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広島 蔦屋書店が選ぶ本 VOL.352『片手の郵便配達人』グードルン・パウゼヴァング 著 高田ゆみ子 訳/みすず書房

蔦屋書店・佐藤のオススメ『片手の郵便配達人』グードルン・パウゼヴァング 著 高田ゆみ子 訳/みすず書房
 
 
『片手の郵便配達人』は、今からおよそ80年前のドイツ戦時下の村を舞台とした小説です。
1928年生まれの著者グードルン・パウゼヴァングさんは、17歳で終戦を経験しました。その作家活動において、本書のような戦争を扱う作品を生み出すまでに数十年という長い年月を要したことについて、訳者の高田ゆみ子さんはあとがきの中で、戦争世代が自分の体験も含めて当時の一般市民の状況や証言を語り伝えるという作業の困難さに言及されています。本書はパウゼヴァングさんが戦後70年のなかで熟成させてきた思いを小説のかたちに結晶させたものだといいます。
 
作者と同世代である主人公の青年ヨハンは、第二次世界大戦の終盤に17歳の誕生日を迎え、その後すぐ軍に入隊しました。獅子奮迅の活躍をするつもりでいた彼は、間に合わせの訓練を受けただけで前線に送られ、その2日目に榴弾の破片で吹き飛ばされ左手を失います。左手を失くしたことで国から模範的義務を果たしたと認められ除隊になった彼は、召集される前に始めたばかりだった郵便配達の仕事に再び就くことができました。物語では、戦争が暗く濃い影を落とす故郷の村で働くヨハンの、郵便配達人としての日常とその胸に去来する思いが淡々と語られます。
 
大きな郵便鞄を抱え、自然豊かな七つの村を巡るルートを歩いて配達してまわる毎日。ヨハンは、顔を合わせる村人たちの様々な事情を知っていますし、彼らから信頼を寄せられています。ヨハンは子どもの時からなりたかった郵便配達人の仕事を愛しています。「郵便配達は人と接する仕事だ。手紙そのものよりも、手紙を受け取る人との関わりが大切なんだ」彼は友人に語ります。
 
戦時下の郵便配達の仕事は、精神的にも容易なものではありません。配達する郵便物の多くは、戦争に行った家族や恋人から届く便りであり、また村人たちからは毎日戦地に宛てて書いた手紙を託されます。そして、日を追うごとにだんだんと増えていく「黒い手紙」。それは従軍していた兵士が命を落としたことを知らせる死亡通知のことです。
 
登場人物の多い作品です。読んでいると、七つの村の行く先々で、ヨハンの接する人々ひとりひとりの姿が浮かび上がってくるように思えます。共通しているのは、みな戦地からの手紙を心待ちにしていること。ヨハンはどの村でも期待のこもった視線で迎えられます。彼は、手紙を受け取った人とは喜びを共にし、届かなかったと落ち込む人には励ましの言葉をかけます。ヨハンの姿を見て不安そうにしている人には、大丈夫だと言いながら手紙を渡します。優しく誠実なヨハンは、日々、人々が祈るように抱えている思いをできる限り丁寧に受けとめ寄り添うのです。
 
黒い手紙を手渡すことは、非常に難しい仕事ですが、ヨハンのふるまいは17歳とは思えないほどしっかりしています。黒い手紙のときは、相手を一人にして立ち去ることはせず、彼らがそれを読むのを見守り、必要ならしばらくその人が落ち着くまでそばにいます。長いあいだ常に心から離れることのなかった悲痛な不安が、現実のものとなって現れる恐ろしい瞬間に立ち会うこと。郵便配達人の職務としては定められていない範囲のことまで、ヨハンは自らの判断で引き受けます。
 
作者は、心が麻痺してしまいそうな戦時下に生きながら人としてまっとうであろうとするヨハンの姿を中心にして、人々の思いや、次第に戦線が迫り来る重苦しさを丹念に描いていきます。物語の中でたくさん出てくる登場人物の名前や村の地名を押さえながら読むのは少し大変かもしれませんが、ヨハンがかかわる人たちそれぞれの姿は、厳しい戦況に追い込まれたナチス政権下のドイツで暮らす国民のあいだに、様々な立場による考え方があったことを伝えるものでもあるでしょう。
 
また、助産師だった母の話や、ヨハンが制服の上から羽織ることにしているうわっぱりにまつわるエピソードなど、読み進めるうちに次第にその意味が多層的に明らかにされるような構成も見事で、作者の語りの巧みさに引き込まれます。
 
ドイツの戦況は日増しに追い詰められ、不穏な空気と緊張感が高まる中、やがて戦争は終わりを迎えます。村々にも混乱や別れが訪れ、ヨハンの身辺も大きく変化することになります。

最後、戦争を生き延びたヨハンは、自らの幸せを追って歩を踏み出し、そして、物語は突然全く思いもよらない展開を迎えて閉じられます。
この本が突きつけるものとは何なのか。重い問いかけが幾重にも響いてくるようで、読み終えた日私は眠ることができませんでした。

戦後80年を経た現在、第二次大戦を体験した世代の方のお話をうかがう機会はますます希少になりました。目撃者がいなくなる中、遺された証言をどのように語り継いでいくかということは重要な課題です。
グードルン・パウゼヴァングさんは2020年に92歳で亡くなられました。本書の巻末には「日本の皆さんへ」と題した彼女からのメッセージが載せられています。一人でも多くの方に読んでいただきたいと思う文章です。
 
 
 

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