広島 蔦屋書店が選ぶ本 VOL.168

蔦屋書店・中渡瀬のオススメ 『サンクチュアリ』 岩城けい/筑摩書房
 
 
この本を読んでから、体の奥の方が温かくなったように感じています。
3ヶ月くらい経ったのに、今もずっと。
 
岩城さんが紡ぐお話は、いつもアイデンティティについて深く考えさせられます。
だから、読まずにはいられないのです。
 
もう30年以上も前になります。
私がヨーロッパにいた頃の話ですが、デパートを出て何気なくコートのポケットに手を入れると、タグの付いたアクセサリーが入っていました。私はすぐに母に伝え、デパートに戻って、そのアクセサリーを返しました。
見覚えがないのだから戻す場所なんて分からなかったはず。
動揺しすぎて、何をどうしたか、そのあたりの記憶はありません。
何者かが、私を窃盗の媒介にしようとしたのか、罪を着せようとしたのか。
一体なんだったのでしょう。
 
時が経っても衝撃は薄れず、なぜ入れられたのが私だったのか、ということが引っかかっていました。
思えば、当時、日本人なんて全然いない、“外国の”田舎町でした。
また違う時、私だけかばんの中を見せるよう言われたことがありました。
荷物チェックを受けなかった周りのみんなは肌が白かった。
 
私は、あれは差別的な行為だったのだと捉えるようになりました。
被害妄想なのかもしれません。
でも、私は、他者から一方的に引かれる線の存在を知ってしまった。
相手から見た自分。自分と相手を隔てるもの。レッテル。境界。
国籍。文化。属性。色んなことを考えるようにもなりました。
 
今でも、思い出すと胸がキュッと苦しくなる出来事でした。
 
岩城さんの物語を読んでいると、そんな痛いところにそっと手を当ててもらったような気持ちになるのです。
 
だから、小説の中で語られる
 
「自分が慣れ親しんだものに愛着を持つのは人として自然なことだ。
 たとえ他の人にとっては、不自然極まりないものであっても」

 
「行ったことのないところには、行ってみるもんだ。そうすりゃ、自分がどこから来たの
 かわかるもんさ」

といった、境界線をそっと認識したり、ぼかしたりするような優しい言葉が染み込んできます。
 
『サンクチュアリ』の舞台はオーストラリアです。
移民としてイギリスとイタリアにそれぞれルーツを持つ夫婦、スティーブとルチア。
そして生粋のオージーとして育った息子たちが出てきます。
スティーブとルチアは、互いの習慣などが相容れず、わだかまりを抱え続けていました。
そしてさらに、ホストファミリーとして日本の女子留学生を迎え入れたことで、異文化間のギャップが改めて浮き彫りになり、それまでの不満が一気に大噴出。
物語は不穏な空気に包まれます。
 
岩城さんの小説に出てくる人たちは、いつもアイデンティティにまつわることで傷を負っている。
それは、すごくしんどいことだと思っていました。
私も、彼らの苦しみを解ったつもりでいたけれど、『サンクチュアリ』を読んで、もう少し奥深いところにたどり着けたような気がします。
 
スティーブと衝突しながらルチアが叫ぶのです。
「この国の人間になりたくて来たんじゃないわ!幸せになりたかったのよ!」
 
何者かではなく、一人の人間として根源的なもの。
 
違う価値観をぶつけ合って苦しむのを望んでいるわけではない。
みんな、幸せになりたくて必死なんですね。
 
幸せを追い求める姿は、とてもとても美しい、と思いました。
 
この小説には、そんなことに気付かされる言葉がたくさん詰まっています。
 
 
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