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【RE:HIROSHIMA インタビュー】伝統玩具のけん玉から世界のスポーツアイテムとしてのKENDAMAへ イワタ木工の挑戦と革新

 
今や、日本の玩具だったけん玉は、世界のKENDAMAとして、あらゆる国で遊ばれていて、競技としても成り立っている。今は世界中でけん玉が作られているが、その中でも世界が注目するけん玉を作る会社がある。それが、広島県廿日市市にある㈱イワタ木工である。㈱イワタ木工のけん玉が、なぜ世界中のけん玉プレイヤーのあこがれとなったのか、その秘密にも迫るお話を伺った。
 
 
木工の仕事との出会い
 
けん玉の話をする前に、私が木工の仕事をすることになったのはなぜかお伝えしますね。
まず、私が木工に出合ったのは、父親がイワタ木工という会社をやっていたからです。それで、私は小学校3年生ぐらいから木工には関わっていました。その頃は、習字の筆の軸を作っていたんですね。材料を切ったり、穴あけをしたり、ろくろという機械も中学生ぐらいから使っていました。木工に対する考え方はそのころから変わっていませんね。刃物の精度や削り、さらに磨きの精度などにもこだわりを持って制作をしていました。
 
 
私がけん玉に出合ったのは、実は大学3年生の時なんですよ。廿日市市の出身にしてはすごく遅いですよね。廿日市市がけん玉発祥の地だということもその時に知ったんです。その時ぐらいですね、廿日市市にけん玉を作る会社がなくなってしまったということで、イワタ木工に伝統工芸ともいえるけん玉の製造をして欲しいという依頼があったんです。
イワタ木工では、筆の軸などを作っていたので回して削る技術があるんですよ。それはけん玉を作る技術としても使えるんですね。ただ、私自身けん玉を作って果たして売れるのかと思った時に、実は売れないと思ったんです。さらに、父親はけん玉の製造については乗り気ではありませんでした。さてどうしようということになりまして、一応、日本けん玉協会の大会を見に行ったんです。

 
 
 
けん玉との出会い
 
その大会に参加してみるとですね、小さな子供たちが驚くような技をしているんです。お皿のふちに玉を乗せる「うぐいす」という技や、けんが空中で1回転する「1回転飛行機」という技などしていて、私が今までけん玉に対して持っていた概念が壊されたんです。こんなに技の数も多く、競技としておもしろいものだったのかと。そして、けん玉で技の練習をしてその技ができるようになって、大会に出て、勝ったり負けたりする。それがこどもたちの成長にも影響するものだと知りました。
実は私はもともと保育士になりたかったんです。こどもたちを育成することに夢がありました。実際、高校生の時にも、児童館でこどもたちと遊ぶ時間を取っていたぐらいです。しかし、家の事情でそれがかなわなくなり、保育士になる夢は諦めました。でも、けん玉を教えることを通してこどもたちを成長させることができると思いました。保育士になる夢は途絶えましたが、けん玉の先生にはなれるのではないかと考えたんです。
それからは、けん玉づくりに試行錯誤しながら、同時に、私自身がけん玉を教えられるようにけん玉の練習も始めました。
始めは作ったけん玉を販売するために、保育園などにただ「けん玉を買いませんか」と持って行っても相手にされませんでしたが、「自分はこどもたちにけん玉を教えることができますよ。」というと興味をもってくれるんですね。それで、保育園でけん玉教室をしてまわるということをしていました。けっこう遠くの保育園までいってけん玉を教えていましたね。そうすると保育園の間でも噂になって、けん玉先生として有名になっていきました。
 

 
けん玉製造部門ができる
 
大学を出てから、イワタ木工にけん玉製造部門の担当として入社しました。その頃は、けん玉を作って、営業に行き、けん玉を教える、ということすべてを自分でやっていました。けん玉製造部門を作るために親からも大きな借金をしていたので、それを返すためにひたすら努力を続けていた頃です。
その時に、けん玉を扱ってくれたのが、東急ハンズ(現ハンズ)です。当時担当してくれた人が、あなたのところのけん玉は売れるから、ということで仕入れてくれて、当時の新宿の東急ハンズで結構大きな売り場を作ってくれて、どんどん売り上げが上がっていったんです。後日談ですが、その後また新しいけん玉を作ったときに、その担当の方が、広島にいらっしゃったんです。その頃は、売り切れでなかなか買えなかった夢元無双というけん玉が、広島の東急ハンズで買えたのは以前からの付き合いがあったからなんですよ。
もともと、夢元という名前のけん玉を作っていたのですが、それはおもちゃ屋さんにはおかない、と決めていました。けん玉はおもちゃとしてではなく、人を育てるためのスポーツであり、生涯スポーツの道具です。こどもから大人まで一緒に楽しめるんですね。そこも素晴らしいと思っていました。
 
 
 
けん玉の可能性
 
あるけん玉教室で、車いすの方がけん玉をやってくれたんです。手乗せ大皿という、手で玉を大皿に乗せる、これもれっきとした技なんですけれど、それができたことで、本人ももちろん喜んでくれたのですが、旦那様がすごく喜んでくれて、そこにけん玉のさらなる可能性を感じました。こどもの遊びというところから、楽しみながら運動ができる、お孫さんとおじいさんおばあさんが一緒にやれる、年齢を超えたコミュニケーションツールにもなるとも思いました。けん玉というスポーツには言葉もいりません。海外の人ともけん玉を通してコミュニケーションができます。こんな楽しいけん玉を、ちゃんとしたモノづくりで見せていこうと決心しました。
私がやっている「Kendama Shop Yume.」も8年になるのですが、けん玉は非常に優れたコミュニケーションツールだと感じています。お店には、外国の方もたくさん来られますし、小学生だったこどもたちが二十歳になってまた店に来てくれて、一緒にお酒を飲みに行きましょう、なんて言ってくる。そんな素晴らしい出会いが生まれるんです
 

 
 
 
世界でのけん玉ブームとは
 
けん玉が世界的なブームになったきっかけは、海外のプロスキーヤーのプロモーションビデオで、日本のスキルトイ(技術が必要な遊び道具)として様々なトリック(技)をやっている姿を見せたことからですね。そして、私の当時作っていた「夢元」というけん玉は、日本にはいろいろけん玉があるけれど「夢元」がとても使いやすい、これはすごいぞということが噂になって、そこから世界で火が付きました。
日本でも、けん玉の大会でトップの選手が使っているけん玉がほとんど夢元だった、という状況になってきます。
なぜかというと、まだ当時のけん玉はそこまで精度のいいものが無かったんですね。玉が真球でなく、ちょっと歪んでいたりとか、皿の角度が玉と合っていなかったりとか。ですが、夢元はそこにこそ、こだわりを持って作っていました。とにかく精度をあげて、レベルの高いものだけを販売していたんですね。
昔のけん玉プレイヤーは、たくさんけん玉を買ってきて、それらを使い比べて、一番使いやすいものを選んでそれを大会で使う。などしていました。しかし、夢元であれば一つ買えばそれがそのまま大会で使えるのです。そして、これまで練習してきた技を、新品の夢元でも同じようなレベルで技がやりやすい。自分のやりたい技が決まる。それが夢元というけん玉でした。しかし実はその当時、いろいろな事情からけん玉を作ることから離れていたんです。そうすると、日本でも海外でも、夢元を使えば技ができる、でも売っていない。という状況になり、インターネットで高値を付けるようになりました。5万円とか10万円の値が付くようになったのです。
 
 

夢元復活への声 そして夢元無双からMUGEN MUSOUへ
 
Facebookのけん玉コミュニティで夢元のファンの海外の人たちが夢元を復活させてくれと声を上げてくれたんです。そしてたくさんの動画やメッセージが届きました。また、その頃、現在けん玉ワールドカップを主催している、グローバルけん玉ネットワークの代表の窪田さんからも相談を受けていて、日本けん玉協会から出て、グローバルな活動をしようという話になっていました。そのためには、起爆剤が欲しい、ということから、夢元の復活プロジェクトがはじまりました。そしてその時生まれたのが「夢元無双」というけん玉です。このインパクトは世界でもかなりすごかったのを覚えています。インターネットでも即売り切れて、世界でけん玉がまた盛り上がったのです。それから、窪田さんと私は、けん玉ワールドカップ開催という夢の為に関係各所に頭を下げて回り、2014年に第一回けん玉ワールドカップの開催にこぎつけました。その後、窪田さんは、いつかはオリンピック競技へというさらなる夢に向かって活動することになりました。その頃に作っていた夢元無双は、しっかりと起爆剤としての役目を終え、私は、次のステージとして、モノづくりとしてのけん玉を、インテリア業界に落とし込むという方向を探るべく動きだし、グローバルけん玉ネットワークとは別れて、今はMUGEN MUSOUというブランド名になりました。
 
MUGEN MUSOU 10周年誌『A DECADE OF MUGEN MUSOU』
 
 
 
けん玉を作る、そのこだわり
 
私は、けん玉をただ作るのではなく、モノづくりであると思っています。ずっと昔のままのけん玉をそのまま作り続けるのは違うと思っているんです。けん玉を進化させる、それは、組木の技術を使ったり、剣の先端を取り換えられるようにしたり、という技術的な工夫も行っています。常に進化させていくことが大事だと思って作っています。中皿に穴を空けることや、けん玉ホルダーを作ることなどもだいたい私が最初にやりました。常に先駆者でありたいという思いは今も持ち続けています。
 
 
また、けん玉の価格にも問題意識を持っていました。そもそも昔のけん玉は安すぎた。これでは儲からないし、それでは作る人がいなくなってしまう。次の作り手も育たない、それで技術が途絶えてしまうのはもったいないことです。
適正なちゃんとした価格で価値を届けたい。いいと思って買ってくれて、その良さを感じてくれて、それが他の人にも伝わってそれで広がっていけば、けん玉の値段のスタンダードが変わっていくはずだと思っていました。
実際、当時けん玉の一般的な価格は、1,000円くらいが相場でした。しっかりとしたモノづくりをした「夢元無双」はその当時7,000円で販売していました。それでも買った人は満足してくれていました。もちろん技術的にはすごいものがはいっていますし、それだけの価値がある作りをしています。それを理解した人が買ってくれて、広まっていきました。昔はミカンネットに入って売っていたけん玉ですが、私はきちんとした紙の箱のパッケージに技術の粋が詰まったけん玉を入れて、贈り物にもできるようにして販売するようにしました。
今や、ひろしまブランドとしても認定されたけん玉ですが、そこにたどり着くまでに様々な工夫や乗り越える壁があったわけなんですよ。
 
 
 
これからのMUGEN MUSOUが目指す道
 
けん玉は今ブームと言っていい盛り上がりを見せています。
しかし、ブームというのは必ず終わりが来ます。ブームに乗って質の悪いけん玉がたくさん増えて、また価格競争になってしまい低価格のけん玉が増えると以前と同じような状況になってしまう。そんなことが繰り返されるのは避けたかったんです。そのために、けん玉業界だけでなく他のところにも身を投じようと考えました。
 
 
それで、パリで行われているインテリアとデザインの見本市、メゾン・エ・オブジェに出展することにしました。そこでは、インテリアとしてのけん玉や、イワタ木工の持つ技術を使った花器などを出品しました。様々な人と商談をおこない、FRANCK MULLER とのコラボけん玉を作ってくれとのオファーを頂きました。信頼あるブランドはちゃんとしたモノづくりをしているところとしかコラボはしませんが、そこに認められ作った30万円のけん玉が、すぐに売り切れになりました。
モノづくりを本気でやっているという姿勢も見せながら、そのものの価値を認めてもらい、価格もきちんと上げていく。実際にいいものがちゃんと売れないと設備投資もできませんし、職人を育てることもできません。
これからの夢は、けん玉を作りたいと思ってくれる従業員をどんどん増やしていくことです。それら従業員の育成ということにもやりがいを感じています。モノづくりの楽しさや奥深さを伝え、私の後に続く職人を育てていきたいと思っています。
 
 
 
新しい発想は常に頭の中にある
 
現在新作のけん玉を作っているのですが、これが世に出ると、今までのけん玉プレイヤーが全員抱えていた悩みを解決することになる画期的なものになるし、それを実現する新しい技術も開発しました。
この技術は特許を取って販売をしていく準備をしているところです。
けん玉を遊ぶだけでなく、オブジェとしてとらえる。新しい技術をけん玉に取り入れていく。木材にもこだわりけん玉の価値をさらに上げていく。そのような新しい発想は常に頭の中にあります。
伝統文化というものは守らなければならないところもあるのですが、それでも改良の余地はあって、常に改善して変えていくべきところは変えていかなければならないと思っています。
例えば、糸一本にもこだわりがありますし、玉を止めるのにワッシャーとビーズを使っているのですが、そのワッシャーとビーズのサイズや穴の大きさなどもずいぶん試して検討して、ベストなものを使っています。ちょっと、さらにのこだわりですが、ビーズは広島のトーホービーズさんのものを使っています。こだわり抜いた末に正規品として販売できなかったものなどは、けん玉ワールドカップの会場で、SDGsけん玉として販売したのですが、すべて完売しました。
 
 
 
これからのイワタ木工の目指すところ
 
けん玉だけでなく、インテリアオブジェなども作っていこうと思っています。それはイワタ木工の価値を高めることになりますし、モノづくりの価値を高め、木材の価値を高めることにも繋がっていくと感じています。
みなさんの先入観として、木材の製品は金属に比べて安価なものだと思われているかもしれません。しかし、金属は溶かして型に入れれば大体のものは作ることができるし、同じものが大量に生産できます。
しかし、木材というのは、一期一会で、その木目、その色は唯一無二のものです。しかも材料として使えるまでに育つのに長い時間がかかります。だから私はその材料を粗末に扱うことはしません。この木を材料として購入して、それを加工する自分には責任があると思っています。この木たちをきちんといい状態でこの世に製品として出してあげたいのです
 
 
その木材の価値を見せるときにどこがいいのか、それを考えたときに、オブジェとしてインテリア業界に出すのがいいと思ったのです。インテリア業界で認められるには、感性に訴えるものづくりが出来ていないといけません。オブジェを作るにあたって、木目の美しさもアピールしたいと思いまして、スーパーマットという塗装も塗装会社と一緒に開発をしました。
この色は、ほとんど光を反射しません。光を反射しないということは、木目が飛ばないので木目の美しさをしっかりと見てもらえる。木目というのは年輪です。その年輪は長い年月をかけて作られていくものなので、それを感じることができるようなモノづくりをするのが木材に対する礼儀だと思っています。

 
 
 
 
岩田社長の考えるRE:HIROSHIMAとは
 
けん玉は広島発祥のものです。そしてけん玉の再評価は海外から始まりました。その広がりに、その理解の仕方に、もっとかかわっていければと思っています。
古いもの、昔遊びと認識されているけん玉ですが、その基本の形状は今も変わらず、楽しさも変わることがないんですよね。けん玉をもっと理解してもらって、自分の人生の中でひとつのパートナーになり得るものであるということを知ってもらいたいのです。例えば、けん玉ができることによって、できることが増えて欲しいと思っています。けん玉をやるようになってから、海外の人と話すために英語を勉強して話せるようになったとか、けん玉をやるようになってから、人とコミュニケーションができるようになったとか。
最近はショップに体の大きな米軍の方もいらっしゃるのですが、小さな小学生たちと一緒にけん玉で盛り上がっている。その姿を見ると、本当にいいなと思います。
おとなとこどもと同じ目線で楽しめますので、親子で遊んでもらうのも嬉しいことです。ついつい親がこどもにこうやったらいいよとか、手を出してしまうんですよね。でも、そんなとき私は、こどもたちが考えて頑張っているので、最後まで見守ってあげてくださいと言うんです。そしてこどもが技を成功させたときの姿を見ることで、こどもを見る目が変わるんです。学校に行けなかったこどももけん玉で遊んでいるうちにコミュニケーションができるようになって2年ぶりに学校に行ったという子もいました。
小児科の研究会にも行ったことがあるのですが、こどもたちが小さな達成感をつみかさねて、そして自分自身を信じないと技を成功させることができないけん玉の、教育への有用性が語られていました。その魅力を私はこれからも広げていかなければならないと思っています。

それが、私のRE:KENDAMでありRE:HIROSHIMAですね。
 
 
岩田社長おすすめの1冊
 
 
今はデザインの領域にも進出していっているのでそこでもすごく参考になるのですが、以前から何度も見直し、とても勉強になっている本があります。
ピエ・ブックスの『KATATI 日本のかたち』です。
けん玉を作っている中でも大事にしているのが、日本の伝統的なものの「かたち」です。やはり日本で昔から作られているもののかたちってどこかに共通点があるんです。だから私は、けん玉であっても、これから取り組んでいくオブジェであっても、日本で作っているということにこだわりを持ち、日本で作っているということを大事にしたいと思っています。
これからも伝統的なものや文化、そして新しい発想やこどもたちの育成など、様々なことを総合的に考えながら、イワタ木工としてのモノづくりを進めていきたいと思っています。
 
 
 
 
【プロフィール】
岩田知真(いわたかずま)
1982年生まれ。広島県廿日市市出身。
小学生の頃から、父親の工場で家業を手伝い、木工歴は2025年で33年目となる。2005年から、けん玉総管理責任者として父親の会社に入社し、2005年には自社ブランド「夢元けん玉」の製造販売を開始した。2014年には、父親の会社から独立し、株式会社イワタ木工を設立。廿日市市が発祥の「けん玉」を地元廿日市市で唯一、民間で製造をおこなっており、木材の価値とけん玉の価値を高めるため、海外出展や、けん玉ワールドカップの実行委員会のメンバーとして、廿日市の「KENDAMA」を世界中に認知してもらうための活動をおこなっている。また、木工職人としての活動と別にドラコンプロとしての活動も行っている。
 
 
株式会社イワタ木工
 

2014年に設立。「ものづくりを通して真の感動につなげる」というミッションを掲げ、広島県廿日市市に本社を構える木工メーカーです。けん玉ブランド「MUGEN MUSOU」やインテリアオブジェブランド「IWATA」などを中心とした木工製品を手がけています。
廿日市市に伝わる伝統的な木工技術「廿日市ろくろ」を受け継ぎながら、現代的な技術と洗練されたデザインを融合し、高品質で革新的な製品づくりに取り組んでいます。
 
 

撮影_中野一行
構成_広島 蔦屋書店 文学コンシェルジュ 江藤宏樹
撮影場所_株式会社イワタ木工
 

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