【第279回】間室道子の本棚 『若い男/もうひとりの娘』アニー・エルノー 堀茂樹訳/早川書房
「元祖カリスマ書店員」として知られ、雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする、代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ・間室道子。
本連載では、当店きっての人気コンシェルジュである彼女の、頭の中にある"本棚"を覗きます。
本人のコメントと共にお楽しみください。
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『若い男/もうひとりの娘』
アニー・エルノー 堀茂樹訳/早川書房
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自身に起きたことを素描のような筆致で小説に仕上げていくアニー・エルノーの二編。面白いなあと思ったのは、どちらも人間関係を身体感覚やポジションで書いていることだ。
「若い男」という作品では五十四歳になる「私」と三十歳近く年下の男との日々が綴られる。日本でこのテの話を書けば、私の考えではどうしたってジェネレーションギャップと世間体と愛と不安の話になりがち。でも本書は欧州の風みたいに乾いている。たとえば情事の場面。
「私」は金曜の夜から月曜の朝までをルーアンにある彼のアパルトマンで過ごす。寝室にセットされたコンポからはたいていザ・ドアーズの曲が流れている。「一瞬、私は音楽が耳に入らなくなる。」――これがセックスだ。
また、二人で町を歩く時に自分と同年代の女たちから向けられる目。”彼ってどういう人?”とか”どのように出会ったのかしら””ほんとに愛しあってるの?”などではない、「彼が熟年女性が好みなら、あの女のポジションはどうして私ではいけないのか」という控えめだが希望と大胆さがにじみ出た視線。
このあと若い娘たちからのまなざしも書かれるのだけど、中年女性たちが、「私」を目にした結果、「ならば自分でも」となるのに対し、二十代の女たちは、「私」をいないも同然として公然と彼にモーションをかけてくる、という観察が興味深い。
二人の恋愛は、反復、という「私」の体感で終わりを告げる。そのあと彼女はこの作品を書き、彼との永遠を手に入れたのだ。
「もうひとりの娘」は劇的な一編で、「私」が「あなた」に向けて書いており、それはお姉さんを差すとわかる。だがそのあと、
「でも、あなたは私の姉ではない。姉だったことは一度もない。私たちはいっしょに遊んだり、食べたり、眠ったりしなかった。私はあなたに触れたことも、キスしたこともない。あなたの瞳の色を知らない。あなたを見たことがない」――感情ではなく行動の羅列。
「私」が生まれる二年半前、お姉さんは六歳で死んでいた。
それを知ったのは十歳の夏休みの夕暮れ。母とお店のお客さんとの会話を盗み聞きしたのである。この時も、衝撃や”私の家に何が”という怖れや悲しみではなく、「自分が二人の女性の周りを徐々に狭めながらグルグル走り回っていた」という身体の動きが記されている。
面白いのは、あるいは奇妙なのは、そのあと「私」が姉の存在について両親に「さっき聞いちゃったんだけど」と切り出したり、年月を経て父と母の方から「えー、実は」と打ち明けたりがないこと。「いた姉」は、運命の夏の夕方の後も「いない」。この家には「私」か「あなた」のどちらかしかいられないのだ。その即物的な理由はP120にある。
もちろん内面の描写も出てくる。でも「私」が自分と姉をセットにして、「私たちの母親」とか「私たちの両親」と言えないでいること、物語に差しはさまれる写真に写るのは、娘か、もうひとりの娘であること。こんな「体が占める」感覚が、読んでいてすごく重さを持つ。
わたしの考えでは、唯一の「ふたりが同時にいられる場所」として、彼女はこの作品を書いた。
短いけど読み応えのある二編。夕暮れの読書におすすめ。
「若い男」という作品では五十四歳になる「私」と三十歳近く年下の男との日々が綴られる。日本でこのテの話を書けば、私の考えではどうしたってジェネレーションギャップと世間体と愛と不安の話になりがち。でも本書は欧州の風みたいに乾いている。たとえば情事の場面。
「私」は金曜の夜から月曜の朝までをルーアンにある彼のアパルトマンで過ごす。寝室にセットされたコンポからはたいていザ・ドアーズの曲が流れている。「一瞬、私は音楽が耳に入らなくなる。」――これがセックスだ。
また、二人で町を歩く時に自分と同年代の女たちから向けられる目。”彼ってどういう人?”とか”どのように出会ったのかしら””ほんとに愛しあってるの?”などではない、「彼が熟年女性が好みなら、あの女のポジションはどうして私ではいけないのか」という控えめだが希望と大胆さがにじみ出た視線。
このあと若い娘たちからのまなざしも書かれるのだけど、中年女性たちが、「私」を目にした結果、「ならば自分でも」となるのに対し、二十代の女たちは、「私」をいないも同然として公然と彼にモーションをかけてくる、という観察が興味深い。
二人の恋愛は、反復、という「私」の体感で終わりを告げる。そのあと彼女はこの作品を書き、彼との永遠を手に入れたのだ。
「もうひとりの娘」は劇的な一編で、「私」が「あなた」に向けて書いており、それはお姉さんを差すとわかる。だがそのあと、
「でも、あなたは私の姉ではない。姉だったことは一度もない。私たちはいっしょに遊んだり、食べたり、眠ったりしなかった。私はあなたに触れたことも、キスしたこともない。あなたの瞳の色を知らない。あなたを見たことがない」――感情ではなく行動の羅列。
「私」が生まれる二年半前、お姉さんは六歳で死んでいた。
それを知ったのは十歳の夏休みの夕暮れ。母とお店のお客さんとの会話を盗み聞きしたのである。この時も、衝撃や”私の家に何が”という怖れや悲しみではなく、「自分が二人の女性の周りを徐々に狭めながらグルグル走り回っていた」という身体の動きが記されている。
面白いのは、あるいは奇妙なのは、そのあと「私」が姉の存在について両親に「さっき聞いちゃったんだけど」と切り出したり、年月を経て父と母の方から「えー、実は」と打ち明けたりがないこと。「いた姉」は、運命の夏の夕方の後も「いない」。この家には「私」か「あなた」のどちらかしかいられないのだ。その即物的な理由はP120にある。
もちろん内面の描写も出てくる。でも「私」が自分と姉をセットにして、「私たちの母親」とか「私たちの両親」と言えないでいること、物語に差しはさまれる写真に写るのは、娘か、もうひとりの娘であること。こんな「体が占める」感覚が、読んでいてすごく重さを持つ。
わたしの考えでは、唯一の「ふたりが同時にいられる場所」として、彼女はこの作品を書いた。
短いけど読み応えのある二編。夕暮れの読書におすすめ。
代官山 蔦屋書店 文学担当コンシェルジュ
間 室 道 子
【プロフィール】
雑誌やTVなどさまざまなメディアで本をおススメする「元祖カリスマ書店員」。雑誌『婦人画報』、『Precious』などに連載を持つ。書評家としても活動中で、文庫解説に『蒼ざめた馬』(アガサ・クリスティー/ハヤカワクリスティー文庫)、『母性』(湊かなえ/新潮文庫)、『蛇行する月』(桜木紫乃/双葉文庫)、『スタフ staph』(道尾秀介/文春文庫)などがある。