ゆえに生じる。それが「忖度問題」の本質だと書いておられる。ラーメン屋の偉い店主が「清きラーメン」を作れと言う。意味が分からない。明らかに過少決定です。すると、権威ある命令のシニフィエをめぐる探索が生じるけど、どこまで行っても不決定なので、ひたすら忖度を続ける運動が生じる。
最後が「死」の話。水平線のように目には見えるけど向こう側が見えないものをフロンティア(前縁)、「水平線まで」と「水平線の向こう」の区分線をバウンダリー(境界)と呼んでおられます。「死」はどちらか。他人の死は経験できても、自分の死は経験できない。自分の死に関しては水平線と同じです。水平線の向こうが見えないから怖い。そこで宗教が見えない向こう側を語る。死んだ他人がどこに行くのかを理解すべく「死のこちら側にある僕らの営みの界隈」と「死の向こう側にある神様の営みの界隈」を分ける境界線を引く。死は、水平線と境界線という相容れない両義性を帯びることになります。
そこではフロンティアとバウンダリーが対立するのに、それを対立させたまま受け入れさせる一定のモーメント(契機)が、郡司さんの経験的なエピソードに登場する「カブトムシ」だとされます。フロンティアかバウンダリーかどちらかだという「または」と、フロンティアでもバウンダリーでもあるという「かつ」との間の隙間に、「悟り」のような未規定な表象が与えられることを通じて、隙間に身を明け渡すような受動態が生まれて、初めて自分の「死」が受け容れられるようになる――感動的な話でした。
こうして、さっきお話ししたように、平凡な日常から、非凡な非日常まで、いろんな次元を一貫した同じ図式で説明するところが、まさしく驚きです。さて、ここから先ですね。郡司先生にいくつか質問をさせていただきたいんですけど。
郡司:このように素晴らしい要約をいただいて、まずは深く感謝します。わかりやすく書いたつもりなのに、それでも「何を言っているかさっぱりわからん」「独り善がりだ」「当たり前の精神論」とか言われるので、いつもうんざりしています。ところで、この全体に通底する標語が、「ダサカッコワルイ」です。そこでは内省ばかりで「カッコワルイ」自己言及と、外部が過剰で「ダサイ」フレーム問題とが、重なって、どちらか一方だけでも問題だと思っていると、重なることで相殺されて、壊れているんだか壊れていないんだかわからないという形の何ものかが立ち上がってくる。それが「ダサカッコワルイ」ということなんです(笑)。
~外部を規定するのではなく、外部を感受する装置を磨く~
宮台:ありがとうございます(笑)。多くの方が読んで、なぜだろうと思われることは、だいたい質問したいと思って、質問も用意してきました。まず、郡司さんが書かれた最近の著作には、周囲にある様々な表現との間の同時代性があります。似た営みがいろんなところで同時多発しているんですね。それで、質問を2つに分けるつもりだったんだけど、1つにして言います。
90年代半ばから、人類学にダン・スペルベルやブリューノ・ラトゥールの営みに代表される「存在論的転回」と言われる営みが生じて、それが哲学に伝播して各種の実在論系の営みが生じました。そこでは、クァンタン・メイヤスーやマルクス・ガブリエルなどいろんな人たちが少しずつ違った議論をしていますが、細かい議論の異同は横に措くと、ここには地滑り的な社会意識の変動が見てとれます。
ニクラス・ルーマン流の社会システム理論や、影響を与えたヴィトケンシュタインの言語ゲーム理論に見るように、我々が社会を営んでいる以上――社会とよばれる言語ゲームを営む以上――その内側に閉ざされるのは当然だみたいな感覚が、20世紀半ば以降に支配的になりました。そのあからさまな劣化バージョンが構築主義と呼ばれる流れです。でも、劣化が過ぎると反発が生じます。実際、生じました。
90年代以降、社会の外側――僕だったら世界と言いますけど――が間違いなく存在するという共通感覚が高まったんです。カントの「物自体」とは全く違って、ラトゥールで言えばモノ(加工品のこと)の、スペルベルで言えば表象(記号のこと)の、「ヒトの営みをシャーレのような培地とした増殖や変異」があって、そのダイナミズムが我々を方向づけ、我々を翻弄しているのだ、という発想になります。
つまり絶えず外部が「やってきている」んです。それを「見ないふり」をしてきたのが「人間中心主義の非人間性」をもたらす文明の営みで――近代の営みだと限定していないのがポイントですが――、それが今日の「文明の終わり」さえ予感させるような非人間的なデタラメさをもたらしているのだ、というのが90年代前半に役割を終えた社会学に代わって浮上してきた人類学の、重大な発想です。
90年代に冷戦が終わって程なく右派的ポピュリズムが欧州を席巻、世紀の変わり目にはアメリカに飛び火します。民主政の盤石さを前提としてジャスティスやフェアネスを追及してきたのが、民主政批判を含めた80年代以降の社会学――フェミニズムやカルチュラルスタディーズやポストコロニアルスタディーズ――でしたが、お花畑に変じます。ポピュリズムの背後にある「感情の劣化」の浮上に対処して政治学が、熟議やコンセンサス会議やファシリテーターや2階の卓越主義を提案するようになります。
しかし、問題が大きすぎたせいで、マクロにはほとんど意味を持ちませんでした。熟議体であるネイバーフッド・アソシエーション(通称NA)で有名になって世田谷区が姉妹都市として選んだオレゴン州ボートランドの、見るも無惨な凋落に象徴されます。その結果、僕らが人間中心主義ゆえに言葉や法や損得勘定へと閉ざされている事実を問題にする「脱人間主義の人間性」の人類学が、生き残ることになりました。
それがいわゆるオントロジー問題(世界はそもそもどうなっているかという全称命題)を蝶番にして、AI研究にも飛び火します。この4〜5年で言うと、数理生物学者である郡司ペギオ幸夫さんの『天然知能』と同時期に「東ロボくん(ロボットは東大に入れるか)」プロジェクトを終了させたばかりの数学者である新井紀子さんの『AI vs.教科書が読めない子どもたち』が出て驚くほどのベストセラーになりました。
彼女にはマル激トーク・オンデマンドにも出ていただきましたが、東ロボくんの目的はAIの限界を見定めることだとおっしゃいました。AIに入試問題を解かせると、選択問題はだいたいイケルけど、例えば偏差値65以上の大学の記述式問題はAIにはオントロジー問題ゆえに解けないことが明らかになりました。実は、オントロジー問題とは、先ほどのフレーム問題の別名なんですね。
「そもそも世界はどうなっているか」。僕らは、郡司さんの言い方だと隙間に何かが「やってくる」ので、経験的な帰納(郡司さんの自然知能)や論理的な演繹(郡司さんの人工知能)とは無関連に「世界はこうなっている」と感じますが、AIにはフレーム問題ゆえに「世界はそもそもどうなっているか」を探索するのに無限時間かかって入試問題が解けません。「こういう場合はこう」「ああいう場合は…」と事後学習させても焼け石に水です。
そこから先は強烈な批判です。AIとブロック・チェーンに置き換えられるような人は、いらないんだと。これは郡司さんの『やってくる』に出て来る官邸官僚のような忖度マシーンに対する扱いと同じで、人間は本当はそんなくだらないものであるはずがないという批判があります。これが先ほどお話しした人類学ルネサッスの背後にある批判と、同じ形をしているんです。これを同時代性と申し上げています。
別の例として、恐縮ですが、僕の話をします。僕は映画批評家として二十年前から「世界からの訪れ」という概念を使っています。これは郡司さんの「やってくる」という概念とほぼ同じです。この十年ほど、僕は「クズ」という言葉を使います。これは条件プログラム――if-then文――に閉ざされた人のことで、郡司さんの言葉では単なる人工知能へと貶められた人間のことを指します。これも同時代性ですね。
もちろん条件プログラムに典型例は便益計算=損得勘定です。これは決定されたプログラムを何度も走らせているだけ。これを僕は「クズ」と呼んできました。こうした同時代性の拡がりは、学問界隈だけでなく映画界隈も同じです。黒沢清が典型ですが、「当たり前だと思っている世界をよく見ろ。少しも規定されていない。いろんなものがやってきている。にもかかわらず見ないふりをするのか」と問います。
彼のことはよく知ってるし、劇場パンフに文章を寄せてきてるんで、少し話します。見ないふりをして生きていたところに、ある日ストレンジャーがやってくる。それが郡司さんみたいな存在なんです(笑)。すると、突然、当たり前の世界がすべて廃墟に変じる。色調が変わったりモノクロームになったりする。「お前たちは閉じ込められたままでいいのか」という明確な問い掛けです。これもまた同時代性ですね。
話題のクリストファー・ノーラン監督『TENET』にも似たモチーフがあります。僕らは順行する時間を生きています。この存在論的事実を括弧に入れたら何かが「やってくる」んじゃないか。思考実験として逆行時間を生きる人間たちと遭遇できるとしたら、当たり前に規定可能だと思っている世界がどう変じるのか。僕の映画評に譲るけど*、映画では何かが「やってきて」、人類学的倫理を帰結します。
*宮台真司の『TENET テネット』評(前編):『メメント』と同じく「存在論的転回」の系譜上にある
https://realsound.jp/movie/2020/11/post-654252.html
*宮台真司の『TENET テネット』評(後編):ノーランは不可解で根拠のない倫理に納得して描いている
https://realsound.jp/movie/2020/11/65381.html
なまじ物理学的なモチーフを使うので、物理学的な突っ込み所が満載で、実際突っ込んでいるヤツもいますが(笑)、無意味です。むしろ郡司さんの構えと同じで、未規定な隙間を作れば「やってくる」だろうという見立てが本質です。そこで「やってくる」のは「不安の源泉」よりもむしろ「福音」じゃないかという認識も郡司さんと同じです。ここにもまた同時代性があります。
再び黒沢清に戻ると、僕はホラー映画論をよくやりますが、彼の作品を含めた日本的ホラーの伝統は、何かを当たり前だと思うことで忘れ去られてしまった得体のしれない何かが突如「やってくる」ことで、日常が脅かされるという形式です。ところが彼の新作『スパイの妻』は、「やってくる」ものを福音として描いていて、それで従来なかった愛や勇気に開かれて突き進んでいけるぞという映画なんです。
他にも山ほど例があって、過去30年のスパンの同時代性と、ここ5年くらいの同時代性があるのですが、それは横に措いて――両方を区別して質問するのをやめて――いろんなシンクロナイゼーションが起こっていることについて、まず、意識していらっしゃるのかどうか、イエスであれば、どうしてそういうシンクロが起こっていると思われるかを、お伺いしていいですか。
90年代半ばから、人類学にダン・スペルベルやブリューノ・ラトゥールの営みに代表される「存在論的転回」と言われる営みが生じて、それが哲学に伝播して各種の実在論系の営みが生じました。そこでは、クァンタン・メイヤスーやマルクス・ガブリエルなどいろんな人たちが少しずつ違った議論をしていますが、細かい議論の異同は横に措くと、ここには地滑り的な社会意識の変動が見てとれます。
ニクラス・ルーマン流の社会システム理論や、影響を与えたヴィトケンシュタインの言語ゲーム理論に見るように、我々が社会を営んでいる以上――社会とよばれる言語ゲームを営む以上――その内側に閉ざされるのは当然だみたいな感覚が、20世紀半ば以降に支配的になりました。そのあからさまな劣化バージョンが構築主義と呼ばれる流れです。でも、劣化が過ぎると反発が生じます。実際、生じました。
90年代以降、社会の外側――僕だったら世界と言いますけど――が間違いなく存在するという共通感覚が高まったんです。カントの「物自体」とは全く違って、ラトゥールで言えばモノ(加工品のこと)の、スペルベルで言えば表象(記号のこと)の、「ヒトの営みをシャーレのような培地とした増殖や変異」があって、そのダイナミズムが我々を方向づけ、我々を翻弄しているのだ、という発想になります。
つまり絶えず外部が「やってきている」んです。それを「見ないふり」をしてきたのが「人間中心主義の非人間性」をもたらす文明の営みで――近代の営みだと限定していないのがポイントですが――、それが今日の「文明の終わり」さえ予感させるような非人間的なデタラメさをもたらしているのだ、というのが90年代前半に役割を終えた社会学に代わって浮上してきた人類学の、重大な発想です。
90年代に冷戦が終わって程なく右派的ポピュリズムが欧州を席巻、世紀の変わり目にはアメリカに飛び火します。民主政の盤石さを前提としてジャスティスやフェアネスを追及してきたのが、民主政批判を含めた80年代以降の社会学――フェミニズムやカルチュラルスタディーズやポストコロニアルスタディーズ――でしたが、お花畑に変じます。ポピュリズムの背後にある「感情の劣化」の浮上に対処して政治学が、熟議やコンセンサス会議やファシリテーターや2階の卓越主義を提案するようになります。
しかし、問題が大きすぎたせいで、マクロにはほとんど意味を持ちませんでした。熟議体であるネイバーフッド・アソシエーション(通称NA)で有名になって世田谷区が姉妹都市として選んだオレゴン州ボートランドの、見るも無惨な凋落に象徴されます。その結果、僕らが人間中心主義ゆえに言葉や法や損得勘定へと閉ざされている事実を問題にする「脱人間主義の人間性」の人類学が、生き残ることになりました。
それがいわゆるオントロジー問題(世界はそもそもどうなっているかという全称命題)を蝶番にして、AI研究にも飛び火します。この4〜5年で言うと、数理生物学者である郡司ペギオ幸夫さんの『天然知能』と同時期に「東ロボくん(ロボットは東大に入れるか)」プロジェクトを終了させたばかりの数学者である新井紀子さんの『AI vs.教科書が読めない子どもたち』が出て驚くほどのベストセラーになりました。
彼女にはマル激トーク・オンデマンドにも出ていただきましたが、東ロボくんの目的はAIの限界を見定めることだとおっしゃいました。AIに入試問題を解かせると、選択問題はだいたいイケルけど、例えば偏差値65以上の大学の記述式問題はAIにはオントロジー問題ゆえに解けないことが明らかになりました。実は、オントロジー問題とは、先ほどのフレーム問題の別名なんですね。
「そもそも世界はどうなっているか」。僕らは、郡司さんの言い方だと隙間に何かが「やってくる」ので、経験的な帰納(郡司さんの自然知能)や論理的な演繹(郡司さんの人工知能)とは無関連に「世界はこうなっている」と感じますが、AIにはフレーム問題ゆえに「世界はそもそもどうなっているか」を探索するのに無限時間かかって入試問題が解けません。「こういう場合はこう」「ああいう場合は…」と事後学習させても焼け石に水です。
そこから先は強烈な批判です。AIとブロック・チェーンに置き換えられるような人は、いらないんだと。これは郡司さんの『やってくる』に出て来る官邸官僚のような忖度マシーンに対する扱いと同じで、人間は本当はそんなくだらないものであるはずがないという批判があります。これが先ほどお話しした人類学ルネサッスの背後にある批判と、同じ形をしているんです。これを同時代性と申し上げています。
別の例として、恐縮ですが、僕の話をします。僕は映画批評家として二十年前から「世界からの訪れ」という概念を使っています。これは郡司さんの「やってくる」という概念とほぼ同じです。この十年ほど、僕は「クズ」という言葉を使います。これは条件プログラム――if-then文――に閉ざされた人のことで、郡司さんの言葉では単なる人工知能へと貶められた人間のことを指します。これも同時代性ですね。
もちろん条件プログラムに典型例は便益計算=損得勘定です。これは決定されたプログラムを何度も走らせているだけ。これを僕は「クズ」と呼んできました。こうした同時代性の拡がりは、学問界隈だけでなく映画界隈も同じです。黒沢清が典型ですが、「当たり前だと思っている世界をよく見ろ。少しも規定されていない。いろんなものがやってきている。にもかかわらず見ないふりをするのか」と問います。
彼のことはよく知ってるし、劇場パンフに文章を寄せてきてるんで、少し話します。見ないふりをして生きていたところに、ある日ストレンジャーがやってくる。それが郡司さんみたいな存在なんです(笑)。すると、突然、当たり前の世界がすべて廃墟に変じる。色調が変わったりモノクロームになったりする。「お前たちは閉じ込められたままでいいのか」という明確な問い掛けです。これもまた同時代性ですね。
話題のクリストファー・ノーラン監督『TENET』にも似たモチーフがあります。僕らは順行する時間を生きています。この存在論的事実を括弧に入れたら何かが「やってくる」んじゃないか。思考実験として逆行時間を生きる人間たちと遭遇できるとしたら、当たり前に規定可能だと思っている世界がどう変じるのか。僕の映画評に譲るけど*、映画では何かが「やってきて」、人類学的倫理を帰結します。
*宮台真司の『TENET テネット』評(前編):『メメント』と同じく「存在論的転回」の系譜上にある
https://realsound.jp/movie/2020/11/post-654252.html
*宮台真司の『TENET テネット』評(後編):ノーランは不可解で根拠のない倫理に納得して描いている
https://realsound.jp/movie/2020/11/65381.html
なまじ物理学的なモチーフを使うので、物理学的な突っ込み所が満載で、実際突っ込んでいるヤツもいますが(笑)、無意味です。むしろ郡司さんの構えと同じで、未規定な隙間を作れば「やってくる」だろうという見立てが本質です。そこで「やってくる」のは「不安の源泉」よりもむしろ「福音」じゃないかという認識も郡司さんと同じです。ここにもまた同時代性があります。
再び黒沢清に戻ると、僕はホラー映画論をよくやりますが、彼の作品を含めた日本的ホラーの伝統は、何かを当たり前だと思うことで忘れ去られてしまった得体のしれない何かが突如「やってくる」ことで、日常が脅かされるという形式です。ところが彼の新作『スパイの妻』は、「やってくる」ものを福音として描いていて、それで従来なかった愛や勇気に開かれて突き進んでいけるぞという映画なんです。
他にも山ほど例があって、過去30年のスパンの同時代性と、ここ5年くらいの同時代性があるのですが、それは横に措いて――両方を区別して質問するのをやめて――いろんなシンクロナイゼーションが起こっていることについて、まず、意識していらっしゃるのかどうか、イエスであれば、どうしてそういうシンクロが起こっていると思われるかを、お伺いしていいですか。
郡司:『TENET』は未見ですが興味ありますね。実は1990年ごろやっていたモデルは、時間が過去から未来へ進む時間順行型力学系と、未来から過去へ進む時間逆行型力学系との干渉によって、運動が実現されるというモデルでした。あまりに突飛な話なので、完全に無視されています。
僕自身はあまり同時代性を意識しません。自分は若い頃、つまり80年代後半ぐらいから何も姿勢が変わっていない。同じことをやっています。例えばブルーノ・ラトゥールですが、タイプ(類型的記号)とトークン(具対的個物としての記号)の混同を打ち出したアクターネットワークが出版されたのが2005年で、それが日本で問題になっているのは、割と最近のことですよね。邦訳は2019年だし。でも僕は、2000年にはタイプ・トークンの双対性を論じているジョン・バーワイズのインフォモルフィズム(1999年)から出発し、両者の双対関係の数学的定義の解体を数理モデルにして、タイプとトークンの区別と混同を繰り返すシミュレーションを行なっています。英語の論文になったのさえ2003年ですから、ラトゥールとは無関係で、独立です。日本語の単行本(『生命理論I/II』2002/2003年)でもちょっと論じましたが、でも誰も問題にさえしない。自分は外部と接続したつもりですが、向こうからみれば孤立しています。
バーワイズのインフォモルフィズムは、フレーム問題を解消しようと、無限のフレームの連鎖を、タイプ・トークン双対関係の連鎖で形式化しようとした試みです。これは人工知能でフレーム問題をねじ伏せようという発想です。私のモデルは、これに対する反論の肯定的転回のつもりでしたが、タイプ・トークンの対概念が成立するという前提から疑っているので、むしろAIにどう立ち向かうかについて、示唆があると思います。でも今はもうあまり興味がありません。もっといい方法を見つけないと、タイプ・トークンの混同を促し、かつ、混同が召喚する「外部性」が全面化しないからです。これは一つの例ですが、私にとって、同時代性のご利益はあまりない。もっと明確に外部との付き合い方を構築しないと、手遅れになる気がしています。
自分はずっと同じことを考えてきたけど、同時代を生きたどころか、孤立していました。最初から、共通感覚とか、同じ人間としての基盤とか、同じ生き物として、とか、一見そのように見えることはあっても、見えない向こう側に探りを入れて生きるしかないし、それは生きることの本質だ。そう思ってきた。それを内部観測者と呼んで、外部とうまく付き合い、外部を招き入れ、生きていく具体例=装置、を考え続けてきました。当時、理論的な仲間は、内部観測という言葉を最初に用いた松野考一郎先生だけです。非同期な階層的自己言及も、肯定的トラウマも、「やってくる」も、ただその都度、外部と付き合うためにはこれだ、と思う装置を考えるだけでした。
だから、同時代と言っても、モチベーションが違います。認識できない外部への確信は、自分には、最初からあった。じゃあどうして、時代の趨勢として外部が問題になってきているのか。それは説明できると思いますが、僕には頼りないものに思えます。もともと外部は存在していたのに、社会とかテクノロジーが進んできたから、不安になって、それが露わになってきたのだと思います。でも本当に気づいているのか、という危惧がある。
哲学者カントにとって、説明されるべき外部は自明だった。だから考えるべきは、説明するための言語の整備だけだったのだと思います。しかし形式化され、体系づけられた言語は、言語で構成された全体を世界と考える誤謬を孕んでいる。カント以降、まず、外部は自明だと思っていたけど、外部に直接触れられることなんて、あるのかという現象学が登場する。決してナマの実在なんかに触れられず、括弧つきの実在は、外部と認識の干渉の結果実現する現象だ、と。それは一見、的確なことのようですが、現象から構成された知覚世界に、我々が閉ざされることを意味する。
フッサールやメルロ=ポンティの動機には、現象の外部があったと思われますが、「自ら知覚できるものが世界を構成する」という信念は、AIの基本理念ですよね。実際、フッサールの影響からミンスキーは人工知能を構想するわけだし、現象学から派生するオートポイエーシスやアフォーダンスは、AIの基本理念に極めて整合的です。それは現代科学を専攻する学生の信念に一致する。よく文科系の学者が科学批判を行うと、そうは言っても物理学はこれほど現実を説明するし、これほど現実を快適にした。哲学にそれができるのか、といった反批判がなされますね。でもそれは、現実世界を、自分たちが測定し説明できるものだけに限定した結果です。
小説家の保坂和志さんは、そういうことが対談で問題になった時、「自動車を発明した奴らは頭がよかった。当初、自動車なんて、でこぼこだらけのこの世界で役に立つのか、と思われていた。それに対し、そこら中に道路を作って、道路があるところが世界だ、と世界を反転させた。そりゃ、自動車は世界で役に立つものになる」、と言ってました。科学が現実を説明するのではなく、説明できるものを現実としてきた。その結果、文学的感性、異質性への感度、徹底した外部、など様々なものが排除されている。そこでは宮台さんがおっしゃっているような外部性は排除されてしまう。
宮台:あるいは、考えなくてもいいことにされていましたね。
郡司:そうでしたね。なぜ外部は、気づかれることがあっても無視されるのか。それはやはり、閉じた世界(例えば現象学の知覚世界)で当初、満足していて、何か不足や不安を感じた時、付加的に要請されることこそが外部である、といった認識を繰り返しているからだと思います。そこからは、外部が、世界の根幹に食い込み、内在し、基礎付けてさえいる、という発想には決して至らない。
不足から要請される外部は、いわば内部と対を成して新たな閉じた世界を構成する括弧つきの外部――擬似外部――なんだと思います。不足から要請されますから、ある種の機能性を帯び、不足を訴える内部との関係が構成可能です。だから付加的に要請される擬似外部は、常に、閉じた世界に繰り込まれることを運命付けられている。擬似外部ではない、外部への感性は、芸術や文学、現実に接する人たちには磨かれていますが、アカデミズムでは難しいのかもしれません。
カントからフッサールへの歴史は、システム論の歴史として焼き直されています。カントはいわば理論家を特権化するわけで、システム論も当初、コントロールという形で、設計主体を特権化した。しかし制御するために様々な要素間の制御関係を考えていくと、何かを制御するものは、何かに制御されるという制御のネットワークが現れるから、特権化できるものなどない、という話に逢着する。システムの構成要素は、「制御し・制御される」循環の結果ですから、全ては移ろいゆく仮想で、ある種の現象学的還元が実現されている。
何が受動で、何が能動なのかは、循環しているから区別もない。内側も外側もないヴァレラやルーマンへ至るオートポイエーシスは、制御主体の無根拠性に気づいた途端、必然的に出てくる。でも、そこでの主張の根幹は、「制御主体さえ制御する外部に目を向けても、無際限に広がって収拾がつかなくなるわけではなく、広大ではあっても閉じているから、理論になります」という話なわけです。
宮台:残念ながら、それがシステム理論というものですね。あとで話したいけれど、システム理論は、実は「広大であっても閉じている」ことを完成させることができないんで、理論的に成り立ちません。
郡司:問題は、広いけれど閉じた理論の外部に――擬似外部ではない外部に――本当に到達できるのか、ということなんですね。僕はアフォーダンスなんかも、ギブソンには共感しますが、それ以降のアフォーダンスにはあまり関心がありません。ギブソン自身は、環境からのアフォーダンスの受け容れと、同時にそこに感じる違和感、接触、というものを、彼の生態心理学の両輪としていました。環境が示すものを受け入れる行為は、しかし同時に、火花を散らすような異質性との対話でもある。でもこの接触とアフォーダンスは整合的じゃない。接触を徹底的に内在させる形で、ダイナミックなアフォーダンスを構想できるか、というのが真の問題だと思っていましたが、そうなってない。「向こうからアフォードされるものを、こっちは受け容れて適応します」という予定調和的で双方向的なループにすると、すごく話が分かりやすいので、このループだけでアフォーダンスは完結してしまった。
接触にある違和感は、受け取る「わたし」と、「わたし」が想定するアフォードする他者(環境)、この二つだけではない、外部性を引き受ける装置であるはずだった。ギブソン以降のアフォーダンス理論では、そこが捨象されているんじゃないかという感覚を持っています。しかし、本来自分がよって立つ場所が「ここ」――すなわち、「わたし」と「わたし」が想定する環境との関係――にある、と想定してみても、恣意的な想定で、有限であり限界がある。だから、いずれ壁にぶつかって限界の向こう側に気づくでしょうが、そのような気づきは、外部ではなく、擬似外部への気づきではないか。
文明が進んで、テクノロジーが進んでくると、「自分が制御する」だけでなく、制御主体であった自分を取り巻く周辺にさえ、宮台さんもおっしゃる、「汎システム化」が起こるわけですよね。制御主体が特権的でないなんて事態は、もともと、そうであるはずなのに、汎システム化が現実になるまで分からない。これも随分と鈍感な話です。こうして現れたのが、オートポイエーシスやアフォーダンスだった。そこにあるのは外部や、擬似外部ですらなく、内側と外側です。外側が内側に参入し再構成され、外側へ応答するシステムです。チリ大学でオートポイエーシスを継承するファン・レテリエは、2019年当時、オートポイエーシスはまだ完成した理論ではなく、ここに進化や外部との接続を挿れて、発展させる必要がある、と言ってました。外部と言われているのは、不足として認識される擬似外部で、やはり内部に組み込まれることを運命付けられる外部です。
内部に取り込まれることを運命付けられる擬似外部に対峙している、という状況は、逆の言い方をすると、自分にとっていずれ有用な(取り込み可能な)、自分に都合のいいものだけを認識する、ということになります。擬似外部に対峙しながら、自己を変質させ続けるシステムこそ、AIの基本理念です。この延長上に、絶えず外側とのインターフェース(道具)を内部に取り込みながら、自己を拡張する、哲学者アンディー・クラークの「生まれながらのサイボーグ」が接続するわけですが、ここでインターフェースとしての身体の有用性は、「身体化された心」という標語で、ロボティクスや脳科学に深く根ざしています。ここでは、外部は、やはり考えなくていいものになっている。
これに対して、現象学的閉域の外部を志向することで、カンタン・メイヤスーの思弁的実在論やマルクス・ガブリエルの新しい実在論が出てきたのだと思っています。それは、僕が考える「認識できないけど存在するだろう外部」と同じ外部を指している。もしそれを実体化するなら、外部は擬似外部に堕すのでそれはできない。外部は認識不可能なので、外部を論じることでできることは、外部との付き合い方であり、外部を召喚する方法という実践です。それは、外部を少なくとも措定し、既知との関係づけを行って、外部を含めて理論化を目指す哲学――理論としての哲学――のあり方と乖離してしまう。しかしもしそれをやらないなら、我々の世界は外部に囚われているに留まるだけでしょう。
宮台:いろいろ同感です。まず最後におっしゃったこと。素朴であれ思弁的であれ実在論realism系――存在論ontologyを踏まえて生きろという立場――の議論が、結局「外部に閉ざされる」という同じ「新たなる閉ざされ」図式の拡張版になってしまう可能性があるというのは、そう思います。実際、メイヤスーの思弁的実在論を読むより、ヴィヴェイロス・デ・カストロの人類学的記述──アニミスティックな体験や合体という表象についての理解の仕方を記述する論文──を読む方が面白い。なぜかというと郡司さんがおっしゃった通りで、メイヤスーは結局「新しい閉ざされ」を提供しただけだからですね。
その前におっしゃった問題に触れると、ヴァレラの神経生理学由来のシステム理論を前提に、それを社会を記述するシステム理論へと展開したのが、社会システム理論家ルーマンで。その彼が、1980年代に「自分の営みは根源的構築主義だ」と言ったんですが、それが運の尽きでした(笑)。ところが,1960年段階で書いた本や論文には明白に実在論的思考が語られているんですよ。
まず、意識システムに準拠した場合の環境も、社会システムに準拠した場合の環境も、システムが構築するもの――システム相関的に存在するもの――だとします。とはいえ、人間は、60度以上のお湯に入れば死ぬし、食べなければ死ぬし、だから経済が回らなくても死ぬし、戦争でも死にます。むろん人が死に絶えれば、社会も死にます。
それを意識したルーマンが、後にハーバーマス対ルーマン論争でも問題化する変な概念を出してきました。意識システムであれ社会システムであれ、システムが作り出す環境は「規定可能な環境複雑性」だが、それは「規定不可能な環境複雑性」を前提としていると言ったんです。『公式組織の機能とその諸帰結』(1969)です。むろん「規定不可能な環境複雑性」とは「システムに相関しない環境」のこと。大学院生時代[1980年代前半]の僕は「システム理論の不可能性」という面白い話になってきたぞと思いました。
ところがその後の彼は「規定不可能な環境複雑性」と「規定可能な環境複雑性」との間に関係についての議論をしなくなった。それが1970年にハーバーマスとの論争で突っ込まれた重大なルーマンの弱点です。さっき話したように社会学でも1980年代から構築主義が大流行りですが、同じ問題を抱えます。全てを構築できるわけがなく、構築の前提になる何かが「やってきてる」じゃんというね。その意味で、郡司さんのおっしゃったことはよく分かります。「やってくるもの」に閉ざされれば、どんなに外部の拡張をしても、同じ営みの堂々巡りだという。それを確認できたことが『やってくる』の最大の収穫でした。
――No.4へ続く
登壇者: 郡司ペギオ幸夫(郡司)・宮台真司(宮台)
文字起こし: 若泉誠(宮台ゼミ)