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広島 蔦屋書店が選ぶ本 VOL.318『甘夏とオリオン』増山 実/KADOKAWA

蔦屋書店・犬丸のオススメ『甘夏とオリオン』増山 実/KADOKAWA
 
 
落語は好きですか?
わたしもそんなに詳しいほうではないのですが、年に数回、ごひいきの落語家さんのチケットが取れるといそいそと出かけていきます。腹を抱えて笑い、人情噺にほろりとしたりして、帰り道、なんだか暖かい気持ちになっていることに気づくのです。
 
今回、ご紹介するのは落語家さんの物語です。
主人公の北野恵美は、大学生の時にふらりと入った寄席で初めて生の落語を聴きます。最初、後ろの席に座っていたのですが、演目に聴き入り、高座が進むごとに前の席に移っていきます。気づけば一番前の席に座って夢中になっている恵美。
その日のオオトリは桂夏之助。その演目がこれまたよかった。腹を抱えて笑い、落語の滑稽な噺と、それを演じる噺家という仕事に惚れこんだのです。
 
大学を中退し、桂夏之助に弟子志願。女では難しいといわれながら落語家の世界へ飛び込みます。恵美は甘夏という芸名を夏之助師匠からもらい、兄弟子の小夏と若夏とともに稽古の毎日です。甘夏は良くも悪くも感情むき出しで、思ったことをズバズバと口に出してしまいます。特に三カ月しか入門が変わらない兄弟子の若夏には負けじと言い返したり、師匠に稽古をつけてもらっている最中にうまくいかず号泣してしまったり、若さならではの一所懸命さと未熟さが、とても愛おしくなるのです。
 
そんな中、夏之助師匠が失踪。突然、前触れもなく、ふらりと。思い当たる理由も、どこへ行ったかの見当もつきません。師匠失踪で、残された三人の弟子が落語とどう向き合い成長していくのかは、ぜひ本書を読んでいただきたいところです。
 
この物語には落語の演目がたくさん出てきます。甘夏がまだ恵美だったころ初めて聴いた夏之助の演目『宿替え』、泣き泣き稽古した『つる』、他にも『崇徳院』『鴻池の犬』『代書』『らくだ』などなど。落語をまったく知らなくても楽しめますが、ちょっと落語を聴いてみようかなという気分になりますし、聴いたあとで読み返すとさらにおもしろく読んでいただけることでしょう。
 
落語には、おっちょこちょいでしくじってしまう、けれど憎めない登場人物が出てきます。そして、そのどうしようもない憎めなさを笑いながら、自分の人生を重ねたりして、まあ明日からもなんとかなるかと思えたりもするのです。
本書の中の夏之助のことばです。
「落語というのはな、言うてみれば、人を笑う噺や。それは間違いない。けどな、それは、その人の存在を『否定』するということやない。逆や。むしろその存在を『肯定』する。『肯定』して笑う。それが落語や。もっとも、当の本人からしたら、『肯定』とか『否定』とか言われる筋合いでもない。それ自体はおかしな話なんやけど」
 
そうなのです。落語を聴いているとき、しくじってしまう登場人物に、うまくいかない自分自身を知らないうちに重ねてしまっているのです。まあ明日からもなんとかなるかと思えるのは、周りの人がそれに巻き込まれ困り顔をしながらでも知恵を授けてくれたり、手を貸してくれたりしながら、そのままの個性でなんとかやっていける落語の世界を聴くことができるからだと思うのです。落語の世界は、変わり者でもそのままを受け入れ、可笑しみをもって許しています。現実から、落語の世界にひとときでも身を置き、また現実へ戻ることで癒されることもあるのです。
 
落語では新作もありますが、伝統的な演目が数多くあります。なかには現代の社会観に合わないものも、やはりあります。落語家の工夫と力量がとても試されるところだと思います。甘夏も演目の登場人物に寄り添い、工夫を重ねます。伝統芸能には受け継ぐ「型」があります。ですが、その「型」を習得した先の工夫に、その演目を十八番とした落語家がいるのでしょう。
 
以前、ある独演会に行ったとき、前座の落語家さんの演目には、気の毒なくらい笑いが起きませんでした。普段はそんなことはないのでしょう。焦りからか、どんどん早口になり客席も目に入らない様子でした。そのあと、主役の落語家さんが始めたのは、前座の落語家さんの演目でした。客席も少しとまどって…。まったく同じ演目が続きます。ですが、まったく違うのです。笑いがどんどん大きくなって、途中からもう会場が揺れるくらいな大爆笑となりました。そこからうまく自身の演目に切り替わったのですが、笑いは止まることはなく大拍手で独演会は終了しました。前座の落語家さんは舞台袖で聴いていたのでしょう。主役の落語家さんの視線が数回、下手の舞台袖に流れました。
 
「これから噺家になろうとするやつは、宝や。大事に育てんとあかん。落語を残さんとあかんのや。それが落語の未来を作るんや。」
本書の中に出てくることばです。
その独演会はこのことばの通りでした。
自身が練習を重ね工夫してきたものを惜しげもなく身をもって若手に伝える、師匠の厳しさと優しさを、その時、垣間見たのです。

本書でも、寄席の場面が何度もあります。そのたびにしくじったり、笑いがとれたりと生で演じる緊張感が伝わってきます。
失踪した夏之助師匠を待ちながら、師匠を信じ、落語家として進んでいこうとする甘夏たち。寄席だけではないすべての経験が落語家としての器をつくり、噺に深みを与えるのでしょう。甘夏の声が聴きたくなります。成長した甘夏はどんな声で、どんな落語を聴かせてくれるのでしょう。
 
人は別れによって大切なものを手放していきながら、少しずつ成長していくのかもしれません。
 
 
 

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