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【インタビュー】渡辺あやの太鼓判「今最も気になるカルチャーとは」 

 
今日はよろしくお願いします。
ちょっと言葉にするのが難しいのですが、この頃ずっと考えていることがあって。今の私の中でものすごくホットな話題をお話させてもらってもいいでしょうか。

 
私は今まで様々なカルチャーに出会い、楽しませてもらってきました。読んできた本や漫画、観てきたドラマや映画が私をカタチづくっているというのは間違いないんですよね。
でも、いつからか疑問を持ちはじめました。人が本当に幸せに生きるには、やっぱり娯楽だけでは足りないんじゃないかと。文化や芸術が大好きだけど、それらをお菓子みたいに消費してるだけでは、人生を健全に生き抜く力はつかないんだろうと思うんです。
 
 
 
 
今って社会全体が不調というか、世間の皆さんにも調子が悪い人が増えている気がしています。私自身も30代ぐらいのときに調子を崩しました。「ジョゼと虎と魚たち」の脚本を書いた後ぐらいですかね。ずっと心が重くて、お腹の真ん中あたりになにか重しがある感じでした。楽しいはずのときでも重しが取れなかった。今思えば、おそらく鬱だったんだと思います。
その時、自分の心や脳や思考の扱い方がどれだけ難しいものかを痛感しました。頑張ればいいってものでもないし、休めばいいってものでもない。本当に苦しかった。だけどおかげで、藁をもつかむような気持ちで、普段読まないような本を片っ端から読んで、人間の意識というものについて勉強することができました。その中で「禅」を知り、なんだかよくわからないけど面白いなと思っていました。
 
やがてご縁があって、茶道に出会いました。初めて茶室でお茶を点ててみたとき、その作法の中に禅の教えが含まれているということが、体感でわかりました。
説明がとても難しい感覚なんですが、それまでなんとなく世界はこういうものかなと思っていたものと、実はまったく違う位相があると感じられたんです。本で読むだけではわからなかったことでした。お茶と禅が繋がって、これは自分の苦しさを救ってくれるものだと直感的に思いました。それ以来週1回のお稽古を続けて10年になります。
 
 
 
 
話が飛ぶようですが、私はずっと自分が脚本を書く時って、とても変なことが起こっているなと思っていました。必要な環境をそろえて、じっと待っていたら、どこかにチューニングが合う瞬間があって、そこからファイルが届く感じがして、それを読み込むように書く。変ですよね。自分でもそれが一体どういう事象なのかは、よくわからずにいたんですが、これも禅とどこか関係しているかもしれないと、先日ある本を読んで気づきました。
 
それがドイツの哲学者オイゲン・ヘリゲルの書いた『弓と禅』です。日本の弓道は欧米の洋弓とはまったく別物らしく、標準を合わせて距離を測って、というふうにロジカルに技術を積み重ねて的を狙うのが洋弓なのに対して、日本の弓はそうではない。つまりそこにもまた禅の教えが内包されていて、単なる競技ではないから「道」なのですね。
 
正しい姿勢で、ただひたすらに無心で弓を構えていると、しかるべき瞬間が訪れる。その時にふっと矢を放てば狙わずとも自然に的に当たるーーーそんな弓道の神秘的な考え方を読んで、それは自分の脚本の書き方にとても似ている気がしました。
本当にそんなんでいいのか?と思うくらいシンプルなのに、このヘリゲルさんも何年も苦心されるのは、この「無心で待つ」というところです。これがなかなかできない。「無心」ほど現代の私たちにとって難しいことってないですよね。
 
私たちの意識には過去の経験や、読んだ本とか見た映画とか様々なものが書き込まれていますよね。これまでインストールしたものが今の思考のOSとなって、日々の考えを巡らせている。実はこのOSの取り扱いが、想像以上に厄介なんだと思います。もし調子が悪くなったりエラーが出てくるとしたら、取り込んでるものの中の何かが過剰であるか、もしくは必要なものが足りていないないということなのかもしれない。
 
 
 
 
SNSが登場してから、人が自分と同じような属性の人だけで人間関係を構築しやすくなりましたよね。もちろん良いこともある反面、よく言われる「息苦しさ」っていうのもこれが結構大きい気がしてるんです。本来社会には赤ちゃんからお年寄りまで、いろんな人たちが居て、コミュニケーションにおけるスピードもボキャブラリーも全く違う。同世代とだとやたら過敏に反応しあってしまうような事柄も、子供やお年寄り相手だとどうでもいいことに気づいて脱力することってありますよね。自分の生活圏の中に幅広い属性の人たちを抱えるのって、慣れないと結構骨が折れるけれど、やっぱり本来そうあるべきなのかもしれない。人はやっぱり様々な在り方に触れることで世界を知れるし、鍛えられるし、自由にもなれるんだと思います。禅の教えにもあるんです。偏らず無心で物事と向き合いなさいと。人との縁はすべて学びなのだと受け止めれば、より良く生きることができるのだと。
 
 
おすすめの本は100分で名著から出た本『名著の予知能力』
 
NHK番組「100分de名著」のプロデューサー・秋満吉彦さんが書かれた『名著の予知能力』がおすすめです。古今東西の名著が紹介されていて、読むとすごく元気になれる。私もこの本を手にしたのは、いろいろあってくたびれてた時期だったんですけど、読んだら急に元気になりました。どうしてこんなに元気になれたんだろうって考えてみたんですが、何百年とかを超えて残っている名著って、本当に純粋な好奇心によって書かれているんですよね。お金を儲けるためではなくて、この世界への問いに対する人生を賭けた格闘として書いている。そんな書き手たちの格闘に、これまた全身全霊で向き合われている研究者たちと秋満さんの精神の躍動が伝わってきて、それが読む人を元気にしてくれるのです。私がくたびれていたのは社会の中のいろんな思考停止に触れすぎたせいだったと思うのですのが、世界を面白がっている人たちの生き生きした言葉に触れたことで、元気が伝染したんだと思います。
 
こういうことがあると、自分も多くの人の目に触れるものを作る以上、品質管理はちゃんとしないとなあと思います。表現って、この世界の様々を自分のフィルターに通して、また世に放つという行為かもしれない。だとしたら観る人が、世界に対して希望を持てるような表現をしたいなと。そのためには自分が淀んだ状態にあっては駄目なので、健全な循環を保つことは日々すごく心がけているかもしれません。
 
 
 
 
「名著の予知能力」の中の名著はどれもすごいのですが、特に印象に残ったのは明治時代に日本で初めて書かれた哲学書、西田幾多郎の『善の研究』でした。結構びっくりすることが書かれていて、物事の真理を知るには「純粋経験」というものがとても大事であり、それは例えば子供の頃にぼうっと空を見ていたあの感じなんだと。「私が」「空を見ている」と主客があるのではなく、ただ世界の中に自分も空も溶け合って混然とあるような、あの感覚。そんなの誰しもに経験あるやつですよね。それが真理を知れる状態なのだとしたら、現代人の私たちは明らかに日々無駄に頭を使いすぎていて、どんどん真理から遠ざかっているわけで、それは不調になってもおかしくないですよね。
 
 
脚本とは、そしてなぜ脚本家だったのか
 
脚本というのは、あくまでもドラマや映画を作る上での設計図で、それがそのまま完成品ではありません。なので、思っていたのと違ったものが出来上がることもあります。作品が死んじゃったなと思うときもあるし、思ったとおりではないけど生きていると感じるときもある、本当に色々です。悔しいことがあったとしても、全ては自分へ何かを教えてくれているんだと思います。作品が死んじゃったのは、自分が脚本に生き抜く力を込められていなかったからかもしれない、だとしたら生き残るために何を埋め込んでおく必要があるのだろう?とか、失敗が与えてくれる問いはたくさんあります。思ってもない受け取り方をされて批判されることもあれば、観た方が作品を育ててくれていると感じることもある。作品は誰か一人にコントロールできるものではない、ある種生き物だからこそ、人生を賭けて取り組むに値する面白い仕事だなと思います。
 
 
 
 
よく、なぜ小説ではなく脚本を書き出したのですか?と聞かれる事があります。実は私は昔、映画やドラマよりも本が好きで、たくさん読んでいました。素晴らしい作家は何を書いても作品になるような素晴らしい文体を持っているけれど、私はそんなものは持っていないと自分で知っていました、なので小説を書こうとは思いませんでした。逆にあまり観ていなかった映画やドラマのほうは自分にとってハードルが低くて、つい書き出してしまったというのがあります。
 
最初に脚本を書いたきっかけは明確にありますし、覚えています。結婚当初、ドイツに住んでいたんですね。ドイツ生活はとても刺激的で楽しかったのですが、夫の都合で0歳の子供と一緒に島根県に戻ることになりました。それまでと急に生活が変わってしまって、赤ちゃんに振り回されるだけの生活になり、自分をどうにかして楽しませないとまいってしまうと切に感じたんです。そこで、自分だけが楽しむための物語を作り始めました。自分のためだけのものでも、ちゃんと面白くないと嫌で、起承転結からしっかり夢中で書きました。
ただ文体を持たない私は、いわゆる「地の文」を書くのが嫌だったので、セリフとト書きだけで作りました。そうすると自然に脚本になったんです。自分でもびっくりしました。今思えば、私は子供を産んだことで、自分の人生の主役が自分でなくていいという感覚を得ており、それが大きかったのだと思います。物語の中にも自分は全然居なくてもいい、そうなったときに急に書けるようになったんです。
この作業は、非常に面白いぞと感じて、これがあれば私は一生ひとりで楽しめるなと思いました。だけどそんなふうに書いた脚本は、もしかしたら自分以外にも楽しんでもらえるものなのではないかと思って、岩井俊二さんが当時やられていたウェブサイトに応募したんです。それがデビューのきっかけとなりました。
それからもう20年脚本家をしているのですが、実は今でも私は主婦の遊びみたいに、ワードで横書きで脚本を書いているんですね。結局私は誰かに見せるためではなく、自分が楽しむために書いているんだなと思います。
 
 
 
 
 
影響を受けたのは くらもちふさこさんの世界観
 
私が影響を受けた人ですか。たくさんいらっしゃいますが、少女漫画家のくらもちふさこ先生の作品には大変影響を受けていますね。『天然コケッコー』という漫画の映画化で脚色をさせていただいたのですが、舞台が島根の田舎町で、おばあちゃんから赤ちゃんまでいろんな人が出てくる淡々とした日常の物語、だけど凄まじいんです。人や町のことだけじゃなく、時間とか空間とか全ての要素がとんでもなく立体的で、それぞれの距離感や関係性、世界ってこうだよなっていうところが、正確に的確に配置されている。小さな集落の、だけどたしかに世界の一部が、驚くべき解像度で転写され、動かされている。神が描いてる漫画なのかなって、本当に感動するんです。
 
今も書きながら迷った時に、くらもち先生の作品を読み返すことがあります。作劇をしていると、つい展開を先に進めることが優先され、無駄なことやリスクは切り捨てさせられることも多い。最初から不必要だと分かっていてもあえて一旦は書いておいて、後で削るようなこともよくします。無駄な作業のようですが、立体的に世界を作るためには、細部の解像度をなるべく上げておいた方が絶対にいい。それはくらもち作品から学んだことだと思います。
 
「エルピス ―希望、あるいは災いー」の中では、村井さんというパワハラセクハラ上司が出てくるんですが、このパワハラとセクハラ描写には様々なリスクがありました。でも、これは絶対に必要だとわがままを言って残させてもらいました。世界は色々なもののバランスで成り立っており、そこを削ると本当に描いたことにならないと思ったんです。もちろん描きたいのはパワハラとセクハラそのものではないんですが、そういう嫌なもの、不都合なものもある世界、人間関係のなかでこそ、それでも美しいものや尊いものはなにか、ということをなるべく精密に作りたかった。
 
脚本家の仕事の97%は観てもらうには、読んでもらうには、という商業的な理屈で動きます。基本的には商業ですから、そこと折り合っていくための妥協は必須なんです。それでも残り3%に、誰かの美しい志が息づいていたりもする。通じ合える人を見つけて、その人達と出せる最大出力を追求していくと、商業的に消費されるだけに終わらないものが作れるのではないかと信じています。
だけどそんな3%に賭けるような挑戦て、実はすごく面白かったりもするので、もっと皆さんにもして欲しいんですよね。
 
 
 
渡辺あやの太鼓判
 
まさに、今までの話にも出てきましたが「禅」です。
釈迦が説いたのは宗教というより哲学で「なにかを信じなさい」というより「世界ってこうなってるから、それをふまえて自分で考えて」みたいな感じなんですよね。ただそんなこと言われたって、なかなか私たち凡人の意識では理解できないものだから、そこをなんとか理解できるように弟子たちがいろいろと工夫してくれたことが、たくさんの宗派として残ってきている、その一つが「禅」なんだと思います。
 
 
 
 
禅の教義が面白くて「不立文字」いうんですが、つまり「言葉じゃわかんないからね」って。教義なのに言葉をあきらめろって、すごいですよね。でも、たしかにそれは私も茶道を通じて感じてることでもあります。悟るっていうことも、すごい修行の末にたどり着く人もいれば、全然頑張らずに急にたどり着く人もいたりするらしくて、一筋縄じゃいかないっぽいんです。知れば知るほど「物事ってこうなはず」っていう小学校くらいから身につけてきた常識が骨抜きにされていく感じがあって、禅はいつもちょっと怖いんだけど、なんというかカッコいいんですよね。アインシュタインは「現代科学に欠けているものを埋めてくれるのがあるとすれば、それは仏教である」と言ったそうです。
 
なるべく世界を柔軟に見つめていけたらなあと思っています。いかに自分の中の長い時間をかけて作ってしまった概念や先入観をはずして、純粋な体感から物事を知っていけるかが大事だと、最近読む本すべてに言われている気がして。現代科学の最先端は、私たちの固定観念からずっと離れたところにあるみたいです。だけど同時にそれは仏教のみならず昔から言われているようなことが、最新の研究結果で「やっぱりこうなんだね」って分かってきただけだったりもするそうで。昔の人や、ぼおっと空を見ていた子供の頃の自分の方こそ真理をわかっていたのかもしれないけど、もしかしたら今からだって私たちも、心がけ次第で理解できていくのかもしれない。
 
 
 
 
これまでもこれからも、ずっと脚本を通して書きたいことを一言で言うとしたら「調和」なんです。登場人物が全員ありのままの姿で、愛し合っていても憎み合っていても、あるいはお互いを認識さえしていなくても、ただそこにいるだけでふと「調和」が訪れる瞬間があるんです。本当は「調和」っていう言葉が表現としてベストかどうかわからないんですが、なんというか全ての要素が正しい位置に収まって、物語に命を与えてくれるようなことが起こる。それもやっぱりずっと書いていて、まったく意図してない瞬間にふっとやってきたりします。物語的なクライマックスに起こるとは限らなくて、全然地味なシーンに起こったりもするので、これは私にしか分かってないだろうなあと思ってると、なぜか観た人の心にちゃんと残っていたりもするんですよね。創作ってとても神秘的で、やっぱりなによりも面白いものだなって思います。
 
 
 
【プロフィール】
渡辺あや(わたなべあや)
1970年生まれ。島根県在住。脚本家。 脚本家。 映画『ジョゼと虎と魚たち』『メゾン・ド・ヒミコ』『天然コケッコー』『逆光』『ABYSSアビス』ドラマ「カーネーション」「ワンダーウォール」「エルピスー希望、あるいは災いー」など多くの作品を手がける。
 

構成_広島 蔦屋書店 文学コンシェルジュ 江藤宏樹
 

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