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広島 蔦屋書店が選ぶ本 VOL.323『時計つくりのジョニー』エドワード・アーディゾーニ あべきみこ 訳/こぐま社

蔦屋書店・佐藤のオススメ『時計つくりのジョニー』エドワード・アーディゾーニ あべきみこ 訳/こぐま社
 
 
エドワード・アーディゾーニ(1900 - 1979)は、近代絵本の歴史を語るうえで欠かせない人物とされるイギリスを代表する絵本作家です。挿絵画家・水彩画家としても知られ、数多くの作品を残しました。
今回ご紹介します『時計つくりのジョニー』は、アーディゾーニ60歳のときの作品です。日本で出版されたのは1998年。版元であるこぐま社の創業編集者・佐藤英和氏は、アーディゾーニ作品の世界的なコレクターとしても知られる方で、2015年には所有されている貴重な初版本や資料で展覧会が開催されたそうです。
佐藤氏が、並々ならぬ情熱で蒐集されたほどに魅せられたアーディゾーニの諸作品。その独特の絵とお話が織りなす世界に、私も不思議なほど心が引きつけられる気がします。
『時計つくりのジョニー』の主人公であるジョニーは、手先がたいへん器用な小さな男の子です。そんな彼が気に入っていつも読んでいるのが、ジェーンおばさんからいただいた『大時計のつくりかた』という本。ある日、ジョニーはこの本を読みながら、とつぜん「ぼくも、大時計をつくろう」と思い立ちます。
ところが、こんないいことを思いついたのに、ジョニーのお父さんもお母さんも、ジョニーが手先が器用な子どもだとは思っていません。ジョニーが何か作ろうとするといつも「ああ、あの子がまたばかなことをやっている」と、全く取り合おうとしないのでした。大時計なんてできっこないと周りの皆に言われるなかで、たった一人味方になり励ましてくれる友だちのスザンナに助けてもらいながら、ジョニーは大時計作りに挑戦します。一生懸命に取り組みますが次々と困難にぶつかるジョニー。果たして大時計は無事完成するのでしょうか?…

アーディゾーニの作品の特徴というと、たびたび画の中にさし込まれる風船型のフキダシや、あるいは、想像して描いたというよりも、まるで実在した光景をその場で手早くスケッチしたかのような、現実味を感じさせる場面の描き方などがあると思います。
児童文学研究の吉田新一氏の著作『絵本の魅力』(日本エディタースクール出版部)の中で、アーディゾーニの代表作である『チムとゆうかんなせんちょうさん』について読み解かれた素晴らしい論考を読みました。その中で吉田氏は彼の絵について、「…アーディゾーニは人物を描くとき、顔はあまり描きこまず、むしろ全身像─しかも、多くはうしろからの全身像─を描いて、そのポーズや動きから、その人の性格、身分、そのときの立場、感情、考えなどを表現しました。…」と解説されています。
『時計つくりのジョニー』においても、各場面で描かれる登場人物たちの姿、例えばジョニーの、自分で大時計を作るということを思い付き、ワクワクした気持ちでお母さんのもとに走って来たときの後ろ姿をとらえた様子、小さな肩がこころもち上がっているところや、握られたこぶし、半ズボンからのぞく細い脚の跳ね方など、全身像を構成する身体の各部分のありようといったものが、その場の情感を豊かに伝えているように思います。
またこの絵本のなかでとりわけ印象的な場面であろうと思うのが、大時計を完成させるために必要な部品が、読み手に向けて一つ一つ紹介するように挙げられていくくだりです。
ジョニーが自分の手で「白いボール紙をまるく切りとり数字を書いた文字盤」や、「はさみを使ってうすい錫はくから切り抜いた短針と長針」、それから、自分では作ることができないのでお店で買わなければならない「大きさの異なる三つの歯車」と「それを通す軸」、それに「おもり」と「くさり」と「ふりこ」。これらの各パーツが見開きに順番に並んで描かれるページは、さながらお話の途中にちょっとした設計図のようなものが紛れ込んだようで、子どもの好奇心をくすぐる実に楽しい趣向ではないかと思います。

ところで、ミルンの『クマのプーさん』や、ジャン・ド・ブリュノフ『ぞうのババール』など、多くの子どもの本の名作が、作者が自分の家族のために語った話がもとになっているように、『時計つくりのジョニー』も、表題に続くはじめのぺージに「まごのスザンナへ」という献辞が記されています。
これは作者アーディゾーニに愛された、スザンナという一人の女の子に向けて作られたおはなしである。それをふまえて読むと、そのこと抜きで読むのとはまた少し違って、この絵本の更なる一面としての、あたたかな親密さが顔を出すように思えます。
主人公ジョニーの友だち“スザンナ”が最初に登場する場面は、アーディゾーニがこのお話を、孫のスザンナの喜ぶ様子を思い描きながら作ったことが伝わってくるようです。
 
「…あーあ、先生が、おばかさんとか ちいさいとか、いわなければよかったのに。なぜって、あとで そとにでたとき、子どもたちが みんなして、おばかさんとか 小さいおちびちゃんとか いろいろわるくちをいって、ジョニーをいじめたからです。
ジョニーは すっかりかなしくなり、なみだがでてきました。
けれども、ひとり いじめっ子のなかまに はいらない女の子がいました。名前をスザンナといいました。
「なかないで、ジョニー」と スザンナはいいました。
「大時計、ぜったいできるわよ」
これをきくと、ジョニーは うれしい気もちになって、ぜったい つくってみせるぞと あらためて決心するのでした。…」

また同じように思って読むと、例えばお話のなかジョニーの両親が「あの子がまたばかなことをやっている」と言って、何度もお手伝いを言いつけるところも、「大人って、子どもが何かしようとすると、いつもこんな風に邪魔してくるよね。」「そうそう!ほんとにそうなの!」と、おじいちゃんと孫が二人で目配せし合っている、そんな場面に思えてきます。
そのようにこのお話は、子どもの目から見た世界を映したものであることは、とても大切なことであるように思います。
以前私が子どもの小学校の読み聞かせ活動に参加していた頃、クラスでこの絵本を読んだことがありました。最後まで読み終わったその時のことです。いつも読み聞かせを楽しみにしてくれている、ある活発な男の子が、突然その場にパッと立ち上がったかと思うと、続けてひとこと、まるで全身から絞り出すかのような口ぶりで、「…ジョニー、最強じゃあ!」と叫んだ大声が、教室中に響き渡りました。
60年も昔にイギリスで書かれた本が、はるか遠く現在の日本で暮らす子どもの心をとらえる様子が、とても愉快で、そして嬉しかった思い出です。
 
 
 

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