「Neverland Diner」102

 
記憶に残る味は醤―忘れてんじゃねーよ
 
 
二十数年前、思い出して逆算してそんなにも時がたったことに自分でも驚きだけど、確かミレニアムイヤーで世間がにぎわっていた頃、わたしは友人と二人で鉄板居酒屋をやっていた。数年間だったけど、自分で言うのもなんだが若いギャル(当時は)二人がやってるカウンターメインの鉄板居酒屋は流行っていた。ビール350円だし。今でも同じような設定(ギャルが大事)で営業したら流行るんじゃないかと思う。とにかく楽しかったし、たくさん記憶がつまった「二度と行けない店」ではあるけど、今回はその当時仕事終わりにによく通った別の店を思い出してみた。
 
店名が思い出せないそのお店は自分たちの店と同じ町にあって、地元の人が通うスナックがワンフロアに1件づつある5階建ての小さなビルの1階にあった。韓国人のママが一人でやってる韓国料理のお店だ。カウンター8席くらいと奥に二人用座敷があった。遅くまで開いていたので仕事(店)を終えてから行けるのも都合がよく、お客さんと行ったり、友達と行ったり、たまに一人で行くこともあった。一時期は頻繁に通っていて常連さんとも顔見知りになったし、せまいカウンター席の後ろを通る時は座ってる人に前かがみになってもらって「通るよ~お先に~」とか誰もが挨拶しあうアットホームな雰囲気だった。何より心地よかったのは、いつ行っても元気に迎えてくれる明るくて優しいママのおかげで、面白いママの話をみんなが聞きたがった。生まれは韓国で成人してから日本にきたらしく、ママの日本語は独特の訛りがあり(サ行がタ行になりがちで語尾の発音が上がるかんじ)、なんともかわいかった。
料理もどれもおいしくて、韓国の家庭料理の味をわたしはこのお店でたくさん学んだ。「ママ、おいしい」というとすぐ作り方を教えてくれたけど、なかなか手の込んだものも多く、そもそも調味料(醤)が決め手だったりするので、ママの味にはならないのだった。そんな中でもパジョン(分かりやすくいうとネギのチヂミ)がわたしは大好きでよくたのんだ。5センチくらいに切ったネギをたっぷりと、イカやエビ、そのときにあるシーフードを入れて粉と玉子でとじる、チヂミよりも厚みがあって外カリッ中ふわっ。そしてなんといってもピリ辛のタレが最高!おいしいおいしいと食べていると「これがあったら家でも食べれるけん」とママがタレを持たせてくれるのだった。「パジョンのタレいっぱいつくったけん取りにおいで」とわざわざ連絡をくれたこともあった。
辛いもの好きを豪語するわたしとお客さんで、止めるママを押し切り激辛青唐辛子を食べるバトルをして二人で胃が痛くなったときも、お母さんみたいに心配してくれた。飲ませたがるお客さんにわたしがお酒をすすめられたりすると、実はあまりお酒が強くないうえに仕事(店)で飲んだ後だと察知して「はい、ウーロンハイ」といいながら「ウーロン茶にしといたけん」と耳打ちしてきたし、夏でも長袖のお客さんに誘われたときも、ママが断り方を教えてくれたりした。大事なことをたくさんこのお店でママから教わっていた。
 
ママには内縁の夫がいて、その人の話をするときは恋する乙女みたいだった。もうすぐ籍を入れるんだと嬉しそうに話していた。確か10歳位年下の韓国人で、背が高くてイケメン、それにとても優しいなんて最高かよっ。まだ冬ソナブーム前で韓流スターをほとんど知らなかったけど、今でいうところのパク・ソジュンみたいな人を想像しながらいつも自慢話を聞いていた。
ある時そのソジュンは韓国に帰っているという。ご両親の体調が悪いのでということだった。しばらくたってもまだ帰ってきてないようだったので大丈夫なのかと聞いたら、ご両親の体調は良くならずソジュンは仕事もやめて韓国にもどったので、あちらでのお金もなくて大変だから今は支えてあげなきゃという。どんな病気か詳しくは知らないみたいだった。仕事までやめたのかと驚いたし、全然帰ってこないソジュンに腹立たしさもあったけど、ママはいつもの笑顔だったので大丈夫なんだろうと思っていた。いや、本当は疑問だらけだったんだけど、詳しく聞いたところで何もできないからと薄情な気持ちがあったかもしれない。
それからもソジュンが帰ってきた様子はなかった。ママはお昼も仕事をはじめたけど、相変わらずお店は遅くまで開けていた。というか閉店時間は何時だったんだろう、帰れと言われたことがない。たいてい深夜2時くらいまで飲んでいたけどいつも笑顔で「また来んちゃいよ」と言ってくれた。それから片付けて帰って、明くる日は昼の仕事、夕方には仕込みをして深夜まで営業…あの頃の自分に「はよ帰れや!」といいたくてしょうがない。
そんな日々が半年か1年過ぎて、ママはあんなに自慢していたソジュンの話をしなくなっていた。なんとなくわたしからも聞けずに更に時は経ち、ママのお店に行く頻度もへってきたある日、突然閉店することを聞いた。
 
最後にいつものお客さんたちと行ったことは覚えてるし、ママが閉店の訳やその後のことを笑顔で話していたけど、ボーっとしていたのかなぜか詳しくは覚えていない。
お金の話だったと思う。
 
それから数年の間にわたしも結婚して離婚していっちょ前に色々あり、自分も店をやめた。更に再婚して主婦の頃、近所のスーパーでママに会った。目があった瞬間ほんの一瞬、ママが気付かないふりをしようとした気がして胸がチクッと痛んだ。わたしはその痛みに気付かないふりをして「ママ」と声をかけ、ママも「元気?」と以前と変わらず明るい笑顔で言った。総菜を作るパートをしているようで、白い調理用の白衣を着て白い帽子をかぶっていた。
「ここで働いとるんよ」
「そうだったんじゃね」
「ゆきちゃん、パジョンのタレいるんなら作るけんね」
「ありがと、ママ」
それ以降ママと会った記憶はない。
わたしが一番好きな料理は断トツで韓国料理だ。
 
追記:この原稿を書いていて思い出したことがある。店名はママの名前だった。忘れてんじゃねーよ。
 
河賀由記子
 
 

 

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