【イベントレポート】光嶋裕介×内田樹が社会の集団思考を斬る

光嶋裕介×内田樹が社会の集団思考を斬る「幻想都市風景 2019 GINZA ~ 光嶋裕介 展」開催記念イベント第2弾



8月27日から9月30日にかけて、銀座 蔦屋書店のイベントスペース「アートウォールギャラリー」(6F スターバックス前展⽰スペース)にて、「幻想都市風景 2019 GINZA ~ 光嶋裕介 展」が絶賛開催中だ。
 
光嶋裕介氏は、一級建築士として建築設計事務所を主宰する一方、ドローイングも描くなど多彩な才能を披露している。
本展では、光嶋氏本人が展示スペースに滞在しながら、GINZAをテーマに「幻想都市風景」のドローイングに挑戦している。
 
 
今回は、8月27日に実施されたASIAN KUNG-FU GENERATIONの後藤正文氏との対談に続き、9月3日に実施された連続対談イベント(全5回)の第2回「武道と空間について~集団で思考する」内田樹(思想家)×光嶋裕介(建築家)の模様をお届けする。
 
※本記事は、約2時間のトークイベントの内容を一部抜粋・再編集しています。
 
 
無意識の模倣 集団的分断を是正したアメリカの偉人たち
 
光嶋裕介氏(以下、光嶋):今、9月30日までアートウォールで展示をやらせてもらっています。せっかく銀座のど真ん中で作品を発表させてもらえる機会があるということで、最も尊敬する5人のクリエイターと対談をしています。
今回は、合気道の師である内田先生と、非言語としてのドローイングとか建築について、「武道と空間」というタイトルで、身体から思考することをテーマに話していきます。まず先生は、8年間僕の絵を見てきて、なにか変化を感じますか?
 
内田樹氏(以下、内田):それはもちろん。上手くなっているなぁって(笑)。君の8年間を見て分かったけど、やっぱり描けば描くほど上手くなるね。描く技術が向上すると、できることの幅が広がって、だんだん自由になる。最初のうちは硬くて、自分のスタイルを確立しようとジタバタしている感じがあったけれど、時間が経つにつれ、「何を描いても俺だから」という感じになってきたね。
特に、和紙や金箔を使うとか、異分野の人とのコラボレーションを作品に入れ込んだあたりから、作品が自由かつ複雑になってきていると思う。「成熟とは複雑化のプロセスである」というのが僕の持論なんだけど、光嶋君の作品群は、8年間の経年変化を並べたら、明らかに複雑化している。色んな外部的なファクターが入り込んできて、その結果、かえって君らしくなっている。どんどん自由になっている感じがした。
 
光嶋:ありがとうございます。複雑で、自由ということは、何より大切にしていることです。先週末もご一緒させてもらって、内田先生の幼なじみであり、凱風館(編注:光嶋氏の作品にして、内田氏の住居)の老松を描いて頂いた山本浩二画伯の《雪舟と山本浩二》展があり、ご本人に色んな話を聞きました。作品を前にして語られる言葉というのは、深く響きました。中でも印象的だったのが「尊敬するものと同じ物は描かない」というお話です。
 
 
「創造は常に模倣から生まれる」ということと、敬愛している人の絵を絶対真似しないというあの意気込み。ベラスケスのことをあれだけ熱く語っていた山本画伯が、ベラスケスから学んだ最大のことは「筆の跡を残す」こと。筆の跡は残しても、ベラスケスにはならない。そのような作家の気概を感じて、僕はなぜ作品に金箔を貼ったのかということを改めて考えさせられました。
僕も、自分で自分のことが全て分かるわけではありません。その分からなさを「光嶋裕介ってこういう人なんだ」「こういう絵を描くんだ」と単純化しないで、他者や外部性を介して発見していく、あるいは、分からないまま受け入れたいと思っています。そうすると描き続けられるのです。全く飽きません。その時に「いいな」と思ったことは真似しません。ただ表面をなぞるような真似は、本質的な模倣とは違うものだと思うからです。
ただ、山本画伯は『Another Nature』という作品で白をのせていましたよね。あの白が、僕にとっての金箔なのかもしれない、と感じました。和紙が、白と黒の奥行きを生む中で、僕はそこにペンで幻想都市風景を精密に描くんですけれども、金箔は奥行きがなく、前に来る。僕の絵には奥行きがあるし、和紙にも奥行きがあります。でも金箔を貼ることには奥行きがなく、バンッと前に来ます。
 
内田:金箔って、生々しいものね。ものが純金だから、見ていてもつい「剥がしたらこれ、いくらするのか」とか思うわけじゃない。君の描く絵は、立体性がないよね。2次元的なものだったけどさ、そこに生々しい物質が入ってきたせいで、いきなり立体性を獲得した。深みや奥行きが出てきた。そういう点で言うと、山本画伯が絵の具をベタッとつけて筆と絵の具の物質性に頼ったのと、君が金箔とか和紙の物質性に頼ったのは同じ発想だね。
 
光嶋:山本画伯にとってのベラスケスの筆跡のように、安易な真似したいという気持ちをグッとこらえています。そうして、個人的には金箔を使う考えに至りました。
 
内田:そう、弟子は師匠のやったことを、ちょっとだけ変えるんだよ。でも、基本のアイデアは同じ。それは、後で分かる。後になって「ああ、このアイデアを頂いたのか!」って分かる。我々は母語のアーカイブにアクセスしないと新しいアイディアを生み出せない。イノベーションは、つねに膨大な母語の蓄積からしか生まれない。こういう考え方、直接的には江藤淳の「沈黙の言語」というアイデアからインスパイアされたのかなと思っていたんだけれど、よくよく考えたら、大瀧詠一さんの「分母分子論」だったんだよね。書き終わった後になって誰に影響されてそう思うようになったのか、気がつく。大瀧さんの音楽理論をいつの間にか文学や哲学に適用していた。全然違う仕事をしているつもりで、気がついたらまるまる模倣していた。
 
光嶋:それが文化を成熟させて小さな一歩を踏み出すと言いますか、それは個人的な営みではなくて、「集団でやる」ということにつながるんですかね?
 
内田:そうだね。
 
光嶋:0から1を作っているわけではない、と。
 
内田:0から物を作り出せないから、色んな物を滋養にして作っている。滋養にする物が多様なほど、訴求力がある。ロックンロールは1956年に生まれて、せいぜい3年くらいの間にできた音楽で、後は自己模倣を繰り返すだけだけれど、エルヴィス・プレスリーという個人の力業なんだ。
エルヴィスって、最初はカントリーチャートで1位になっているけど、それは国民的なヒットにはならなかった。でも、56年に『ハートブレイク・ホテル』でカントリー、リズム・アンド・ブルース、ポップスの3チャートでトップになった。これは史上初の快挙なんだよ。R&Bは黒人の音楽で、カントリーは白人の音楽。この二つのレイス・ミュージックの間の溝は深い。でも、エルヴィスが初めてカントリーとR&Bで1位になった。それはつまり、黒人も白人も、「これは自分たちの音楽だ」と思ったということなんだ。エルヴィスが「キング」と呼ばれる所以は、彼が混じり合うはずがない物を混じり合わせて、いわば一種の「国民的統合」を成し遂げたからなんだよ。彼以前にそれを成し遂げた人は音楽の世界にはいなかった。
 
 
その話をさ、大瀧さんの「アメリカン・ポップス伝」(編注:正式番組名は『大滝詠一のアメリカン・ポップス伝』。NHK-FMでシリーズ化された音楽番組。2012〜2013年放送)で聴いて、ほんとに感動したんだよ。エルヴィスは分断されていたエスニック・グループをただ一曲で統合してみせた。アメリカで、黒人と白人が同じ歌を「自分たちの魂から出て来た歌」だと思ったというのはエルヴィスの功績なんだよ。だから、人々はいまだにそのときの国民的統合の喜びを伝えるために「ロックンロール」を演奏し続けている。
エルヴィスは音楽の世界で、マーク・トウェインが文学の世界で実現したのと同じことを実現した。マーク・トウェインがどうして「アメリカ文学の父」と言われるのか、どうして『ハックルベリー・フィンの冒険』が「すべてのアメリカ文学の源泉」と言われるのか。それは『ハックルベリー』が『ハートブレイク・ホテル』と同じ働きをしたからなんだ。南部の白人の少年と黒人奴隷の間に成立した友情の物語によって、南北戦争で深く分断されたアメリカの南北双方の国民が素直に「ああ、間違いなくこれは自分の物語だ」と言える作品は、戦争が終わってから、『ハックルベリー・フィン』が出るまでの20年間、誰によっても書かれなかった。マーク・トウェインが初めて書いた。
だから、多様な素材を、そもそも両立しがたいと思われるような素材を滋養にして生まれたものには強い訴求力があるという話をしたかったんだけどね。
 
光嶋:今の話を聞いていて、当の本人たちはどういう意識だったのかなと思いました。
 
内田:よく考えていないと思う。きっと無意識だよ。
 
 
“オンリーワン”の呪いと複数の集団に属する効用
 
内田:村上春樹さんと川上未映子さんの対談本の中で、ある程度のタイムスパンを取った場合には「集団的な叡智を信じる」ということが書いてあった。村上さんは他のところでも同じようなことを書いているけれど、これは心に残るアドバイスだった。
人間の集団は、ある程度のタイムスパンを取れば、叡智的に思考している。短期的には間違えることもあるけど。
若い人が「日本はもう終わりですか」と相談してきたら、僕は「そんなことないよ。大丈夫だよ」と答える。長く生きているから色々見てきたけれども、ある方向に行き過ぎると、必ずバッククラッシュが来る。間違ったことをした時は必ず補正が入る。歴史の審判力というのは、それくらいには信じられる。
 
 
実際、19世紀と現代を比べたら、基本的人権はずいぶん尊重されるようになったし、女性の社会進出もそれなりに確保されてきたし、子供だって暴力を強いられる機会も少なくなった。強制収容所とか拷問とかも、少なくても先進国ではもう見られなくなってきた。たしかに遅々たる歩みではあるけれども、長い時間をかけて、集団的には、人間は、少しずつ正しい方向に行っていると僕は信じている。でも、長生きしないとわかんないんだけど。
 
光嶋:長いタイムスパンを小さく見ていくと揺れ動きがありますよね、きっと。
 
内田:そうだね。
 
光嶋:集団は、人と人、個がどう群を成すかということだと思うけど、その核になるのは「家族」だと思うんです。家族から拡大家族まで、さまざまなクラスターに所属することが大事だと思います。例えば学生に教える時に、建築の勉強をして建築家になるのは当たり前で、バンドをやるとか、バイトをするとか、SNSの色んなクラスターの人と仲間になるとか、何かプラスαの要素を持つことの大切さを伝えたりします。集団は、一つの群れだけに固執すると、どうしても似てきます。不自由になってしまう。だから、たくさんの集団に属して「わからなさ」を内包した複雑さと多様性と常に接続していることが大事だと思うんです。
 
内田:今、日本には二つの圧があると思う。一つは均質化圧。とにかく皆を同じ鋳型にはめこんでしまおうという圧力。学校教育がそう。生産者も消費者もできるだけ均質的である方が資本主義には有利だから。労働者が均質的であれば、互換可能だから、賃金を下げられる。消費者が均質的であれば、同じものを大量生産、大量流通できて、製造コストが下げられる。働く人間も、ものを消費する人間も、均質的である方が儲かるんだ。だから、資本主義はその生理として、市民たちが均質化することを求める。均質化圧は資本主義の要請なんだ。
でも、実はもっと怖いのは、自分自身に対して働いている均質化圧の方。ある集団に属していると、早い段階から「お前のキャラはこれな」ということが決められる。集団内部で、どういう役割を演じるべきか、それが指定される。そのせいで、居場所が確保されて、それなりに居心地もよいのだけれど、「キャラ」として指定された以外のことを言っても、してもいけない。思ってもいけない。与えられたキャラを忠実に演じている限り、集団内に居場所はあるけれど、キャラからはずれた言動をなしたり、他の人と「キャラがかぶったり」すると、居場所がなくなり、集団から排除される。
 
 
だから、日本の子供たちは、できるだけ早い段階で自分のキャラを確定して、それを純化していくことに懸命なんだよ。「みんな違って、みんないい」というフレーズあるじゃない。「ナンバーワンよりオンリーワン」とか。あれは「与えられたキャラから逸脱してはならない」という命令なんだよ。あれは呪いなんだよ。
 
光嶋:なるほど。
 
内田:集団の中で自分のキャラを固定化して、それ以外のキャラにはなれないという個人における均質化圧は、ある意味で、集団全員を均質化する圧よりも病的で破壊的なんじゃないかと思う。そのことを今の日本人は「個性的」というふうに言っている。でも、それは「個性」なんかじゃなくて、与えられたキャラに過ぎないんだ。「自分探し」ということを文科省が言い出したけれど、あれは「早くあなたのキャラを確立してください。そうしないと集団の中での居場所がありませんよ」という恫喝をかけていたんだと思う。キャラを見つけて、集団の中に定位置が決まることを「チームワーク」だと考える人がいる。でも、それは違うと思うよ。個性っていうのは、キャラとは違うものなんだ。それを勘違いしたから、日本はこんなに駄目になっちゃったんだよ。集団に課された均質化圧、同質化圧については批判する人は多いけど、「自分らしさ」を固定化しないと集団内に居場所がないという「キャラ形成圧」がどれくらい子供たちの生命力を殺いでいるかについては、言う人がほとんどいない。
僕はだから子供たちはいろいろな集団に同時に共属して、集団ごとに違う役割を演じて、固定的な「キャラ」に縛られないようにした方がいいと思う。二つ居場所があれば、キャラにずれが生じる。自分の中に色んな人格ファクターや複数の層があることに気づく。複数の集団のそれぞれで違う役割を果たしていると、それだけ自分が複雑な人間であることが分かってくる。成長というのは複雑になることだから、それが大切なんだよ。
 
光嶋:福田恆存が言う「人間は常に仮面を被っているのが人生である」という話を思い出しました。仮面は、与えられた環境によって異なります。普段使っている仮面のいかに使い分けるかについて考えたりします。先生の話を聞いて、たくさんの仮面を持つことが大事だなぁとしみじみ感じました。色んな仮面を使い分けようとしているのに「はい、あなたはこの仮面ね」と一つの特定の仮面にしがみついているのはしんどい。そこに新たな発見がない。
 
内田:若い頃は複数のペルソナ(編注:人格などの意)を使い分ける技術が要るなあと思っていたんだけれど、年をとってくるとそういう面倒がなくなるね。一つに集約されてくる(笑)。だって、この顔の中に全部入ってるから。いちいち取り替える必要がない。ちょっと表情とか声色とかを調整するだけでいくつかのペルソナが折り重なって、表に出たり、引っ込んだりする。年を取ると、そういう芸ができるようになる。それが生きやすさにつながると思うんだけどね。
 
 
集団の公共性は「15%の大人が理解すれば成立する」
 
光嶋:集団から拡大家族という話をする時、どうしても公共性について考えます。個の時は自分がハッピーになりたいというスタンスでいいかもしれない。でも集団になると、どうしたら、集団がハッピーで創造的になれるか、さらに集団同士が上手くいくのかということについて思考が展開します。それを成り立たせるのは、プライベートな閉じた場所より開かれた公共的な場になるはずです。どうすれば理想的な公共的な場を作り出せるのか。今、社会や富が二極化していく状況があります。この分断が続き、開かれることがなければ、公共性が薄れていくことに危機感を感じています。
我々は、多様な家族の在り方や距離感を持って複数の集団を作っていきますが、場所としてどのようにそんな居場所が可能なのでしょうか。そのために必要なものとは何なのでしょうか。
 
内田:近代市民社会論の基本をおさらいすると、個人がひたすら私利私欲を追求し、私有財産を抱え込み、私権にしがみついていると、ホッブズ(編注:イングランドの哲学者)の言う「万人の万人に対する戦い」になって、結果的には安定的に財産や権利を守ることができない。だから、私利私欲の追求をしばらく控えて、私有財産の一部、私権の一部を公共の場に供託して、「公共」というものを立ち上げる。それが自治体であったり、国であったりする。公共に私財・私権の一部を委ねることで、より安定的に私財と私権を守ることができるようになる。だから最も利己的にふるまうものは最も公共の福利を気づかうようになる・・・というのが近代市民社会論のロジックなんだ。ほんとうに「万人の万人に対する戦い」という時代があったかどうかはわからない。たぶんなかったと思うけれど、近代市民社会を基礎づけるためには、そういう「物語」を作る必要があったということは分かるよね。
 
 
理屈は今でも同じなんだ。まず私有財産と私権の公共への供託があって、それで公共が生まれる。我々は何となく国家という公共が初めにまずあると思っているけど、本当はないんだよ。公共は、そのつど、私人がクレジットを供与していくことでしか生きていけない。生き物だから餌をあげないといけない。餌というのが私権。僕らの私有財産で、それを公共に「贈与」するところからすべてが始まる。
 
光嶋:それをフリーライドしては、枯渇するから駄目。タダ食いをしてはならないということですね。
 
内田:いや、タダ食いする人がいてもいい。ただし子供に限る。子供は、守らないといけない。年取った子供もいる。金持ちとか権力を持った子供もいる。子供は罰してもしょうがない。子供は公共には無限の資産があると思っている。そして、そこからどれくらい多くを私有に付け替えるかが市民の仕事だと思っている。そう思うのは幼稚だからであって、邪悪だからではない。子供が公共を理解できないのは仕方がないんだ。だから、公共は私有財産・私権の供託がないと生きていけないということがわかっている「大人」が「しょうがないな」と言って、手持ちの資源を供出する。別に全員でなくてもいい。社会の15%の人が、公共の概念を理解していれば、社会は成立すると思う。それくらいのゆるい制度設計じゃないととっくに社会は潰れているから。残り85%が公共を理解できない子供たち。われわれの喫緊の課題は公共の概念を理解する15%の大人をどうやって確保するかだよ。
 
光嶋:今は子供のままの大人が多いように思いますね。成熟するには、始めに言っていた複雑さ・分からなさなどを内包しながら、考えて、少しずつでも進まないといけないと思います。やっぱり思考停止してしまっては、不自由でつまらない。
 
内田:一定数の成熟した市民が存在しないと、社会は持たない。病める人も貧しい人も、それなりに健康で文化的な生活を自尊感情を持って過ごせる社会は、公共が機能していないと構築できない。公共というのは「持ち出し」を覚悟する人たちがいてはじめて成立する。
 
光嶋:それを練習しているのが「家族」のような気がします。子育ては、ギブ&テイクではないですからね。家族生活の経験が、集団としての公共性を理解するきっかけになるのかもしれません。さらに言うと、凱風館の親御さんみたいに、ある親が他の子供の面倒も一緒に世話する場面などがあると、色んなペルソナを持っていることの豊かさともつながれる気がするんです。子供たちが色んな人を知るきっかけにもなる。子供たちが自身の世界を拡張するための窓を大人たちが背中で見せる。多様なモザイクの世界を見せ、判断は子供たちに委ねる。大人にできるのは、自分の背中を見せることだけ。それが公共的な集団の理想的な在り方なのかなと感じています。
 

90分近く熱い対談を展開した二人は、来場者の質問に答える形で「好きな筆記具」や凱風館の住心地などについて回答。最後までトークで会場を盛り上げた。
光嶋氏の次回の対談相手は、作家のいとうせいこう氏。「文学と幻想について~頭で思考する」をテーマに語り合う。
 
文:桜井恒ニ
 
 

【プロフィール】
光嶋 裕介 (こうしま ゆうすけ)
建築家、⼀級建築⼠。1979年米国ニュージャージー州⽣。1987年に⽇本に帰国。以降、カナダ(トロント)、イギリス(マンチェスター)、東京で育ち、最終的に早稲⽥⼤学⼤学院修⼠課程建築学専攻を2004年に卒業。同年にザウアブルッフ・ハットン・アーキテクツ(ベルリン)に就職。2008年にドイツより帰国し、光嶋裕介建築設計事務所を主宰。2010年に桑沢デザイン研究所、2011年に⽇本⼤学短期⼤学部にて⾮常勤講師に就任。2015年より神⼾⼤学客員准教授、2017年より早稲⽥⼤学⾮常勤講師などを務める。

内田 樹 (うちだ たつる)
武道家、仏文学者。神戸女子大学院大学名誉教授。多田塾甲南合気会師範。武道と哲学のための学塾「凱風館」を主宰。『ためらいの倫理学』など多数の著作を発表。著作活動に対する評価が高く、伊丹十三賞を受賞している。
 
第4回|「アートと芸術ついて~手で思考する」束芋(現代美術家) ×光嶋 裕介
日時:9月19日(木) 19:00~20:45
場所:BOOK EVENT SPACE
参加条件:
銀座 蔦屋書店にて下記の商品をご購入いただいた方にご参加いただけます。
・イベント参加券:1,500円/税込
・イベント参加対象書籍『幻想都市風景(羽鳥書店)』:3,132円/税込
 
第5回|「写真と時間ついて~眼で思考する」鈴木 理策(写真家) ×光嶋 裕介
日時:9月24日(火) 19:00~20:45
場所:BOOK EVENT SPACE
参加条件:
銀座 蔦屋書店にて下記の商品をご購入いただいた方にご参加いただけます。
・イベント参加券:1,500円/税込
・イベント参加対象書籍『幻想都市風景(羽鳥書店)』:3,132円/税込
 

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