梅田 蔦屋書店のコンシェルジュたち 朴[人文]
私と本、私と梅田 蔦屋書店
最近、読んだことを忘れていた本に、もう一度出会う場面が増えました。何十年も前、きっと時間を忘れて読んでいたはずなのに、すっかり忘れている。そんな本をふたたび手にすると、不思議にそのときの記憶までもが鮮明に甦ります。カバンに忍ばせて歩いた街の残像、夜、ひとりで読む部屋の静寂、なぜか当時していたアルバイトのことまでも。私のなかにずっとその本が「いた」ことに気づかされます。
本には何度でも出会うことができる。それなりに年齢を重ねるにつれて、その思いが大きくなります。
いま紡がれている言葉や、かつて岩石や樹木に記された言葉。どんな言葉でも読まれることを待っているもの。そのために、「本」という言葉の束が生み出されたのだとしたら、「書店」という場所は時間や距離をぎゅっと凝縮した、言葉との「無限定の出会い」に満ちた場所だといえるのではないでしょうか。
言葉の束の群れに身を委ね、本を探す。はじめて出会う本と、いつか読んだ本が、あなたを待っている場所。私にとっても、お客様にとっても「梅田 蔦屋書店」がそんな場所であり続けて欲しい。著者様、出版社様、取次様にご協力を頂きながら、同僚たちと試行錯誤する毎日です。
梅田 蔦屋書店のこれから
真夏の冗談で、「いまこんなに暑かったら12月はどれだけ暑いのか?」というものがあったような気がしますが、最近の急激な気候変動で、それがまったくのフィクションとも思えなくなりました。SNSや人工知能の一般化も、言葉をめぐる社会状況や、私たちの考え方、振る舞いにとても大きな影響を与えています。10年後。ほんとうにどんな世界になっているのでしょう?紙の本は読まれているのでしょうか?
とはいえ、そんな中でも、ほっとする時間や、ひとりになりたい時間はきっとなくなりはしないはず。どんなに世界の光景が変わっても、ふだん使いの書店として、変わらない良いところと、柔らかく変化してゆくところをうまくブレンドした、「深呼吸のできる書店」になっていればいいですね。もちろん、誰かといっしょにわいわい訪れる「市場」としても、お客様の生活に欠かせない場所になってゆけば、とても嬉しいです。

梅田 蔦屋書店を代表する一冊
書籍名:『転職ばっかりうまくなる』
著者:ひらいめぐみ 出版社:百万年書房
著者:ひらいめぐみ 出版社:百万年書房
毎日一冊ずつ、大切そうに売れてゆく。気がつけば、棚から外せない本となっていました。著者のひらいさんが、ご自身の職業ヒストリーと転職経験を、率直にそして人間味あふれる筆致で綴った本書は、当店の若い世代のお客様を中心に「圧倒的な静けさ」で浸透してゆきました。本書を通して、お客様の「顔」まで見えてくるかのようです。なにより本書が「文芸」や「エッセイ」ではなく、「人文」の本棚にずっとあること自体、とても「梅田 蔦屋書店」らしいことだなぁと、あらためて思います。
2025年2月、ひらいさんをお招きしたトークイベントを企画したことも印象に残っています。参加者の方々とのフラットでシンパシーに満ちたやりとりや、文章とまったく変わらないひらいさんの飾らないお人柄がとても素敵でした。
私を代表する一冊
書籍名:『エチカ 倫理学』上下巻
著者:スピノザ 訳:畠中尚志 出版社:岩波書店
著者:スピノザ 訳:畠中尚志 出版社:岩波書店
17世紀、アムステルダムに生まれたユダヤ人の哲学者スピノザの主著です。スピノザはレンズ研磨を生業とし、教職に就くこともなく、『エチカ』が生前に出版されることもありませんでした。ベッドとデスクだけの質素な下宿に暮らし、44歳で亡くなっています。
『エチカ』は幾何学的な構成で書かれ、神、自然、身体、精神、自由などについて、一貫した内在的一元論、汎神論が展開されます。私も十分に理解できたわけではないのですが、特に魅了されたのは、必然性による決定論から帰結される無限の複数性、精神と身体の等価性などについてでした。ああ、世界はこんなに異なっていていいのだ、と腑に落ちたのです。
『エチカ』ほど、私が書き込みをして読んだ本は他にありません。当時、『エチカ』と他のスピノザの著作ばかり読んでいました。アルバイト先に持ってゆき、それこそ休憩中にも岩波文庫を開いていたくらいです。接客業だったのですが、お客様応対をした後に、「神」や「無限」、「精神の自由」などを読むものですから、もう頭と身体がぐらぐらして、たいへんでした。おそらくそのときに、私は一度、別の私として生まれ直していたのかもしれません(笑)
近年、あらたな翻訳や最新の研究動向を含む全集が刊行され、ますます高い解像度で読むことができるようになりました。哲学者の國分功一郎さんのベストセラー『中動態の世界』(新潮文庫)でも、スピノザが取り上げられています。『エチカ』とともにぜひ一度、お手にとってみてください。
コンシェルジュプロフィール
1978年京都生まれ。神戸、大阪育ち。洋書専門店、大学生協を経て、2019年より「梅田 蔦屋書店」に。人文コンシェルジュ。担当ジャンルは哲学、社会、歴史、心理学、科学など、なんでも屋さんです。フェミニズムと文化人類学に大きな関心を持っています。個人でフォトグラファー、映像制作者としても活動。店内でカメラをぶらさげた書店員をみかけたら、それはたぶん私です。









