広島 蔦屋書店が選ぶ本 VOL.60
【蔦屋書店・西林のオススメ 『坂の途中の家』角田光代・朝日文庫】
母親になり、涙もろくなったように思う。
子どもが犠牲になったニュースを目にすると、感情が一気に高ぶり、涙が出る。
それは加害者への糾弾の涙か、被害を受けた子どもの心情へ寄り添う涙なのか。
いろんな感情が、頭の中で行き交う。
最近世間を騒がせている、父親の虐待の末、幼い命を奪われた女の子の事件。
娘と年が近いこともあり、その女の子のことを考えると、胸が締め付けられる思いだった。
知らない第三者から受けたものではなく、子どもが最も慕い、愛する親から受けた暴力の果ての死。
そんな時に一冊の本を読んだ。
角田光代さんの「坂の途中の家」。
主人公は、夫と3歳になる娘と暮らす、専業主婦の里沙子。
突然、ある事件の補充裁判員になるところから物語は始まる。
30代女性の被告人、安藤水穂が水のたまった浴槽に、8カ月になる長女を落とした乳幼児の虐待死事件。それが、里沙子の担当する事件だったのだ。
当初は、水穂を自分とは遠い人間だと思っていた里沙子も、公判が進むにつれて、水穂に自分を重ねるようになる。
出ない母乳に執着した日々。
自分の子どもが他の子より、発達が遅れているのではと焦ったこと。
だめな母親だと烙印を押されるのを恐れ、義母や保健師の助言を拒否したこと。
実の母親との確執。
忘れていたのではない、封印していた記憶が、里沙子の脳裏に次々と甦ってくる。
里沙子と共に、私も長男が生まれたばかりの頃を思い出していた。
今まで普通にできていたことが、小さな存在がいることで、何もかも制限されるようになったと感じた。
泣き止まない子を寝付かせるのに、何時間もかかり、寝付いたと思ったら、すぐに起きてしまうを繰り返して、一日が過ぎていまい、一体自分は毎日何をやっているのだろうと呆然とすることもよくあった。
不安と閉塞感。
赤ちゃんは、紙オムツのCMのような毎日を連れてきてくれると思っていた、甘い考えの私にとって、現実は厳しかった。
証言台に立つ、被告人水穂の夫、義母、母親、友人、そして水穂。
それぞれの証言は、まるで一貫性がなく、様々な表情を持つ水穂を形作る。
たった一つの真実は、水穂が8カ月の娘を浴槽に落としたことだけ。
里沙子は公判途中から、育児に理解を示しているように周囲には思われている、水穂の夫が暴力や暴言でなく、日常のささいなことから、水穂を追い詰めていったのだと考えるようになる。
そして、自らの置かれている状況が全く同じであることも…。
夫の一見優しい言葉の裏にある悪意で、自分は傷つき、無能な女だと思わされていたのだと。
外からは決して見えることのない、家族の違う一面がそこにはある。
この罰は、はたして母親である水穂だけが受けるものなのだろうか。
子育てを経験された方は、里沙子に、そして水穂に、自分自身を投影されながら、読み進められることと思う。
他ならぬ私も、この本の内容が他人事ではない気がずっとしていた。
そして、あることを思い出していた。
下の子が、ようやく一歳になる頃、家庭の事情で、また働き始めた。
久しぶりの仕事。だが、長く働いている方が多い職場で、新参者の私はとても働きづらかった。
慣れない仕事と、家事育児で、あの時は今よりずっと若かったが、毎日頭痛がしていた。
仕事が休みの日ぐらい遊びに連れていこうと、映画を見に行った帰り道、息子が疲れたと、ぐずりはじめた。
ぐずり続ける息子に、私のイライラは、家に帰って頂点に達した。
何も考えられなかった。つないでいた手を、力の限りに振り払った。
勢いで、息子は床に強く叩きつけられた。
息子の鳴き声で、はっとした私は、大変なことをしてしまったと思い、
泣きながら実家の母に電話をかけた。
病院に連れて行けという母の助言に従って、いつも通っている小児科に急いで連れて行った。
それは、私を赤ちゃんのときから診てくださっていた先生がいた病院だった。
泣きじゃくる私に、大丈夫だよと優しく声をかけてくださった。
息子はもうすでに泣き止んでいて、ごめんねと泣き続けている私を、きょとんとして見ていたように記憶している。
その時に誓った。二度と子どもに手をあげるようなことはしないと。
でも、今もふとした時に思うのだ。あの時、もし打ち所が悪かったら、私は鬼のような母親だと言われていたのだろうかと。
児童書フロアに来店されるお母さんたちは、小さなお子さんがいらっしゃるとは考えられないくらい、皆さんとてもおしゃれで、きれいな方ばかりだ。
流行の洋服を着こなし、素敵にアクセサリーを身に付け、思わずじっと見入ってしまうような方が多い。雑誌には、モデルと見間違うような、お母さんたちの暮らしぶりが魅力いっぱいに描かれる。
母として、妻として、そして女としても輝いていなくてはいけない。
そして、それをSNSで発信し、皆の共感を得なくてはならない。
今の母親に求められる重責は、いかほどのものだろうか。
誰もが ただ、よい母親でいたいだけなのに。
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