【第44回】コンシェルジュ河出の世界文学よこんにちは『花びらとその他の不穏な物語』グアダルーペ・ネッテル/現代書館
私たちは普通ではない 『花びらとその他の不穏な物語』
「エンドウ豆の上に寝たお姫さま」という童話がある。グリム童話だったかな、と思って調べてみたらアンデルセンの作だった。「本当のお姫さま」と結婚したい、と考えた王子さまが、「本当のお姫さま」を名乗るひとを、一粒の豆の上に何枚も何枚も布団を重ねた上で寝かせる。翌朝その人は「何か固いものが布団の下にあって気になって眠れなかった」と言う。こんなにも神経質ならこれは「本当のお姫さま」にちがいない。王子さまは彼女と結婚することにする。
何重にも重ねられた布団の下にあるたった一つの豆粒に気づくことを、この話ではただならぬこととしているわけだが、豆粒に気づくことと、その豆粒に気づいたひとを「本当のお姫さま」であると判定して妻に迎えることと、普通でないのははたしてどちらなのだろうか。
本書『花びらとその他の不穏な物語』を読んだ時、この話を思い出し、そんなことを思った。
普通、というのはよくわからない言葉だ。どこからどこまでが普通でどこからどこまでが普通でないのか、昔からよくわからない。他の人々が何をもって「普通」と「普通でない」を判断しているのか、それもよくわからない。たぶん、「普通」とは幻想だ。私たちは、恐らくは、「ここまでは『普通』で通じるだろう」という、自分なりの尺度を持っていて、それが万人に共有された確固とした基準ではなく自分なりの尺度でしかないことに、往々にして気づかないでいる。あるいは、気づかないことにしている。
『花びらとその他の不穏な物語』に収められた物語を読むことは、「普通」という幻想が、幻想でしかないということを(再)確認するということだ。自分なりの「普通」をあたりまえにやることで、世界との間に不協和音が生じてしまう、そんな人々が、ここにはいる。そして、彼らと私たちの間に、大きな差は、恐らくはない。自分以外の誰かの目から見れば、誰もが少しずつ「普通」ではない。そんなあたりまえのことに、この本を読んでいると気づかされてしまう。
それこそ、重ねられた布団の下に潜む豆の一粒に、それがずっとそこにあったことに、気づいてしまった時のように、落ち着かない気持ちにさせられる。本書はそんな一冊である。