include file not found:TS_style_custom.html

【RE:HIROSHIMA インタビュー】竹井奎子 宮島伝統の民芸品、宮島土鈴を守り続ける

 
宮島の民芸品としておみやげ物の定番となっている、宮島土鈴(どれい)。実は現在の作り手はおばあちゃんがおひとりなのをご存知でしょうか。宮島で100年続く越智陶芸で、いまでも土鈴をひとりで作り、その文化を守っている竹井奎子さんにお話を聞いた。
 
 
 
土鈴(どれい)作りを始めたのは
 
私は3代目なんですよ。この仕事を始めたきっかけ言うても家業の跡継ぎでしたからね。祖父が創業して、父が後を継いで、その次が私です。
いつやり始めたのかと言われても、ずっとやっていたという感じじゃねえ。生まれた頃から手伝いをしていましたから。もう、家の仕事だからやっていたんですよ。その頃はね、子どもですから、型も小さいものを使って手伝いをしよったんですよ。だからね、いつから始めたという記憶は無いんですよ。
本当はね、私は4人姉妹で女ばっかりじゃったんですけど、末っ子が後を継ぐいうとって、美術の大学にも行ってたんですよ。だから私は後を継ぐつもりはなかったんですよ。それで結婚して宮島からは一旦出とったんですよね。
 
 
 
 
 
 
伝統文化の後を継ぐ
 
でもね、わからんもんですよ。末っ子がね、美術の学校行って、後を継ぐっていいよったのに、卒業したら東京に行ってしもうてね、結婚したんですよ。そいで一緒にかえってくるんかなと思うとったら帰ってこんかったんですよ。その間にね、父親が調子を悪くしてね、無理できんようになって。それで、私の夫が広島に務めていたので手伝うよと言ってくれて、私は宮島に帰ってきたんですよ。夫は宮島から広島に仕事に通ってくれてね。それで手伝い始めたんが、30歳ぐらいのときだったんですよ。だからね、手伝っていたのは小さい頃からじゃったけど、仕事として始めたんは30歳のときでしたね。
 
 
それでもね、最初は東京に出とるふたりが帰ってきたらいいなと思いながらね。腰掛けのつもりでやっていたんですよ。はよ帰ってこんかなって思いながら。でもね、その間に子どもも3人できてから、仕事しながら、家事しながら、子育てしながら、だったから、そりゃあ大変でしたよ。
その頃はね。母も一緒にやっていたので3人でやっておりました。職人さんも営業も人を雇ってやっていたんですよ。だからもっとたくさん作れよったんです。あの粘土をね、型で押して、そして干すじゃろう、昔は自在釜ゆうて灯油を使って焼きよったんじゃけど、今は電気でやっとるんですよ。焼いたのを色付けしてから、近所の奥さんとかにパートで来てもらって箱詰めとかしていたんよ。
 
 
 
 
 
今はぜーんぶひとりでやっとるんよ。
 
規模も小さくしたけえね、ひとりでやりよるけえたくさんは作れんのんよ。
両親も亡くなったし。ほんとはね、父が亡くなったら、辞めてもいいと思っとったんよ。でもね、辞めるゆうたら販売しとるお店の人が辞めんさんな、一旦辞めると、またやるのは大変だから、出来るところまでぼちぼち作ればいいじゃないかって言ってくれてね、ほんとみんな優しいんじゃね。それでやっとったらいつの間にか今になってしまったんよ。
じゃけえ、ひとりでやっとる今のほうが忙しいよ。私が60歳のときに父が亡くなったけえね。本格的にやり始めたのは60歳からじゃね。

 
 
それまでは、全部はやってなかったんよ。型は父が作りよったでしょ。でも作る人がおらんけえ、わたしが作らないといけない。型を釜で焼くのも父がやりよったから、今思えば前は呑気な働き方をしよったんよね。
でもね、やっぱりそれらをやっている父を見よったからね、やってみたらわたしもできたんよね。30年ぐらい見よったけえね。なんとかやれたんよ。火の調整なんかもねたいへんじゃけど、父がやっていたときにもね、わたしが調整しよったけえ、だいたいわかっとったんよね。父が亡くなったのが90歳じゃったけど、それからじゃね、本気でやるようになったのは。頼る人もおらんけえ、最初から最後までわたしひとりで出来るんよ。今は娘や息子も手伝ってくれているけどね。
 
 
土鈴はどこから始まったのか
 
 
宮島じゃないんですよ。この土鈴の元は。昔は写景花瓶だったんです。本焼きでつくって清水寺とかのお土産じゃったんですね。祖父が創業したときに作っとったのはそういうものじゃったんよ。宮島の卸問屋さんが宮島の杓子やらお盆やらを全国へ持っていって売るじゃろ、で、よその観光地に行くといろいろなお土産ものなど買ってきて、こげなんをここで作ってくれって言われたんよ。だからね、最初は宮島の商品よりもよその商品を作りよったんよね。太宰府や清水寺、出雲大社のお土産やら各地のお土産を作っとったんよね。
父の代までは両方作っとったよ。じゃけど、お土産の花瓶は値段も高いし作るのも手間がかかるんよ。それで、どんどん土鈴だけになったんです。
土鈴はね、本焼きじゃのうて素焼きなんです。
だから手間がそこまでかからんのよね、卸問屋さんが土鈴もよそから持って帰って来たからね、それでうちでも作ってくれといわれて作っていたんよ。じゃけえ、ルーツというのはね、宮島というよりはよそからのものなんよ。
一番最初に宮島の土鈴として作ったんは、鹿猿じゃね。鹿に猿が乗っている鈴を作ったんよ。宮島の木製品よりは割安じゃけえ、おみやげになるような安い値段で作れるんよね。
あの頃は、時代の流れで、円高やらプラスチック製品が入ってきたりしたんよね。そうなると、宮島独特のものを作らないとやっていけんようになるんよ。円高じゃけえ海外から安いもんがどんどん入ってくるけえね、同じものを作っておってもだめなんよ。父も困っとったんよね。
それで、宮島のものを作れば真似はできまいと思って、鹿猿を作ったんよね。鹿のお土産ものはもともとあったんよ、木製のものが江戸時代からあったし、焼き物もあった。でもね、土鈴で鹿を作ったのは父が最初なんよ。
鈴というのは、鳴らしてから厄除けとか、幸せを呼ぶとかあるでしょう。それで人気がでたけえね、土鈴の方に重きをおいて、宮島の民芸品として、今も作っとるんよね。祖父から数えると100年ぐらい経っとるけど、土鈴は80年ぐらいじゃね。
 
 
 

そして土鈴は宮島の民芸品になった
 
それでも安いもんが入ってくるでしょう。大変じゃったんよ。例えば、七福神を作ったんよね、縁起物じゃけえ、最初は売れたよね。でもしばらくしたら売れんようになって。お店を見るじゃろ、そしたら同じもんが外国で作ったんかね、安う売っとるんよ。もう、工場みたいなとこで作っとるんじゃろうね。そういった、円高で安いものが入ってくるとかいろんな波がようけあった。だから宮島独特のものを作らんとだめじゃ。それがわたしの頭の中にはまだあるんですよ。
七福神もそのまま作ったら値段の安いものに勝てんけえ、宮島の杓子に七福神を付けたものを作ったんよね。そうすればよそも真似せんけえ、値段の競争にも入らんでもいいからよかったんよね。よう売れました。
ほいじゃけど大変な時期もあったんよ。苦労もしました。でもね、今はひとりじゃけえ生産力もだいぶ落ちたけど、逆に注文は凄い増えとるんよ。コロナ以後じゃね、注文が増えたんは。コロナ以前も悪うはなかったんじゃけど、以後はますます増えてね、外国人のお客さんがふえたじゃろ、それで多くなったんじゃろうね。だけどね、コロナのときはぜんぜんお客さんがおらんかったんよ。収入がなくなるけえ大変だったんじゃけどね。それでも土鈴は腐るもんでもないじゃろ、じゃけえのんびり作っとったんじゃけど。後でね「しまった!」思うたんよね。あの時いっぱい作っとればよかった思うて。

 
 
でもね、コロナの時もね、海外から安いもんが入ってきた時もね、その時はわからんかったけど、今となってはね、ひとりでやっているからいつ辞めてもいいかと思いながらやっていたけえ、のんびり続けることができたんじゃろうね。あのような冬の時代にそのまま続けるのは大変だったんですよ。宮島にもね焼き物屋さんが3軒あって作ってたけど、やっぱり安いものが外国から入ってきたりして辞めてしまったんですよ。私はね、ひとりでのんびりやっていたから続いたんよ。
ほいでも、わたしが辞めてしもうたら宮島土鈴はなくなってしまうでしょ。息子が定年したら継いでくれると言ってくれるからそれまではね、教えんにゃいけんし、続けようとは思うとるんじゃけどね。

 
 
 
 
夫婦での仕事の日々
 
私の夫は60歳で定年を迎えてから手伝ってくれよったんです。でもね、作業は全然できんのんですよ。私のほうが上手かった。じゃけど帳簿とか営業とかは得意だったからそっちをしてもらったんよね。もともと営業マンじゃったからね。その頃の10年ぐらいは楽だったですよ。作る方に集中できたけえね。
今はひとりで注文に追われていますけど、この先どうなるかねえ。息子が後を継いだとしても一人前になるまでどのぐらいかかるかね、もしかしたらわたしもおらんようになっとるかもしれませんけえね。まあ、人生は思うようになりませんが、なんとなくやっているとうまくいくかもしれませんね。なんでも計画通りにはいきませんよ。
 
 
 
 
 
 
宮島の人たちとの繋がり
 
私ももう元気ではないんですよ。物忘れはするしね、歩きよってもつまずきそうになるし、でも仕事しているのはボケ防止にもなると思ってますよ。
だいぶ物忘れも多くなってきていて、注文なんか聞いてもね、私はパソコンなんてよう使わんですけえ家の電話で注文を受けるんですけどね、前は、はいはいって電話で聞いておいてそこで覚えとったんですけどね、今はわかりませんよ。じゃけえ今は書くようにしています。10年前ぐらいは聞いとけばわかったけど。今は、書いてもね何回も見直さんとわからんのんですよ。あんたがそんなに作らんでも、うちのお土産屋が潰れるゆうことはないんじゃけ無理せんでええんよって、怒っちゃいないし、逆に慰めてくれるんよ。
島の人はいい人ばっかりですよ。もう祖父の代から100年も付き合っているお店もあります。わたしは名刺も持っとらんしパソコンも使っとらん、スマホじゃなんじゃも無いし、家の電話だけでやっているんですよ。
だからね、お店に商品を届けに行って、その時に話をして注文を取ったり、お店の人の話を聞いたりもするんです。だからお店からアイデアを貰ったりするんよね、それで折り鶴なんかもね、最近作ってやと言われてね、でも私は折り鶴は宮島じゃ売れんじゃろうと言ったけど、作ってみたらこれが売れるんよね。
 
 
お店の人との会話で作ったもんとかけっこうあるんよ。さっき言った、杓子に七福神を付けたのも最初はね、額に付けとったんよね。そしたらよそが真似をして売れんようになった、そしたらお店の人が、それなら杓子に付けんさいよ、そしたら真似されんよと言われて作ったら今でもずっと売れとるけえね。
 
 
 
宮島という故郷
 
宮島はね、人がいいね、疑うゆうことがない。私らは信頼関係があるけえ安心しとるよ。ここで生まれて育ったから地元の人を知っとるけえ安心よ。
滝宮神社から二重の塔(多宝塔)を見て大元を通って町に出るじゃろ、そして御笠浜を歩いて帰るんよ。それが配達というか営業のルートなんじゃけど、御笠浜でゆっくり座って海を見たりするんよ。宮島の自然が大好きなんよね、何年見ていても飽きんです。
 

若い頃からね宮島の中を歩き回っとったんよ、仲間もいて車で植物園なんかにも行ったりね、私は自然が好きじゃけえ。宮島は人もいいしね、自然もいいし、安心できるじゃろ。住めば都ですよ、落ち着きます。
わたしはほとんど宮島から出とらんからね、若い頃に宮島を出ていたのは2年ぐらいです。今は病院に行くときぐらいじゃね。ほいで病院に行くときにね、広島市内のほうまでちょっと行って美術館とか行ったりするんよ。ひとりでみるのが好きでね。ひとりじゃけえ引き返してみたりとかゆっくり見たりとかできるでしょ。わたしは美術を勉強しとらんからね、いまだに劣等感があるんよね、昔は焼き物の産地をまわったりもしていたんよ、これもなんかの糧になっているとは思いますよ。
宮島も歩いているとああこんなものを作ってみたいなとか思うんよね、御笠浜にね座って海を見ているとだんだん満ち潮になって海の模様がね、わたしが土鈴に描いている海の模様といっしょじゃわとか思ったりね。鳥が飛んできてね、しらさぎなんかが干潟を歩いとるでしょ、これを見たからこう、ということもないですけど、これもなにかの糧になっとると思うよ。作るもんに宮島らしさがでとるんじゃない。
 
 
 
まだこれからも新しいものを作りたいんです
 
平家の紋を使った土鈴もあるんですけどね、最初は裏に源氏の紋を入れていたんですよ。でもね、平家と源氏を裏表じゃよくないと思って、裏をね宮島のデザインにしよう思うたんですけどね、土鈴の丸い中にどう収めるかのデザインが決まらんでね、2、3年考えていたんですけどね、ロープウェイに乗ってね、頂上でお茶を飲みながらぼーっと考えていたらポコっとこの、神社を入れ込んだデザインが出てきたんですよ。
いつもね、お正月にはロープウェイに乗って登るんですよ。その時期にはね、玉水木(たまみずき)の赤い実がびっしり見えてねその上をロープウェイが上がるから、いつも見ててね、あれも土鈴にしたいなと思ってるんですけどね、10年ぐらいでてこんですね。でもこれもいつかポコっとでてくるんかもしれんですね。よそのひとが宮島のものを作ってもなかなかそういうところまでは作れないと思うんですよ、じゃから住んでる人ならではの強みがあると思っとります。長いこと宮島で過ごしてそういうのがあるから、まだまだ作りたいものはあるんですよ。
 
 
 
わたしの作る土鈴は顔が優しいと言われるんですよ
 
なんかね、父を知っている人はあんたが作り始めたらなんかみんな優しい顔になってきたよって言われるんですよ。わたしがやさしいんかね。(笑)
父が作っていたときは私は触らんかったんですけどね、わたしが作るようになってからは優しくなったって、ヘビなんかもね顔が優しいって。男性が作ったのと女性が作ったのと違うんかもしれんね。
鈴はね丸いほど良い音がするんですよ。だからもともと丸っこくて可愛い形になるんよ。鈴の中にいれる玉は粘土を丸めてつくるんじゃけど、時々入れ忘れたりするんよ、それは売り物にならんけどね。型に粘土を詰めてね、中を空洞にしておくんよね、だいたい5ミリぐらいの厚さにして型を合わせるんじゃけどね、その合わせたときの継ぎ目もきれいに消すんですよ。最初にヘラできれいにした後は、水を付けて指で消すんですよ。じゃけえね、わたしのゆびには指紋が無くなっとるでしょ。
それから乾かして焼いて色付けをしてニスを塗って完成です。
冬なんかは手が荒れるんですよ。粘土がつくでしょう。それでしょっちゅう手を洗うからあかぎれができてねえ。
 
 

 
 
 
新しい民芸品としての土鈴
 
商工会議所の方で話をしたんじゃけど、スペインのデザイナーがデザインしたものもあるんですよ。デザイナーの人が見に来てね、どんなものが作りたいか聞いてきたけえ、わたしのアイデアを言ったんですよ。そしたらええデザインをしてくれてね。でもね、これを商品にして発売しようと思ってるんですけど、なかなか忙しゅうてできんのですよ。デザインは出来ているんですけどね。これを工夫してたくさん作れるようにしようと思っていて、でもなかなか時間が無くてね、いま注文が多いでしょ。はやく出したいんですけどね。
私も88歳になりましたけどまだまだ作りたいもんはたくさんあるんですよ。むすめもボケちゃいけんけえ仕事はぼちぼちでもいいけど続けんさいって言うてくれて配達とか手伝ってくれてますけえね。
今日はこがいなお話を聞いてくれてありがとうございました。
 
 
 
 
【プロフィール】
竹井奎子(たけいけいこ)
1912年 祖父 越智藤市が越智陶芸を創業
1937年生まれ。現在は越智陶芸三代目としてひとりで製作のすべてを行っている
 
越智陶芸(おちとうげい)
宮島の民芸品である宮島土鈴(みやじまどれい)を製作している。土鈴を専門に製作しているが、代表的な鹿に猿が座っているモチーフをはじめ数多くの種類がある。
現在は三代目の竹井奎子さんが、ひとりですべてを手作業で作っている。型を作るところから、色つけまですべて手作業になるので、すべての作品は、全く同じものがない。カラコロとなる土鈴の音は、悪いものを払い、幸福や繁栄をもたらすとされている。
 

構成_広島 蔦屋書店 文学コンシェルジュ 江藤宏樹
撮影場所_広島県廿日市市宮島町
 

SHARE

一覧に戻る