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【RE:HIROSHIMA インタビュー】西崎智子 フィルム・コミッションの仕事を通して、新しい広島を私自身も知り、世界の人たちにも知ってもらう。それが私のRE:HIROSHIMAです。

 
アカデミー賞で国際長編映画賞を受賞し、日本でも大ヒットした映画「ドライブ・マイ・カー」の撮影を広島に誘致した、広島フィルム・コミッションの西崎智子さんに、広島フィルム・コミッションのこと、映画のこと、広島の魅力などについてお話を聞いた。
 
 
広島フィルム・コミッションとは
 
今日はどうもよろしくお願いします。
広島フィルム・コミッションとは何をしているところかを簡単に説明しますと、広島で映画を撮影してもらうために誘致をして、その撮影を支援するという活動をしています。
ただ、実際にすることは多岐にわたっていまして。誘致に成功して、撮影に来てくださったら、ロケ地の候補を提案したり、ロケの許可を取ったり、ロケに立ち会って、撮影のサポート支援なども行います。その他にも、映画というのはより多くの人が見てこそ、その力を発揮するものだと思っていますので、たくさんの皆様に見ていただけるようにキャンペーンなども行っています。パネル展などを企画して実施したりもしているんですよ。
「この世界の片隅に」のプロモーションのときには、監督書き下ろしのロケ地マップを作ったりもしました。映画を宣伝するためのプロモーション活動も大事な仕事なのですが、いくつもの映画が同時進行で動いているときもあるので、誘致活動やプロモーション活動やロケ地支援などが重なってすごく忙しくなってしまうこともあります。
例えば、「ドライブ・マイ・カー」をやっているときに「孤狼の血 LEVEL2」も同時に進行していました。「孤狼の血 LEVEL2」終わりで「ドライブ・マイ・カー」というふうに、撮影自体はずれていたんですけど、準備をしないといけないので、「孤狼の血 LEVEL2」の撮影中に次の準備もしているという感じでしたね。
 

 
 
エキストラさんの手配なども大変なんです
 
「孤狼の血」の撮影は照明にとても凝っていて、カメラ位置を変えるたびに時間をかけて、照明のセッティングも直していました。広島フィルム・コミッションでは、エキストラさんの手配をすることも多いのですが、そのように映画撮影というのは時間がかかるものなので、待ち時間が非常に多いんですよね。エキストラさんも実際の撮影の時間よりも待っていただく時間のほうが遥かに多くなります。
エキストラさんの手配とはまたちょっと違った話ですが「ドライブ・マイ・カー」の撮影にはワンちゃんがたくさん出てくるんですよね。印象的なシーンなんですけど、中工場の海側の芝生でフリスビー犬がいるシーンがあるんですよ。あのフリスビー犬が、撮影の2~3日前ぐらいまで見つからなくって、日本フリスビードッグ協会に連絡をして、広島にいないでしょうかと問い合わせをしたんです。そしたら、ちょうどこの前のチャンピオン犬が広島にいるということで紹介をしていただいて、その飼い主さんとのスケジュールが合ったからなんとか撮影が出来たんですけど、ギリギリでした。
他にも、準備中にはまだ産まれていない赤ちゃんを探さないといけない、なんてこともあるんですよ。撮影日に生後5日目の赤ちゃんが出演するんですけど、1ヶ月前からエキストラさんとして準備しておくことは出来ないですよね。
だから、その時は出生届けをだす区役所とかにご協力をいただいて、映画撮影のために出演者として赤ちゃんを募集しています、というチラシを配ったりとかしました。でもその時は、ちょうどロケをしていた産院の妊婦さんがご出産されてちょうど5日目ぐらいになるというのがわかりまして、なんとかご協力をいただいて、無事撮影することができました。
そんなふうに、仕事は本当にたくさんあって、言ってみれば映画の中に写っているもののほとんどすべてを手配しないといけないんですよ。
 

 
 
 
撮影時にも大変なことはいくらでもあります
 
先ほど映画の中に写っているものをほとんどすべて手配するといいましたけど、写ってはいけないものもあったりするんですよね。
ロングショットで撮影する時などは、画面にいろいろなものが入りますよね。そのような時には、余計なものが写り込まないように隠したりもするんですよ。一番隠すのは自動販売機ですね。手作業ですだれをかけるとかして映らないようにします。CGで消すという手もあるのですが、それをするとそこにお金がかかってしまうので、大きな予算がある映画でないと難しいんですね。小さな映画ではそんなにお金が使えないので、私たちが頑張って隠したりしています。そのようなことも含め、監督さんがあれがやりたい、これがやりたい、などいろいろなご要望が出てきて、それらをみんな私が聞くようになるんですよ。
あと、私は基本的には私が手配した場所での撮影は、現場で立ち会いをするようにしています。というのは、私は映画の為にロケ地の手配をしますけど、それだけではなくて、そのロケ地、その町を守るためにも現場に立っているんです。ここは触らないでください、とかここではこのようなことはしないでください、ということは事前に説明をします。しかし、それが守られなかったときなどは、私だけでもそこで撮影中止と言わなければならない。地域に迷惑をかけることは私がもっとも避けたいことなので、そのために現場に立っています。
「孤狼の血」の撮影の時には、飲み屋街でのロケがあったのですが、役所広司さん松坂桃李さんがいるわけでしょう。それでギャラリーが膨れ上がってしまって、お店にものすごい迷惑がかかっちゃって、撮影中断になったりすごく大変だったんですよ。
警察に許可は取っているんですけど、邪魔になっているとか通報があるとどうしても警察も来ないといけないというのもありまして、撮影を中断して対応したりとか、映画のロケというのは、立ち会っている私は謝ってばかりです。ただ、公の場所でないところ、例えば撮影のためにお借りしたホテルの中とかは、ホテルのスタッフにお任せすることもあるんですけどね。
ホテルと言えば「ドライブ・マイ・カー」でも協力してもらったのですが、宇品のプリンスホテルさんは、映画の撮影に対してすごく協力的で、理解もしてくださっているので私たちもやりやすくて使わせてもらうことが多いです。河瀨直美監督の「朝が来る」でも撮影させてもらったり、撮影が無かったりしても、俳優さんのお泊りがプリンスさんだったり、ということもよくあります。
 
 
 
誘致活動ではどんなことをしているか
 
誘致活動では、海外にいって広島を売り込むという営業に年1回でも行けたらいいという感じでやっていました。お金がかかりますからね。
海外で、ロケ地の売り込みのトレードショーっていうのがあるんですよ。
トレードショーというのは、世界のフィルムコミッションさんがたくさん出展していて、それぞれ自分のところはこんなだよとか、自分のとこで撮影をするとこんないいことがあるよとか、アピールをする場所ですね。
そこに広島フィルム・コミッションのブースを出して、来てくれた方と商談するとか、アポを取って企画を持っていそうな人のところに行って話を聞くなどしています。
あとはフィルムコミッションの日本とアジア、国際のネットワークに入っていて、そのネットワークの為に色々と活動をしているんですよ。そうすると、例えばロサンゼルスのトレードショーなんですけど、そのアジアのネットワークのブースに行ってくれないかと言って航空券をくれたりするんですよね。それで行かせてもらって、そのブースで話をしたり、自分が会いたい人にアポを取ったりしてお話したりしています。
 
 

あと、トレードショーでは映画の売り買いをしている部門とかもあるんです。そんな中で、いろいろなセミナーも行われるんですね。著名なプロデューサーとか監督さんとかが登壇されるので、聞きに行って、ステージから下りてきたらダッシュしてそこで売り込みをしたりもしていました。そのときに、一度プロデューサーさんに広島から来ましたということを言うと、広島といったら知り合いの監督がどうのこうのとか言っていたので、しつこく追いかけて撮影に来てもらったこともあります。そこから繋がることってあるんですよね。
映画祭も監督に会うチャンスなので、海外の映画祭にも行くことがあります。河瀨直美監督が広島で映画を撮影したのも映画祭がきっかけです。メキシコの映画祭に行ったときに、メインのゲストのひとりが河瀨直美監督で、まる二日ぐらい一緒にいたんですね、それがきっかけで誘致出来たんです。
イランの映画祭に来てくれと言われて行ったこともあります。そのときに映画祭のなかで、平和賞の授賞式がありました。そこで賞をもらうような監督はきっと広島と親和性があるだろうと思って、広島の映画祭にお呼びして、そのときに広島市民と交流してもらったりとかして、映画を撮ってもらうことができました。その映画はベルリンでドキュメンタリー賞も取ったんですよ。やはり広島という土地は、ドキュメンタリーと、エンターテイメントと、両輪で伝えるべき事があると思っています。
 
 
 
広島フィルム・コミッション立ち上げ時の苦労
 
私は広島フィルム・コミッションの立ち上げから関わっています。
日本で初めてフィルムコミッションが出来たのが2000年なんです。大阪で出来ました。それから各都市に広がっていきました。その頃に広島も出来たんです。今はジャパン・フィルムコミッションに加入しているのが130あって、他にもフィルムコミッションと名乗っているのは、日本だけで300あるんですよ。広島県内にも、広島・尾道含め6フィルムコミッションあります。
広島フィルム・コミッションを立ち上げたときにまず考えたのは、何をもって売り込むか、町をどう売り込むかということでした。私が最初考えたのは、広島には川が市街地に6本流れている、そして海も近い、という「水の都」というアピールポイントです。ですから最初に作ったパンフレットも「水の都ひろしま」というタイトルにしました。最初は、パンフレットもHPも何から何まで私が作っていました。他に誰もいなかったので、パンフレットの写真に必要なもので不足があれば自分で撮りに行ったりしました。とにかく、何をしたらいいのかというのが、誰もわからなかったんですよ。映画というものがどういうものなのかということすら最初は手探りでわかリませんでした。
 
 
 
 
コンベンションビューローの仕事
 
私は、広島フィルム・コミッションが出来る前には、コンベンションビューローの仕事をしていました。国際会議とか、展示会などを広島に誘致して開催の支援をする仕事のなかで、会議をどこでするか決める人をキーパーソンというのですが、その方が海外から来たときに、広島を案内するというのをやっていたんです。
だから、映画を誘致するということと近いことはしていたんですよね。
会場となるホールだけでなく、広島の魅力を伝えるんです。チンチン電車が走っていることや町のこととか話すんですよ。その時に、ヨーロッパから来た人たちが、「ヒロシマモナムール」のあの広島に来れたんだ!って言うんですよ。なんですか?それ?って聞くと、自分の青春の映画だよって言われるんです。それで私も調べてみたのですが、1958年に広島で撮影された白黒の映画で、当時の広島の傷跡もびっしりと入ったとても重いテーマの作品です。にもかかわらず、半世紀も前の映画の舞台に来て感動される方を見て、映画の力って本当にすごいんだなって。そしてフィルム・コミッションの仕事で映画を切り口に広島を売り込んでいきたいと考えました。
でも、広島の人はあまり知らないですよね。実は日本では全然受けなかったらしく、東京でも1週間で打ち切りになっていたらしいです。ですが、私がいまお会いする映画人はほぼ100%知っておられますね。「ドライブ・マイ・カー」の濱口竜介監督も知っていらっしゃいました。
 
 
 
ヒロシマモナムールの思い出
 
実は、その映画に出られているエマニュエル・リヴァさんが、2008年に広島に来られた時に、広島の復興ぶりに感動してくださって、すごい喜んでくださいました。あの当時の傷跡だらけの広島を見ているので、ずっと気になっていたと言われた時には、もう涙が止まらなかったです。そんなふうに50年も気にしてくださっていたというのは本当にすごいことだなと思いました。
 
 
 

広島でフィルム・コミッションをするということ
 
私の出身は香川県なのですが、家族の都合で広島に住むようになりました。
それから広島のことを色々と知って、原爆のことなども知りました。
広島を離れて、東京で8月6日を迎えた事があったんですね。当然、平和式典を見ようと思ってテレビをつけたのですが、どこもやっていないんです。その時に、ああ、広島以外ではほぼやっていなかったんだ。と思ってショックを受けました。これはいかんと思いました。
そんなこともあって、原爆のことや広島のことを勉強しまして、ボランティアでガイドをしていたんですよ。いまでこそ、ボランティのガイドも組織化されていますが、私がやっていた頃はそんなものは無かったんです。でも、平和公園もやはりちょっとした説明があるとよりわかりやすくてぜんぜん違うんですよ。資料館なんかは展示物にも英語で説明があるので大丈夫なのですが、公園の案内はガイドがいたほうがいいですね。その頃にたくさん勉強してインプットしていたので、映画の誘致などでもいかされています。ですが、最近はアウトプットばかりでインプットが全然で、そろそろまた勉強しなくてはと思ってはいるのですが、なかなか忙しくて時間がとれないんですよね。
 
 
 
平和の軸線
 
「ドライブ・マイ・カー」の中にも出てくる話ですが、あの「平和の軸線」というお話。あれは丹下健三さんが平和公園を設計する時に、慰霊碑と原爆ドームを「平和の軸線」という直線で繋いだんですね。知っておられるかたもいらっしゃると思いますが、土谷総合病院の外壁にも白いラインがありますよね。それは実は、平和の軸線を表しているんですよ。電停も軸線のために動かしたり、広島の町そのものだと思うんですよ「平和の軸線」って。
さらにその軸線を海の方へずっと辿っていくと、中工場というゴミ処理場にぶつかるんですよね。この中工場の設計は、丹下健三さんの弟子にあたる谷口吉生さんなんですけど、やはり平和の軸線を意識されて、その軸線を切らないように中工場は設計されています。真ん中が抜けていて、海にまっすぐ抜けられるようになっているんですよ。
もともと「ドライブ・マイ・カー」は韓国の釜山で撮影の用意をされていたんですが、コロナで行けなくなったんですね。それで日本でロケ地を探さないとってなった時に、監督とプロデューサーが広島に来られたので、私がお会いしたんです。でも、その時には、濱口監督はですね「広島を撮るのは僕にはまだ早い」っておっしゃって。ご自身が広島のことをまだなにも知らないのにズカズカと入ってきてカメラを回すことにはためらいがあると。それで、これはちょっと誘致は無理かもなと思って、でも、楽しく帰ってもらいたいなと思い、私がすごく好きな中工場を案内したんですね。で、そこで「平和の軸線」についてお話をしたんですよ。そしたらみなさんが、その話にすごく驚かれて、ここをロケ地に使いたいってなったんですよ。
 
 

その時に、濱口監督がここを映画の中でドライバーをやっている美咲ちゃんの大切な場所にしようってプロデューサーと話をしていたんです。でもその時は私も台本も知らないし、何の話なのかなと思っていたんですよね。そしたら、映画に思いっきりその話が出てきて、びっくり仰天ですよ。
 
 
 
広島という土地で映画を撮るということ
 
普通は映画のロケハンとかって、この廊下は何メートルあって、ぴったりとか、そのような話が中心になってくるんですが「ドライブ・マイ・カー」のチームはとにかく、見えないところ、歴史とか町のコンセプトとかにすごく耳を傾けてくださって、広島という土地にあるストーリーを理解したうえで、様々なことを決めてくださったんです。
監督をはじめとするクリエイターさんたちは、なんかもう私みたいな事務の人間とは感性が全然違っていて、何を見ていてもそこから受け取っているものがちょっと違うんだと思います。何百倍も受け取っているというか、いろんな絵が浮かぶんでしょうね。だから広島にはいろいろな要素があるってことだと思います。
広島は、映画を誘致する際に、平和都市として強く打ち出すこともありますし、広島は水の都であるという観点から打ち出すときもあります。
もちろん、台本が送られてくることもありますから、相手の企画に合わせて打ち出し方をかえることもあります。
例えば、あの中工場ですが、あそこをごみ焼却場として撮らないパターンも多いんですよ。るろうに剣心の実写映画を撮られた大友啓史監督の「秘密 THE TOP SECRET」という映画では、近未来の秘密警察という設定で撮っていただいたりもしました。
「ドライブ・マイ・カー」の撮影の時は、場所は東京から始まって、広島に来て、それから北海道という順番で撮っていたんですけど、最後の撮影が、安公民館の駐車場だったんです。その広島の最終の撮影が終わった後、監督が号泣されていたんですよ。その後まだ、北海道ロケとかもあるのに、広島での撮影が終わってホッとされたと言うのがあったのだと思います。
話が変わりますが、役所広司さんは山本五十六を演じた「日本の一番長い日」という映画の時に、広島での撮影は無かったんですけど、広島で原爆慰霊碑に献花もしてくださったんですよ。あと、役所広司さんが「孤狼の血」の映画のなかで使っていたジッポーがあります。松坂桃李さんはそのジッポーを撮影が終わってから持ち帰ったと白石監督から聞いていたんですけど、実はいつもそれを持ち歩いていたらしいんですよ。次の映画のためにだと思うのですが。だから、日曜劇場の「この世界の片隅に」では、すずさんの優しいご主人を演じていらっしゃるんですけど、ポケットにはあの怖いジッポーが入っていました。やっぱり「孤狼の血」にはすごい意気込みをかけていたようで、LEVEL2も、ものすごい演技でしたよね。「孤狼の血」の警察署は県庁を使っています。あそこは雰囲気がよくて、私はすごい大好きなんですよ。いまは使えなくなっちゃいましたけど。いろいろ建て替えとかで昭和を感じさせる建物がどんどん減って来ているのは困るところもありますね。
やっぱりその場所の作られた年代と映画のシーンの年代とかって合っているほうが自然なので、そういった観点からも探したりするんですけど、それがどんどん難しくなってきています。
 
 
 
広島の昔と今
 
広島がどんどん変わっていくのはこの仕事をしていると特に感じます。特にロケ地として失ってしまうものはすごく多いですね。
私は広島駅横のあのごちゃごちゃしていたころの愛友市場がすごく好きだったんですよ。あの雰囲気が。あとは、鷹野橋商店街にも豆腐屋さんとかお肉屋さんとか八百屋さんがありましたよね。古いところが新しくなっていくことはいいことではあるのですが、私としてはちょっと残念というか寂しいところがありますね。でも、映画の中にそんな風景が残るというのはとてもいいことだと思っています。
 
 
 
 
RE:HIROSHIMAとは
 
広島は魅力が本当に沢山あると思っています。で、フィルム・コミッションって大きなお金を使って、箱物を作るような仕事ではないんです。町に今あるものを見つけて、それを映画人に届けて、それで映画人が気に入ってくれたら、そこで撮影していただく、これが仕事です。
今は映画の撮影地の聖地巡礼とかもありますよね。映画が撮られたことによってその場所の価値がさらに増していく。そんな循環を作りたいですね。
フィルム・コミッションとしてのRE:HIROSHIMAはそのようにして、広島の魅力を紹介して、届けて、映画にして、さらに魅力を増していく、そんな循環を作ってまわしていくことだと思っています。不思議なことなんですが、映画のなかで見る広島って普段見ている広島とはすごく違って見えますよね。すごくきれいに撮ってくださっていて、普段私たちが普通に見ている広島が、あ!こんなに良いところだったんだ、とか私でも思っちゃうときがありますよ。
 
 
 
おすすめの本
 
「ヒロシマモナムール」のエマニュエル・リヴァさんが撮った写真が収められている、『HIROSHIMA 1958』という本。これはヒロシマモナムールに主演された、リヴァさんが撮られた当時の広島の写真が収められています。とてもいい写真ばかりです。子どもたちの表情などもすごく良いんですね、自然で。これは私がとても大切にしている本です。
 
 
 
映画との絡みでいうとこの本ですかね。『聖林からヒロシマへ』
これは、原爆が落とされた後の10月に米国戦略爆撃調査団というのが、広島の惨状を撮影しに来るんですけど、その中のカメラマンのひとりがハリウッドにいた日本人でした。しかも広島の出身だったというのもあり、彼が撮った映像にはところどころに愛を感じるような箇所があるんですよ。それもあってすごく印象に残っています。
 
 
『サイレント・フォールアウト』というのは最近出た本なのですが、私たちは全員が被曝者だ、とデータとともに示している本なんですよ。それは比喩などではなく、日本人もアメリカ人もみんな本当に被曝していると。なぜかというと、一時期、海上や地上で水爆実験などされていたんですよね。あの時の死の灰は実は日本にもアメリカにも降り注いでいるという。そういう資料がいま出てきているんです。調べてみると子どもの乳歯に放射能が残っているらしいです。
自分たちで作った核兵器の実験で、自分たちが被曝していたということを知ることで、核を減らすことに繋がるのではないか、と頑張っているドキュメンタリー監督の書かれた本です。
 
広島の今を知ることと過去を知ることは私の仕事にはとても大事なことで、常に勉強しているんですけど、それによってまた違った広島が見えてきます。そして、その広島を映画人に撮ってもらって、それを世界の人に見てもらって、広島を知ってもらう。そしてそれによってまた広島の魅力がさらに増していくこと。それが私がやっていきたいこれからの仕事ですね。
 
 
 
 
【プロフィール】
西崎智子(にしざきともこ)
香川県出身。広島フィルム・コミッションで数々の映画の撮影を誘致・支援。主な支援作品に『父と暮せば』『夕凪の街 桜の国』『この世界の片隅に』、『ドライブ・マイ・カー』(第 94 回アカデミー賞 国際長編映画賞受賞)、『孤狼の血』シリーズ、『ミステリと言う勿れ』ほか、海外ドキュメンタリーの支援も多い。広島国際映画祭にはプログラミングを中心に携わり、本年17年目。
 
広島フィルム・コミッション
映画などの撮影の誘致・支援・活用を柱に、映画で街と人をつなぎ、広島の魅力を発信しています。

撮影_中野一行
構成_広島 蔦屋書店 文学コンシェルジュ 江藤宏樹
撮影場所_広島県広島市中区基町
 

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