【第6回】コンシェルジュ河出の世界文学よこんにちは『別の人』カン・ファギル/エトセトラブックス
線を引くのではなく手を繋ぐために 『別の人』
「別の人」。この言葉が、この小説の中ではくりかえし使われる。たとえばジナは、恋人に殴られ、それを告発した被害者であるにもかかわらず、ネットでもリアルの世界でも二次的な加害の言葉に晒され続ける。どうして会社を巻き込むんだ? 金のない恋人に高いプレゼントを買わせていたんだって? 誤解? 誤解される余地があったってことだよね? ひどい女、死ねよ…...彼女は思う。
「最近一番羨ましいのは、私の話を何の意味もないと思える人のことだ。私も、自分を理解に苦しむ女だと思いたい。そういう目で自分を眺めてみたい。永遠に理解できず、わかりたいとも思わない、自分とは完全に別の人。」
「別の人」。その言葉を使うことによって、この小説の登場人物たちは線を引こうとしている。今の酷い状況に置かれている自分と、それを理解できない他人の間に。これからの自分と、忘れ去り置き去りにしたい過去との間に。周囲に受け入れられる自分と、とうてい「みんな」の一員になることはできないあの子との間に。彼女たちはみな、自分が安全でいられる場所をどうにかして確保しようとしているかのようだ。悲惨な目に遭って、どうすればいいのかわからず、泣いているあの子。ここに線を引いたから、あれは私ではない、別の人なのだ、と。
だが本当にそうだろうか。そうやって、苦しんでいる「別の人」と安全な私の間に線を引くことで、「私」は本当に救われるのだろうか。「私」もまた誰か――それが未来の自分自身であることもある――にとっては、「あんなに悲惨な人は私じゃない」と言われる「別の人」であるのに。線を引き、切り離し、けれど切り離された人の苦しみはどこに行くのだろう?
「別の人」はしかし、ちがう意味にもなり得る。作中で、ある登場人物が、自分と同じ境遇の人々の物語を探すところがある。彼女は、「別の人たちがどうしているか知りたかった」。
このように「別の人」は、酷い目に遭い、傷つき、苦しんでいる、他の誰かのことでもある。同じように傷ついている私が、話を聞き、自分の話をし、手を繋ぐことのできる誰かのことでもある。一人で声を上げるのがあまりにも難しいことが確かにこの世界にはあり、けれども、沈黙させられた声を繋ぐことがはきっと、「別の人」と一緒であれば可能なのだと、この物語はそう語っているのだ。
今回ご紹介した書籍
カン・ファギル 著 小山内園子 訳 エトセトラブックス