include file not found:TS_style_custom.html

広島 蔦屋書店が選ぶ本 VOL.302『体はゆく できるを科学する〈テクノロジー×身体〉』伊藤 亜紗/ 文藝春秋

蔦屋書店・犬丸のオススメ『体はゆく できるを科学する〈テクノロジー×身体〉』伊藤 亜紗/ 文藝春秋
 
 
小さいころから運動が嫌いだった。逆上がりや自転車の練習など、とても苦労した。体育の授業でスイスイと逆上がりができる子を横目に、なんとかできるようにさせたい先生と「いや、もう無理よ」と思いながらも練習するわたし。先生に教えられたことを頭の中で繰り返す。肩幅より少し広めに鉄棒を握って、地面を思いっきり蹴り上げると同時に、鉄棒を胸に引き寄せ、頭は反るように後ろへ。…できない。みんながこんなに難しい体の動きを瞬時にやってのけていることは、謎でしかなかった。
 
だが、ある日突然できたのだ。
 
その瞬間は、言われたことを頭の中で反芻しながらではなく、体の方が勝手に実行し、できた後に「ああ、そういうことか」と意識がついてくる感覚。まさに「体はゆく」のタイトル通り、体が自覚できる意識を超えて、勝手に先へと行ってしまう。そして、その1回を過ぎると、大概何度でも「できる」ようになっている。
 
このような経験は、多かれ少なかれ誰でも記憶にあることだろう。このような体のふるまいを本書では「奔放さ」「ユルさ」とし、完全な意識の支配下にない体、言い換えれば、完全にコントロールできない体があるからこそ、できないことが「できる」ようになるのだと説いている。そのうえ、この「奔放さ」「ユルさ」は危なっかしいところもあり騙されやすいのだそう。だからこそ、「奔放さ」と「ユルさ」を持つ騙されやすい体に、テクノロジーを介入させ、「できる」ようにサポートさせることが可能だというのだ。
 
著者の伊藤亜紗さんといえば『どもる体』(医学書院)や『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)など、「できる」よりむしろ「できないこと」から生み出される可能性について書かれている。そのなかで、当事者の個人的な工夫や向き合い方について丁寧なフィールドワークをされていて、生身の体の不思議さや面白さを考えさせられることが多かった。本書では、現在進行形で研究が進められているテクノロジーの科学者やエンジニアとの対話を通し「できる」ようになる体について書かれている。人文社会系の本が好きな人だけではなく理工系が好きな人にも、ぜひ手に取ってほしい一冊なのだ。
 
例えば、第一章。ピアニストの手の甲側へエクソスケルトンという指が自動で動く外骨格を装着する。見た目は、SFアニメに出てくるメカのような感じ。それが指の動きを自動アシストする。プログラミングによって、様々なピアニストの指の動きを再現できるようだ。練習してもできないとき、意識は「できない」と思っているから「できる」イメージができず、体が実行できない。その体を「できない」意識から解放してやる。この場合、指の動きをテクノロジーが自動アシストというかたちで、体にまず「できる」をさせてやる。「できる」を実行している体を追うように、意識が「できる」を理解する。
 
体は常に完璧な意識のコントロール下にある状態にあると思いがちである。できなければ、体の使い方を考え、それに沿うように動かす。だが、体の方はもう解っている。「できる」をイメージできない意識のほうが体を縛り付けできなくさせているといえるのだろう。
確かに逆上がりも、繰り返し練習しているうちに体はもう解っていたのに、イメージできない意識の方が邪魔をしていたのかもしれない。あの最初にできた1回の時は、半ばやけくそで、なにも考えていなかった。体が「奔放さ」を持って意識をおいてけぼりにし、先へと行った瞬間だったのだろう。
 
さらに、体は意識下にあると思っているときでも、実は「奔放さ」と「ユルさ」を持って動いている。第2章では、「精密機械」と言われた元プロ野球投手の桑田真澄さんのピッチングフォームについて書かれている。コントロールが良いピッチャーは常に同じ揺るぎないピッチングフォームで投げていると思っていたが、桑田さんのフォームを計測すると驚くような結果が出ていた。そのうえ、意識を超えて、体が勝手にフォームを調整している。意識下にあるフォームと実際のフォームに驚くほどのズレがあるのだ。本当にここまで体ってやつは自由なのか?と疑いたくなる。
 
著者の伊藤さんもプロローグで触れているが、「できる」「できない」という言葉は、「できる=すぐれている」「できない=劣っている」という価値観的な判断と結びつきがちで、能力主義的な風潮を強化したり、マジョリティの基準をマイノリティに押し付ける危険をはらんでいる、と。だが、「思い通りにならない可能性」について書かれてきた伊藤さんならではの視点で、それぞれの個人的な体の「できる」に触れている。科学者やエンジニアも含め、それぞれの生身の体の存在を感じることができる。最先端のテクノロジーを題材としていて、かつ、とても人間味に溢れている。
 
「できる」ためにテクノロジーを利用することは、人間を機械化することではない。「できる」ようになりたいという思いを持つ、私という個人の可能性を助けてくれるパートナーとなりうるのだ。そして、思うように動いてくれないと悩むことは多いが、それが可能性を自ら狭めているのではないか。体の可能性を信じ、もっと自由にふるまわせてもいいかもと、思えるのだ。
 
 

SHARE

一覧に戻る