【参加者エッセイ紹介】FRIDAY NIGHT ESSAY CLUB ――〈書くこと〉で日常を見つめ直すワークショップ 川野芽生×高田怜央×永井玲衣×松田樹×森脇透青 (後編)
2024年04月05日(金)開催 代官山 蔦屋書店 SHARE LOUNGEで、5名の作家と批評家が語る考えや手法をヒントに、実際に「エッセイ」を書くことを応援するワークショップを開催。イベント終了後、「金曜日」をテーマにしたショートエッセイを募集しました。
前編に引き続き、ご応募いただいたエッセイの中から、それぞれの登壇者が一点ずつセレクトしたエッセイをご紹介します。
【参加者エッセイ紹介】FRIDAY NIGHT ESSAY CLUB ――〈書くこと〉で日常を見つめ直すワークショップ 川野芽生×高田怜央×永井玲衣×松田樹×森脇透青 (前編)
■永井玲衣セレクト
千草ちゆ(X:@anone___naisho)『火曜日の夜にあらわれるもの』
金曜日の夜は、決まって火曜日の夜にあらわれ、まる三日間、居座り続ける。
週に二回の可燃ごみの日、のうちの大切な一回を、逃さないために。
可燃ごみを出す日は水曜日と土曜日。ごみの収集は朝のうちに行われる。その前日の夜に出してもよい。
金曜日の夜のうちに、ごみ箱から袋を取り出し、三角コーナーや排水口の生ごみと一緒にする。簡単に床や水場の掃除をする。まとめて捨てる。
土曜日の朝にやろうとすると、休みの日だからと寝坊してしまう可能性がある。そのために、金曜日の夜にごみを集積所へ持っていく必要があるのだ。
火曜日の夜から少しずつ溜まっていくごみのことを考えるのは、ひとによっては苦痛かもしれない。わたしは、掃除というか、ごみを集めるというか、汚れを落としたいという気持ちがあって、できているのだと思う。
昔、メイドカフェでアルバイトをしていた。
働きはじめてすぐは、緊張してお客様や他のメイドの話の輪に入ることができず(それが仕事なのに)、また会話話に慣れてきたとしても、ひとり勤務でお客様もいないような孤独なときに、何もしていないのに時給をもらっている、ということに不安を覚え、ありとあらゆるところを掃除し、磨いていた。
「オープンキッチンでメイドが料理をし、提供する」ということを売りにしていたメイドカフェでは、それはもう、多くの汚れを落とすことができた。混雑時にてんやわんやになったキッチンを磨きあげるのが、楽しかった。掃除をすることを嫌いとまでは思ったことはなかったが、好きだとも思っていなかったから、意外な気持ちになったのを覚えている。
そうしているうちに、お店のメニューやレシピを覚えるために積極的にお料理をしつつ、手が空いたら様々な場所をおしぼりで拭き上げつつ、会話はおろそか、という新人メイドができあがった。これは本来のメイドらしい働きかたなのではないかと思い、悪い気はしなかった。お店的には良くはないが。
実際捨てることになるごみは、生活で出たさまざまなものばかりだ。
買ったら最終的に捨てることになってしまう、紅茶のティーバッグ、食品トレーやラップ。生きているだけで落ちてきて、捨てざるを得なくなる、髪の毛やほこり。テーブルやシンクを拭いたウエットシート。
整理整頓をしなくても、断捨離をしなくても、生きているだけで身の回りを汚し、ごみを生み出している。自分の力で生活をするようになって、身をもって理解した。
きれいにすることは嫌いじゃない。でも、生きている自分が意識していないところでごみを出したりしていることが、知らないうちに活動している臓器や細胞と一緒で、なんとなく気持ち悪いと思いはじめている。
わたしはごみというか、生きているだけで汚している、というのを払拭したいだけなのかもしれない。
【永井玲衣コメント】
「金曜は火曜の夜にあらわれる」という抒情詩のようなフレーズと「排水口の生ごみ」の処理というままならない日常の断片が共存する、その世界の切り取り方の鋭さに立ち止まりました。普遍的な日常を描こうとすると、かえって凡庸さや典型にひきずられて、かみごたえのない文章になってしまうことが多いですが、「メイドカフェでアルバイトしていた」という特異な経験が、いかにも特別でなく差し挟まれること、そしてごみに対する筆者の視点がうろうろと入ることによって、とりかえのきかない表現になっていると感じました。最後の一文の、ぽつりとひとりごとのように落ちているさまも、エッセイだからできることですね。
岩手県の海の町で二人の子どもと「ごみとは何だろう」という哲学対話をしたことがあります。わたしはポケットに入っていた、砂のかけらと、こまかいほこりをテーブルの上に出し「これはごみかな」とききました。子どもたちはそれをじっと見つめて、ちいさく「ごみ」と言ったあとに、長い沈黙があり「…じゃない」と、またちいさくつぶやきました。なんでかれらは、あれをごみじゃないと思ったのだろう、と文章を読んで、ふと思い出しました。あなたは、どう思いますか?
永井 玲衣 (ながい・れい)
哲学者。1991年、東京都生まれ。学校、企業、寺社、美術館、自治体などで、人びとと考えあう場である「哲学対話」を行う。哲学エッセーの連載も。独立メディア「Choose Life Project」や、坂本龍一・Gotch主催のムーブメント「D2021」などでも活動。著書に『水中の哲学者たち』(晶文社、2021年)など。第17回「わたくし、つまりNobody賞」受賞。
■松田樹セレクト
小川幽平『ムスリムにおける集団礼拝の日』
エッセイのテーマは金曜日の夜。
金曜日?
キンヨウビ?
き・ん・よ・う・び?
調べてみよう。「木曜日と土曜日の間にある週の一日」「ユダヤ教における安息日の前日の準備の日」「ジェイソンの殺戮の日」。なるほど、金曜日にくっつける言葉は各々自由なようだ。
先月までガソリンスタンドで働いていた。シフト制の不定休、曜日によって仕事が変わるわけでもないから、金曜日なんてない。毎日同じ「日」。
だから殊更に金曜日にくっつける言葉なんて持っていない。残念ですが、金曜日について書くことはありません。さようなら。
いや‥?高校時代と五年前の会社員時代、土日定休だったあの時代のことなら、金曜日について書けるかもしれない。あの時代の金曜日といえば「解放の日」。
何からの解放?そんなこと、決まっている。俺を馬鹿にしてくるクラスメートや、のべつ幕なしに俺に怒鳴り散らすクソ上司からだ。
いや‥?逃げたかったのは俺自身からではなかったか。数学で十八点をとる俺、上司の指示をすぐに忘れる俺から。職場や学校を離れれば、もう俺のことなんて考えなくていい。大嫌いな俺が消えてくれる「消失の日」。
いや‥?俺は消えていたか?その場を離れても、俺のことで悩んでいたではないか。会社員時代なんか特に、つきまとう俺の生霊を振り払うために、アルコール度数のかなり高いストロングゼロを呷っていたではないか。やっぱり「生霊の日」。
いや‥暗すぎる。
今月から、ガソスタの現場を離れて本社勤務になった。土日定休。でも高校生の時から、俺という人間は変っていない。だから俺が過ごす金曜日は変わらない。永遠に「暗い日」。 いや‥?金曜日が明るかった時代もあった。もっとずっと昔、小学校のころ。あの日の金曜日は、とても楽しい「変身の日」。
僕は家へ帰るなり、ランドセルを家の玄関に放り投げて、庭へ走る。手入れのされていない庭は、まさしく森だった。森で僕はドラキュラ伯爵や、灰色のガンダルフや、シャーロックホームズになりきる。
「ここは断じて通さん!」
継ぎ合せのボロボロのマントを羽織った僕が、怪物バルゴグに向かって叫ぶ。僕の空想は荒れ果てた庭を背景にとめどなく広がっていく。
僕はそんな空想癖な僕のことが大好きで、金曜日のことはもっと好きだった。
俺は、あの時の僕に再び戻れるだろうか。
いい歳をしたオッサンが変身なんて、イタいだろうか?
いや!そんなことはない!俺が、僕が変身してもいい。
いや!もっと積極的に新しい物語を創造してもいいはずだ。よし、金曜日においらは迷宮のような動物園の飼育員になろう。あたしは自由を愛する恐ろしい緑目の魔女になろう。ワシは天国で悪魔から魔法を教わった釣り人になろう。
さあ、金曜日の夜が始まる。新しい日。「物語の日」。
【松田樹コメント】
文体の「試み」が一番印象に残ったエッセイでした。「き・ん・よ・う・び?」とテーマを少しずつ消化してゆくような冒頭、「いや…?」と繰り返し自問自答の中で問いを深めてゆく展開、末尾における空想の広がり、段階的に読者を引き込んでゆく、読ませる記述でした。
「変身してもいい」とある通り、このエッセイの話者は、まさに書くことの過程で、「俺」という一人の会社員が日常的に背負わされている硬い規範的なヨロイを脱ぎ捨てて、「僕」や「あたし」あるいは「ワシ」といった融通無碍な存在へと生成変化してゆきます。
書くことは自己認識を変容させることであり、認識が変わることは世界の意味づけがガラリと変わってしまうことである、ということが、金曜日をめぐる自問自答の中にうまく盛り込まれていると思いました。まさに「物語」とは、この自問を通過したところにこそ始まるのかもしれません。
「私は今ここにいる。ここにこうして、一人称単数の私として実在する。もしひとつでも違う方向を選んでいたら、この私はたぶんここにいなかったはずだ。でもこの鏡に映っているのはいったい誰なんだろう?」(村上春樹「一人称単数」)
松田 樹 (まつだ・いつき)
批評家・文学研究者。1993年大阪生まれ。愛知淑徳大学・創作表現専攻講師。中上健次を中心に、戦後日本の批評と文学の研究。また、創作表現コースにて現代文学の創作指導を行う。人文書院にて新人批評家・ライターたちが過去の日本の批評家・著述家の仕事を振り返る「批評の座標――批評の地勢図を引き直す」を企画・運営。その続編企画「じんぶんのしんじん」を連載中。批評のための運動体「近代体操」主宰・運営。
■森脇透青セレクト
鈴木拓真『金曜日は秘密である』
私の目の前にケーキがあった。多分、恋人が買ってきた誕生日ケーキだったのだろう。飲んだ後はシメの何かを食べなければ収まりが悪く友人と2人で勝手に食べたのだから結果は最悪だった。その時の私は人生で最も暗い時期であり、憂さを晴らすためにアルコールを摂取し、首根っこをガッチリつかまれ、それなしでは何もできなかった。そしてやる事といえば最低だった。
やり直したいと恋人に伝えるも、今までの積み重ねの結果「安西先生もあきらめろと言うレベル」の一言で家を追い出され友人と暮らすようになった。
それから私と友人はアルコールをやめることにした。私は代わりにコーヒーを飲むようになると、夜眠れず一晩中起きているようになった。しかし友人は都合よく不眠症だったので、週末は朝まで話をして過ごした。
友人は語り手として非常に優秀で名探偵が事件の真相を明らかにするように美しく話すことができ、私は聞き手として非常に優秀で何でも受け入れ話し手が気持ちよく話せるように合いの手をうまく入れて聞き出した。
ただ、私たちはお互いとても口が悪く皮肉屋だったので自然と話をする前に「絶対に誰にも言わないでね」と友人が言い「言わないよ」と私が答えてから朝まで話し続けた。しかしその関係もあっけなく終わりを告げた。
ある晩、友人は「実は私はセックス依存症なんだ」と言い、それにまつわる様々なエピソードを朝まで話した。私はその話をなぜだかわからないがいつより深刻で強いショックを感じ受け止めきれなかった。
次の週、友人が「セックス依存症の話をしたよね?」と聞いてきたので、私は頷くと「実は完全な作り話なんだ。あれ、嘘。私はセックス依存症ではないし、あまり詳しくもなく、ただ、なんとなく自分の知ってることを想像で話しただけ。実際には何も知らんし、わからん。面白い話になる気がしてね。つい」と言ってきたので「・・・その話はなぜかわからないのだけれども、・・・いつも決してしないのに、つい、しゃべってしまったんだ。いや、きっとショックが大きすぎて受け止めきれなかったんだと思う」と罪悪感にかられたふりをして答えると、友人は「で、どれくらいの人々に喋ったの?」と冷たく聞いてきたので「知り合いみんなと知らない人々、多数」と神妙な面持ちで答えた。それから友人は私に作り話をするようになり私はその作り話を自由に話せるようになった。
【森脇透青コメント】
冒頭の視点の置き方から、ところどころの軽妙なユーモア、「友人」の存在(自己内対話を隠喩的に語っているのかと最初は思いました)や両者の関係性の奇妙さから落とし方など、全体として不可解な読後感を与えているのがよかったです。このどこまでウソかホントかまったく信用ならないうさんくさい感じが単純に好みなのですが、自分に与えられた仕事を果たすために一応もっともらしい批評のようなことをしておけば、このひとは自身の文との適切な距離の取り方を知っているな、と思います。自分の文章との距離感が近すぎる人も遠すぎる人も文章を書くことはできないのです。ぼくはいつでもこういう小気味よい突き放しかたを肯定したいと思います。
ところでタイトルは「金曜日は秘密である」ということですが、この文章では——たしかに「秘密」を打ち明けるということが骨子になってはいるものの——、結局のところ何が「秘密」であるのか、正確にはわからないようになっています。何を秘密にしているか自体が秘密である状態、隠されていること自体が隠されていること、それは何か絶対的な秘密とでも呼ぶべき状況なのかもしれません。
森脇 透青 (もりわき・とうせい)
1995年大阪生まれ、京都大学文学研究科博士課程指導認定退学(現在博士論文執筆中)。批評家。専門はジャック・デリダを中心とした哲学および美学。批評のための運動体「近代体操」主宰。著書(共著)に『ジャック・デリダ「差延」を読む』(読書人、2023年)。
人文コンシェルジュ
岡田 基生
前編に引き続き、ご応募いただいたエッセイの中から、それぞれの登壇者が一点ずつセレクトしたエッセイをご紹介します。
【参加者エッセイ紹介】FRIDAY NIGHT ESSAY CLUB ――〈書くこと〉で日常を見つめ直すワークショップ 川野芽生×高田怜央×永井玲衣×松田樹×森脇透青 (前編)
■永井玲衣セレクト
千草ちゆ(X:@anone___naisho)『火曜日の夜にあらわれるもの』
金曜日の夜は、決まって火曜日の夜にあらわれ、まる三日間、居座り続ける。
週に二回の可燃ごみの日、のうちの大切な一回を、逃さないために。
可燃ごみを出す日は水曜日と土曜日。ごみの収集は朝のうちに行われる。その前日の夜に出してもよい。
金曜日の夜のうちに、ごみ箱から袋を取り出し、三角コーナーや排水口の生ごみと一緒にする。簡単に床や水場の掃除をする。まとめて捨てる。
土曜日の朝にやろうとすると、休みの日だからと寝坊してしまう可能性がある。そのために、金曜日の夜にごみを集積所へ持っていく必要があるのだ。
火曜日の夜から少しずつ溜まっていくごみのことを考えるのは、ひとによっては苦痛かもしれない。わたしは、掃除というか、ごみを集めるというか、汚れを落としたいという気持ちがあって、できているのだと思う。
昔、メイドカフェでアルバイトをしていた。
働きはじめてすぐは、緊張してお客様や他のメイドの話の輪に入ることができず(それが仕事なのに)、また会話話に慣れてきたとしても、ひとり勤務でお客様もいないような孤独なときに、何もしていないのに時給をもらっている、ということに不安を覚え、ありとあらゆるところを掃除し、磨いていた。
「オープンキッチンでメイドが料理をし、提供する」ということを売りにしていたメイドカフェでは、それはもう、多くの汚れを落とすことができた。混雑時にてんやわんやになったキッチンを磨きあげるのが、楽しかった。掃除をすることを嫌いとまでは思ったことはなかったが、好きだとも思っていなかったから、意外な気持ちになったのを覚えている。
そうしているうちに、お店のメニューやレシピを覚えるために積極的にお料理をしつつ、手が空いたら様々な場所をおしぼりで拭き上げつつ、会話はおろそか、という新人メイドができあがった。これは本来のメイドらしい働きかたなのではないかと思い、悪い気はしなかった。お店的には良くはないが。
実際捨てることになるごみは、生活で出たさまざまなものばかりだ。
買ったら最終的に捨てることになってしまう、紅茶のティーバッグ、食品トレーやラップ。生きているだけで落ちてきて、捨てざるを得なくなる、髪の毛やほこり。テーブルやシンクを拭いたウエットシート。
整理整頓をしなくても、断捨離をしなくても、生きているだけで身の回りを汚し、ごみを生み出している。自分の力で生活をするようになって、身をもって理解した。
きれいにすることは嫌いじゃない。でも、生きている自分が意識していないところでごみを出したりしていることが、知らないうちに活動している臓器や細胞と一緒で、なんとなく気持ち悪いと思いはじめている。
わたしはごみというか、生きているだけで汚している、というのを払拭したいだけなのかもしれない。
【永井玲衣コメント】
「金曜は火曜の夜にあらわれる」という抒情詩のようなフレーズと「排水口の生ごみ」の処理というままならない日常の断片が共存する、その世界の切り取り方の鋭さに立ち止まりました。普遍的な日常を描こうとすると、かえって凡庸さや典型にひきずられて、かみごたえのない文章になってしまうことが多いですが、「メイドカフェでアルバイトしていた」という特異な経験が、いかにも特別でなく差し挟まれること、そしてごみに対する筆者の視点がうろうろと入ることによって、とりかえのきかない表現になっていると感じました。最後の一文の、ぽつりとひとりごとのように落ちているさまも、エッセイだからできることですね。
岩手県の海の町で二人の子どもと「ごみとは何だろう」という哲学対話をしたことがあります。わたしはポケットに入っていた、砂のかけらと、こまかいほこりをテーブルの上に出し「これはごみかな」とききました。子どもたちはそれをじっと見つめて、ちいさく「ごみ」と言ったあとに、長い沈黙があり「…じゃない」と、またちいさくつぶやきました。なんでかれらは、あれをごみじゃないと思ったのだろう、と文章を読んで、ふと思い出しました。あなたは、どう思いますか?
永井 玲衣 (ながい・れい)
哲学者。1991年、東京都生まれ。学校、企業、寺社、美術館、自治体などで、人びとと考えあう場である「哲学対話」を行う。哲学エッセーの連載も。独立メディア「Choose Life Project」や、坂本龍一・Gotch主催のムーブメント「D2021」などでも活動。著書に『水中の哲学者たち』(晶文社、2021年)など。第17回「わたくし、つまりNobody賞」受賞。
■松田樹セレクト
小川幽平『ムスリムにおける集団礼拝の日』
エッセイのテーマは金曜日の夜。
金曜日?
キンヨウビ?
き・ん・よ・う・び?
調べてみよう。「木曜日と土曜日の間にある週の一日」「ユダヤ教における安息日の前日の準備の日」「ジェイソンの殺戮の日」。なるほど、金曜日にくっつける言葉は各々自由なようだ。
先月までガソリンスタンドで働いていた。シフト制の不定休、曜日によって仕事が変わるわけでもないから、金曜日なんてない。毎日同じ「日」。
だから殊更に金曜日にくっつける言葉なんて持っていない。残念ですが、金曜日について書くことはありません。さようなら。
いや‥?高校時代と五年前の会社員時代、土日定休だったあの時代のことなら、金曜日について書けるかもしれない。あの時代の金曜日といえば「解放の日」。
何からの解放?そんなこと、決まっている。俺を馬鹿にしてくるクラスメートや、のべつ幕なしに俺に怒鳴り散らすクソ上司からだ。
いや‥?逃げたかったのは俺自身からではなかったか。数学で十八点をとる俺、上司の指示をすぐに忘れる俺から。職場や学校を離れれば、もう俺のことなんて考えなくていい。大嫌いな俺が消えてくれる「消失の日」。
いや‥?俺は消えていたか?その場を離れても、俺のことで悩んでいたではないか。会社員時代なんか特に、つきまとう俺の生霊を振り払うために、アルコール度数のかなり高いストロングゼロを呷っていたではないか。やっぱり「生霊の日」。
いや‥暗すぎる。
今月から、ガソスタの現場を離れて本社勤務になった。土日定休。でも高校生の時から、俺という人間は変っていない。だから俺が過ごす金曜日は変わらない。永遠に「暗い日」。 いや‥?金曜日が明るかった時代もあった。もっとずっと昔、小学校のころ。あの日の金曜日は、とても楽しい「変身の日」。
僕は家へ帰るなり、ランドセルを家の玄関に放り投げて、庭へ走る。手入れのされていない庭は、まさしく森だった。森で僕はドラキュラ伯爵や、灰色のガンダルフや、シャーロックホームズになりきる。
「ここは断じて通さん!」
継ぎ合せのボロボロのマントを羽織った僕が、怪物バルゴグに向かって叫ぶ。僕の空想は荒れ果てた庭を背景にとめどなく広がっていく。
僕はそんな空想癖な僕のことが大好きで、金曜日のことはもっと好きだった。
俺は、あの時の僕に再び戻れるだろうか。
いい歳をしたオッサンが変身なんて、イタいだろうか?
いや!そんなことはない!俺が、僕が変身してもいい。
いや!もっと積極的に新しい物語を創造してもいいはずだ。よし、金曜日においらは迷宮のような動物園の飼育員になろう。あたしは自由を愛する恐ろしい緑目の魔女になろう。ワシは天国で悪魔から魔法を教わった釣り人になろう。
さあ、金曜日の夜が始まる。新しい日。「物語の日」。
【松田樹コメント】
文体の「試み」が一番印象に残ったエッセイでした。「き・ん・よ・う・び?」とテーマを少しずつ消化してゆくような冒頭、「いや…?」と繰り返し自問自答の中で問いを深めてゆく展開、末尾における空想の広がり、段階的に読者を引き込んでゆく、読ませる記述でした。
「変身してもいい」とある通り、このエッセイの話者は、まさに書くことの過程で、「俺」という一人の会社員が日常的に背負わされている硬い規範的なヨロイを脱ぎ捨てて、「僕」や「あたし」あるいは「ワシ」といった融通無碍な存在へと生成変化してゆきます。
書くことは自己認識を変容させることであり、認識が変わることは世界の意味づけがガラリと変わってしまうことである、ということが、金曜日をめぐる自問自答の中にうまく盛り込まれていると思いました。まさに「物語」とは、この自問を通過したところにこそ始まるのかもしれません。
「私は今ここにいる。ここにこうして、一人称単数の私として実在する。もしひとつでも違う方向を選んでいたら、この私はたぶんここにいなかったはずだ。でもこの鏡に映っているのはいったい誰なんだろう?」(村上春樹「一人称単数」)
松田 樹 (まつだ・いつき)
批評家・文学研究者。1993年大阪生まれ。愛知淑徳大学・創作表現専攻講師。中上健次を中心に、戦後日本の批評と文学の研究。また、創作表現コースにて現代文学の創作指導を行う。人文書院にて新人批評家・ライターたちが過去の日本の批評家・著述家の仕事を振り返る「批評の座標――批評の地勢図を引き直す」を企画・運営。その続編企画「じんぶんのしんじん」を連載中。批評のための運動体「近代体操」主宰・運営。
■森脇透青セレクト
鈴木拓真『金曜日は秘密である』
私の目の前にケーキがあった。多分、恋人が買ってきた誕生日ケーキだったのだろう。飲んだ後はシメの何かを食べなければ収まりが悪く友人と2人で勝手に食べたのだから結果は最悪だった。その時の私は人生で最も暗い時期であり、憂さを晴らすためにアルコールを摂取し、首根っこをガッチリつかまれ、それなしでは何もできなかった。そしてやる事といえば最低だった。
やり直したいと恋人に伝えるも、今までの積み重ねの結果「安西先生もあきらめろと言うレベル」の一言で家を追い出され友人と暮らすようになった。
それから私と友人はアルコールをやめることにした。私は代わりにコーヒーを飲むようになると、夜眠れず一晩中起きているようになった。しかし友人は都合よく不眠症だったので、週末は朝まで話をして過ごした。
友人は語り手として非常に優秀で名探偵が事件の真相を明らかにするように美しく話すことができ、私は聞き手として非常に優秀で何でも受け入れ話し手が気持ちよく話せるように合いの手をうまく入れて聞き出した。
ただ、私たちはお互いとても口が悪く皮肉屋だったので自然と話をする前に「絶対に誰にも言わないでね」と友人が言い「言わないよ」と私が答えてから朝まで話し続けた。しかしその関係もあっけなく終わりを告げた。
ある晩、友人は「実は私はセックス依存症なんだ」と言い、それにまつわる様々なエピソードを朝まで話した。私はその話をなぜだかわからないがいつより深刻で強いショックを感じ受け止めきれなかった。
次の週、友人が「セックス依存症の話をしたよね?」と聞いてきたので、私は頷くと「実は完全な作り話なんだ。あれ、嘘。私はセックス依存症ではないし、あまり詳しくもなく、ただ、なんとなく自分の知ってることを想像で話しただけ。実際には何も知らんし、わからん。面白い話になる気がしてね。つい」と言ってきたので「・・・その話はなぜかわからないのだけれども、・・・いつも決してしないのに、つい、しゃべってしまったんだ。いや、きっとショックが大きすぎて受け止めきれなかったんだと思う」と罪悪感にかられたふりをして答えると、友人は「で、どれくらいの人々に喋ったの?」と冷たく聞いてきたので「知り合いみんなと知らない人々、多数」と神妙な面持ちで答えた。それから友人は私に作り話をするようになり私はその作り話を自由に話せるようになった。
【森脇透青コメント】
冒頭の視点の置き方から、ところどころの軽妙なユーモア、「友人」の存在(自己内対話を隠喩的に語っているのかと最初は思いました)や両者の関係性の奇妙さから落とし方など、全体として不可解な読後感を与えているのがよかったです。このどこまでウソかホントかまったく信用ならないうさんくさい感じが単純に好みなのですが、自分に与えられた仕事を果たすために一応もっともらしい批評のようなことをしておけば、このひとは自身の文との適切な距離の取り方を知っているな、と思います。自分の文章との距離感が近すぎる人も遠すぎる人も文章を書くことはできないのです。ぼくはいつでもこういう小気味よい突き放しかたを肯定したいと思います。
ところでタイトルは「金曜日は秘密である」ということですが、この文章では——たしかに「秘密」を打ち明けるということが骨子になってはいるものの——、結局のところ何が「秘密」であるのか、正確にはわからないようになっています。何を秘密にしているか自体が秘密である状態、隠されていること自体が隠されていること、それは何か絶対的な秘密とでも呼ぶべき状況なのかもしれません。
森脇 透青 (もりわき・とうせい)
1995年大阪生まれ、京都大学文学研究科博士課程指導認定退学(現在博士論文執筆中)。批評家。専門はジャック・デリダを中心とした哲学および美学。批評のための運動体「近代体操」主宰。著書(共著)に『ジャック・デリダ「差延」を読む』(読書人、2023年)。
人文コンシェルジュ
岡田 基生